■長編小説「煉獄のサイパン」

●第十一章 3

1945年4月8日 

「終わったか」
 南洋特有の風が吹く中、傲慢な空気を発散する男は近づいてきた紙切れを持った男に淡々と口を開いた。アメリカ随一の『爆撃屋』、鋼の意志を持つ男カーチス・ルメイ少将だ。
 紙切れを持った男は、傲岸な男にしゃちほこばって敬礼を送ると、電文を自身の胸の前に持ってくる。
「ハッ。グリニッジ標準時1945年4月8日3時、日本時間0時、ワシントン時間4月7日19時、「オタワ宣言」を受諾に沿って、大日本帝国政府は連合国に対して降伏しました。全軍にも、改めて戦闘停止が命令されいます」
 男の言葉に、その場の空気が止まったようになった。伝言を言った連絡将校はもちろんの事、ルメイ少将をしてある種の感慨を抱かせる瞬間だったのだ。
 場所はサイパン島。
 彼の眼前では、無数の大型建設機械群れが、急ぎすぎるほどの進行速度で一度は破壊され尽くした基地を復旧している。遠くにはアスファルト工場が煙を噴き上げ、既に滑走路一本が稼働状態にあった。ルメイは復旧したばかりの滑走路を使い、4月に入ってすぐに大規模な無差別爆撃を行わせたほどの復旧の早さだ。復旧や支援物資揚陸のため大量の戦車揚陸艦を使い、岸壁や港ではなく砂浜から直接トラックで物資を揚陸させての復旧の早さだった。おかげでかつて激しい戦闘が行われたサイパンの砂浜は、半月ほど前から臨時の港として機能している。
 以前と変わりないのは、皮肉と言えば皮肉なことに、遠目に見える日本人捕虜収容所ぐらいだ。
 しかし、基地は今この時を以て役目を終えた。復旧しつつある巨大な飛行場は、いずれ民生用に使われる事だろう。日本人が降った以上、この基地にもはや価値はない。
 そしてルメイ以下、周囲いにいる人々全員の気持ちを代弁したように重厚な響きのサイレンが周囲に鳴りわたる。普段なら単に正午を告げるだけのサイレンなのだが、今日だけは特別だった。
 1945年4月8日のその日の正午、日本との戦争が終了したのだ。

 日本列島の主要部でソメイヨシノが散り始め、見事な桜吹雪の情景を作り上げたその日、日本にとっての絶望的な戦争は終幕した。
 日本政府およびその後の日本人のほとんど全ては『終戦』と呼んだが、『敗戦』に他ならない戦争の結末だった。
 そして日本にとっての終戦への道のりは、決して平坦な道のりではなかった。直接的な発端がサイパン島壊滅にあったとする後世の歴史家は多いが、サイパン島壊滅は大きなものではあっても切っ掛けに過ぎなかった。多くの人々の行動こそが、戦争終結をもたらしたのは間違いなかった。
 マリアナ基地群及びB29約300機の壊滅によって、アメリカは大きな衝撃を受けた。特に市民は、一連の戦闘での戦死者1万数千人、負傷者2万人(各飛行場と港、船団、硫黄島の損害合計)という数字に慄然となった。
 具体的な数字として、太平洋方面での厭戦気分が一時的であれ20ポイント以上も上昇したほどだ。たった一日で、それまで三年間に太平洋方面で受けた戦死者の数が一気に五割以上も上昇したのだから無理もないだろう。アメリカ人の多くは、日本との戦争は既に終末期に入っていたと感じていたから、尚更ショックは大きかった。
 だが、世界政治レベル及び世界史レベルで最も重大な影響を受けたのは、フランクリン・デラノ・ルーズベルト アメリカ合衆国大統領その人だった。
 ルーズベルト大統領は、サイパン壊滅によって戦争スケジュールが大きく狂う事を第一に危惧した。自らの名声に大きな傷が付きかねないからだ。また、サイパン壊滅より少し前、日本陸軍に連戦連敗を続ける中華民国に内心見切りを付けた事もあり、軍部の提示したマリアナ基地の復活まで三ヶ月という暫定報告を前に新たな外交方針変更を決意するに至る。
 もっとも彼の新たな外交方針は、アメリカ公文書上では全く新規なものではなかった。日本の終戦処理として、ソフトピースプラン、日本に対する条件付き降伏へと政策を変更する事だったからだ。
 すべては、ルーズベルト個人が歴史上不朽の名声を獲得するために。

 アメリカ政府及び軍上層部の短期的見通しにおいて、サイパン壊滅は日本本土に対する無差別爆撃計画の大幅な遅延だけでないと判断した。
 事実、B29による日本主要部に対する無差別爆撃計画は、最低でも3ヶ月遅延となっていた。
 しかもサイパン救援及び復旧、そしてサイパンを破壊した日本艦隊に対する復讐を優先したため、兵站物資の流れが変わってしまう。世界最強の破壊力を持つ高速空母機動部隊は、予定外の任務により沖縄侵攻の準備活動の段階から最低でも2週間の行動遅延を余儀なくされた。
 加えて、日本に勝利を与えた事で彼らの抗戦意欲が増し、自らの進行遅延により防御力が大きくなることが危惧された。これらを加味すれば、進撃速度はさらに遅延するだろうと目算された程だ。
 そして何より、一時の勝利により日本軍部の抗戦意欲が昂揚し、連合国側の絶対無条件降伏の方針が日本の降伏を遅らせ戦争を長引かせ、最終的にはソ連のアジア(日本、中国)への浸透を大きくさせるのではという懸念が強まった。
 これがルーズベルト大統領に方針の変更を決意させたと言われている。
 ルーズベルト大統領は親中的、親ソ連的政策を好んだ政治家だったが、彼はアメリカ合衆国大統領だ。当然ながら、ステイツの利益を大きく損なう可能性は出来る限り避けるようにも考えていた。でなければ、アメリカ市民が彼を支持するはずがない。また彼は4度も大統領に選ばれるほどの優れた政治家であり、長年培ってきた世界情勢に対する眼力は非常に優れたものだった。この時代で並び立つ者は、数名いるかいないかだろう。
 そしてヤルタの会談で、病状の悪化により思考力、意志力が低下してアメリカの国益を損なったことを内心後悔していたと言われている。だからこそ、サイパン壊滅は外交の失敗を巻き返す彼にとっての転換点ともなったのだと。
 そして彼は、サイパン壊滅の翌日には戦時情報局エリス・ザカリアス大佐を呼び出すと、彼の進めていた「1/45計画」、日本に国体護持を匂わせる謀略通信に承認を与えた。これにより連合国軍から日本に対して、無条件降伏ではなく国体護持による無条件講和の道が開かれる。無論、合衆国自身が日本との条件付き講和に動き出したことも意味していた。
 なお、ザカリアス放送の内容は、「日本(枢軸国)は降伏をすれば、大西洋憲章で謳われた「すべての国民がそれぞれの政府の形態を選択する権利」を享受することができる」と述べたものだ。これは「無条件降伏」が、国家や民族の全ての権利まで奪わないとするメッセージであった。
 一方で、日本への攻撃の手もなお一層強める事に怠りなかった。相手を屈服させるには、力も見せねばならないからだ。
 日本に対する攻撃は、サイパンの復讐を最優先事項とした。そこでサイパン壊滅の翌々日には、沖縄侵攻を遅らせてでも機動部隊に日本残存艦隊殲滅を厳命する。結果、沖縄侵攻の準備をしていた高速空母部隊の全てが、予定を大きく変更して3月19日横須賀軍港の《大和》を激しく空襲する。そして復讐の第一ターゲットである《大和》はじめとする横須賀軍港の過半の艦艇に対する攻撃だけを行い、修繕ドック、軍港自体に致命傷を与えることなく壊滅させる成功した。
 本来横須賀は、日本降伏後に米軍が利用するつもりで破壊を控える予定だったためだ。本来ならこの時のような激しい攻撃すら予定していなかったのだが、サイパン、硫黄島を壊滅させたアメリカの怒りが、《大和》もろとも横須賀攻撃を行わさせたのだ。しかし、やはり軍港施設自体の破壊は最小限に止められていた。このため、《長門》とドック入りしていた《信濃》は、辛くも生き残ることができた。
 一方日本は、サイパン壊滅の第一報以後一週間は、一部を除いて浮かれきっていた。大本営は攻撃成功を大々的に発表し、久しぶりの提灯行列と相成った。確かに、約300機の巨人爆撃機を根拠地ごと破壊し米軍機の大編隊がその日を境に来なくなったのだから、虚飾に満ちた数年間の大本営発表に馴らされていた国民も久々に心の底から熱狂した。
 だが、日本政府及び国民に対する現実は厳しかった。
 戦勝からわずか一週間後、提灯行列の翌日に米空母群が襲来し、帝都近辺の海軍を壊滅させたからだ。
 しかしサイパン壊滅以後、日本政府では幾つかの光明が見えていた。
 一つはルーズベルトが流させた連合国側の謀略放送。これにより日本側が矛を収める為の最大の障害が消える事が分かった。
 二つ目は、皮肉にもアメリカ軍の爆撃にあった。
 サイパン壊滅の一報のあったその夜、散発的な米軍重爆撃機(B29)の空襲があった。その時、意図したものか誤爆かは不明だが、市ヶ谷の陸軍大本営が狙い撃たれたように新型焼夷弾による炎の洗礼を受けたのだ。小型の爆弾には、頑丈な鉄筋コンクリートを打ち抜く力は全くないが、小さいが故に一部がガラス窓などから侵入、もしくは既に発火状態にあるゼリー状の油脂物質を室内に向けてまき散らした。
 そして戦果に涌く大本営では、深夜にも関わらず多くの将校が登庁して被害者となった。地上の最高司令部が爆撃されないと油断していたとしか思えない失態だ。だがこれにより、陸軍の佐官幹部を中心に数十名の大本営陸軍部の人々が戦死もしくは重度の負傷となった。軽度の負傷を加えれば数百名に達していた。そしてまるで棚ぼたのような大勝利に舞い上がった事で、抗戦派将校が数多く建物内に詰めていたため悲劇を大きくした。この点、サイパン攻撃作戦をほとんど極秘に進めていた海軍に対する陸軍の恨みが後に発生したと言われている。
 そして大本営火災による死者の数は純軍事的、統計学的には全く問題ない数字なのだが、日本国内に与えた影響は大きかった。天保銭とも呼ばれ、本来戦死の可能性がほとんどない陸軍中央のエリートの多くが戦死もしくは突如第一線から消えた事は、戦争を終わらせるべきだと考える日本の人々の動きを促進させたからだ。
 その最初の例として、負傷しただけの陸軍徹底抗戦派将校の多くが、不要なほど長期の入院を言い渡されたり、負傷の程度によっては予備役を待命されたりしている。
 そして残された徹底抗戦を唱える者達も、中心となるかなりの数の大佐から大尉クラスの幹部が戦死もしくは重度の火傷を負ったため、その後の活動は全く低調なものとなる。

 そしてサイパン壊滅以後、日本国内では水面下の争いが活発化する。講和派と継戦派による争いだ。
 講和派はフィリピンでの敗北ですでに日本の軍事的敗北は決定的で、サイパンに対する暁光とも言える攻撃成功は単に本土の破壊と、降伏を数ヶ月先延ばしできたに過ぎないと言った。
 継戦派は、サイパン壊滅による勝利を足がかりにさらに沖縄決戦で勝利すれば、より有利な講和が結べるばかりか反撃の糸口となると感情を交えて熱弁した。特に沖縄決戦には陸軍が熱心だった。この点、陸軍においては徹底抗戦も中道派も講和派も関係なかった。彼らの目的として、陸軍が戦争の主導権を握った上で終わらねば意味がないのだ。でなければ、海軍や政府に対して劣位に立たされてしまう。
 しかしその頃戦況は、政治を自らの権力ゲームとしている人々を置き去りにしているに等しかった。日本本土爆撃を一時的に阻止したからと言って、まったく楽観できなかったからだ。
 硫黄島が陥落寸前な事に変わりなく、米軍の巨大な軍事力による沖縄侵攻準備が最終段階に入りつつあるのは確実だった。さらに米空母機動部隊が3月19日に横須賀を激しく空襲し、関東地方の海軍航空隊と聯合艦隊が壊滅した事が講和派の援護射撃となった。最後の希望である《大和》が、安全な筈の国内の港で無惨に朽ち果てたのに、海軍が戦う術など残っているはずなかった。
 海軍好戦派が、横須賀で朽ち果てた《大和》を見て膝をつき落胆したのがその象徴だった。そして勝利の後の分かりやすい敗北のショックは予想以上に大きく、岸壁で崩れ落ちた《大和》の姿を見た海軍上層部の殆ど全てに終戦を決意させたと言われた。百聞は一見に如かずとは言うが、沈んだと口答で言われるより、その効果は百倍あったと言うことだろう。
 しかも米軍の第一遊撃部隊追撃戦及び横須賀空襲では、すでに本土決戦を考えていた陸軍航空隊は迎撃に不熱心であり、結果的に海軍の陸軍に対する恨みが増し、それが海軍をより一層講和に傾かせていた。
 そして短くも熱い議論の後、講和の可能性を模索する方向で政府の意見がまとまった。可能性の模索だけならと、徹底抗戦派の多くを失った陸軍も折れた。やはり国体護持が見えたことは、当時の日本上層部にとって極めて大きかったという事だろう。

 そして、後の変化は急激だった。
 後世の歴史家は、まるで明治維新初期の無血革命を見るようだと言ったほどだ。
 今こそが講和の千載一遇のチャンスと見た、日本の将来を憂う政治家・軍人達が行動を起こしたからだ。とは言っても、軍隊が暴力的なクーデターを行ったわけではない。そんな事をして革命政権をうち立てたところで、国際信用を得ることはできず講和どころでなくなってしまう。
 しかも彼ら講和派の行動は周到だった。
 彼らは、結局定見の定まらなかった小磯内閣を大本営爆撃の責任を理由にして倒閣に追い込み、3月17日には鈴木貫太郎内閣を樹立。そして昭和天皇が、3月19日の横須賀への激しい空襲の被害報告の上奏の際に終戦についてついに発言(「横須賀がやられたか」で始まる言葉で、戦うべき武器がないなら矛を収めるべきではないかと迂遠に現したもの。)。ラジオや新聞も、連合国に対する講和を容認するメッセージを発信。日本は講和に向けて大きく動きだした。日本は、政府が健全な思考を持っている点をアピールし、政府が機能している中での無条件講和を図ろうとしたのだ。でなければ、連合国がそれまでの持論を曲げて講和に動いた事に対する答えにならない。
 そして日本政府の意志は、中立国を通じて直ちに送られた。この点で問題があったとするなら、中立国の一つとしてスウェーデンやポルトガルなどだけでなく、日本との中立条約が存在したソビエト連邦を利用したことだった。
 なお、講和(降伏)に対する日本側の条件は大きく二点。「国体護持」とそれに連動する「国家の独立の保障」。つまり天皇の保全と日本政府の独立維持の保証だった。

 次に動いたのは連合国だった。
 日本の講和を求める性急な動きと声に、アメリカとソ連がそれぞれ反応を示した。
 ソビエト連邦は、破棄予定だった「日ソ中立条約」の延長をほのめかすと同時に、中立国として連合国との講和を仲介する用意があるという甘言を外相がほのめかす事で日本の降伏を遅らせ、ドイツ降伏後の対日参戦までの時間を稼ごうとした。ソ連にとっては、アジアで何もすることなく戦争が終わっては、アジア、中華問題で今後の国家戦略上極めて不利となるからだ。
 一方アメリカ合衆国は、ソ連の外交的動きに関してある程度正確に掴んでいたので、自らの行動をさらに加速させる。一端動き始めたソ連に杭を打ち込むための対日融和戦略を無駄にはできない。
 アメリカはイギリスとの短い協議の末、中華民国の同意を得て、以下の条件を盛り込んだ「オタワ宣言」を3月26日に発表する。ソ連に対しては、発表後に事後承諾を求めただけだった。
 ソ連最高指導者ヨシフ・スターリンは激怒したが、いまだドイツとの戦いの決着はついておらず、すでに「連合国」として声明が出されている以上、自らが政治的に敗北した事を受け入れるしかなかった。だいいち、表面上日本に対するソ連の立ち位置は、いまだ中立国でしかない。
 そして以下が、「オタワ宣言」の骨子だ。

 宣言内容
大日本帝国に対し戦争終結の機会を与える。そのために以下の条項の受諾を求める。
・日本政府の「カイロ宣言」の履行。
・日本軍事力の降伏、及び日本政府によるその保障。
・日本政府の存続の保障。
・天皇の保全。但し天皇主権の廃止。
・憲法の改定。民主化。
・日本陸海軍力の一方的制限。
・日本を世界征服へと導いた勢力の除去と処罰。
・軍国主義を助長した財閥の解体と再編。
・上記の項目を監視・管理するための占領軍駐留。
以上、受け容れられない場合は、迅速且つ完全なる壊滅あるのみ。

 ※「カイロ宣言」
・米英中の対日戦争継続表明(※1)
・日本の無条件降伏を目指す(※1)
・日本への将来的な軍事行動を協定(※1)
・満洲、台湾、澎湖諸島を中華民国に返還
・奴隷状態に置かれている朝鮮の独立
・第一次世界大戦後に日本が獲得した海外領土の剥奪
※1:オタワ宣言での除外項目

 日本政府にとっても予測はできた範囲内の条件だったが、内容はこの時初めて明文化された形になるカイロ宣言よりはるかに厳しかった。カイロ宣言より緩和されたのは無条件降伏に関する項目だけで、日本政府の無条件降伏を取り下げ無条件講和による日本軍降伏を軸にすると変更された。つまり日本軍は敗北するが、国家としての日本独立を守った上で戦争を手打ちにしようというものだ。
 しかし、本来なら完全な無条件降伏に追い込み、軍隊と重工業を徹底的に解体しようと考えていた事から比較すれば、大幅という単語では語れない程の譲歩だった。崩壊直前のドイツとの差をあえて見せたとすら言われたほどだ。
 もっともルーズベルト大統領が、大きく日本に譲歩した理由は定かではない。
 そんな中で、知日派のジョセフ・C・グルー国務次官による尽力が影響しているというのが有力説だ。知日派の彼は、常に天皇の何らかの保全を基本としたソフトピースを押していたからだ。しかも彼はルーズベルト大統領本人によって、1944年半ば以降外交の事実上のトップとなっている。そうした人事の変更もあって、ルーズベルト個人の内心が原因とする説も強い。ルーズベルトは自らの死期が近いことを悟り、存命の間に戦争に幕を引きたいと考えたからだとされる説だ。これは、死後直前に日本降伏を大いに喜ぶ話を側近にしている事からも信憑性が高いし、日本降伏後すぐのドイツに対する攻撃の積極姿勢の指示からも肯定されている。
 また客観的には、ドイツとの戦争が最終段階に入っているので日独同時降伏による自身の政治的名声のさらなる上昇を狙ったとするもの。さらにソ連(スターリン)の貪欲さをチャーチルに厳しく諭され、ソ連が日本に戦端を開かないうちに日本を降伏させようとしたという説も一部では言われ続けている。その証拠とばかりに、ソ連政府は日本が急速に終戦に動いた段階で、中立条約の延長をほのめかしたり、満州をソ連に渡す事と引き替えに名誉ある講和を持ちかけるなどの行動に出ている。
 もっとも日本との戦争の幕を引いたルーズベルト大統領は、4月12日に突如病死してしまう。死因は単なる脳溢血だったが。彼にとっての救いは、存命中の日本降伏だろう。
 無論、日本降伏に至る道のりは決して平坦ではなかった。「オタワ宣言」を巡り、日本では連日激論が交わされる。
 政府は最初、国内感情から「考慮に値する」と声明を発表した。だが、新聞各紙は政府の見解発表と平行して抗戦論を展開。軍強硬派も講和派に対するテロ未遂に及ぶなど、日本人の交戦意欲はまだまだ高いとアメリカを始め世界に印象付けてしまった。
 このためアメリカは、日本の反応如何で中止もしくは延期を予定していた沖縄侵攻作戦「オペレーション・アイスバーグ」にゴーサインを出す。総数50万人、作戦参加艦船数5000隻とも言われる空前絶後の大艦隊に対する作戦発動命令だ。
 しかし大侵攻艦隊の先鋒となる高速機動部隊は、《大和》殲滅のためスケジュール外の出撃を強いられ、サイパンで集結中だった沖縄侵攻向け船団の一部も大損害を受けていた。このため、4月1日を沖縄本島上陸のDデイとしていた沖縄侵攻は、丸二週間遅延されていた。ただし、沖縄侵攻延期はアメリカにとって不利益はなかった。「オタワ宣言」が3月26日で、日本の回答に対する行動開始が3月28日だった。そして二週間の沖縄侵攻延期は、ちょうど日本本土南西部に対する事前攻撃を含めて、3月28日の空母機動部隊出撃が正式なタイムスケジュールだったからだ。
 そして史上空前の米機動部隊のウルシー環礁出撃から4日後の4月1日、米艦載機群が二日間かけて神戸、呉、広島、北九州の軍事拠点を激しく空襲。日本政府に最後の決断を迫る。また同時に、強引に一部が再建されたサイパン島基地とグァム島北飛行場(新設)を使い、日本本土に対する大規模夜間無差別爆撃(約100機)を実施。帝都東京の下町は、数万人の死傷者を出す被害を受ける。
 この攻撃を受けて、政府首脳部の煮え切らない会議に、講和関係者は御前会議を画策。いっぽうで徹底抗戦派は沖縄決戦開始を前に色めき立ち、講和派をテロやクーデターを行ってでも潰そうとする。
 また一方では、ソ連の甘言に乗って動く楽天家の講和派もかなりの数に上り、御前会議をもってしか事態収拾は不可能として最初の会議に入る。
 そして会議では、講和派の尽力により「日本国政府の独立の保障」を「国体護持」と考え受諾を決定。これが4月2日。
 そして4月3日、日本側は自らの意思を正式に表明。日本政府は、宣言を受け入れるが天皇主権の廃止についてのみ拒絶すると伝えた。
 これに対して連合国は4月6日、「日本政府の政体は、日本国民によってのみ選ばれる事を保障する。ただし、連合国最高司令部が監視を行うものとする」とだけ回答。その報が日本政府に届いた。
 これで日本中枢部は再び混乱。一部の強い反対に対して、一気に再び御前会議へ持ち込んだ。
 かくして4月7日の御前会議で宣言受諾が決定されて詔勅が発せられ、すぐにも連合国に宣言受け入れを打電。
 翌日正午の「玉音放送」で日本は、連合国に対して無条件講和による降伏に応じた。徹底抗戦派に動く時間を与えない迅速な行動だった。
 それは、桜舞い散るあまりにも日本らしい春を感じさせるある晴れた日の事だった。

 ただし、オタワ宣言受諾前には予想通りと言うべきか、日本国内で混乱が見られる。
 陸軍青年将校の一部は、オタワ宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させようとした。
 しかも彼らは「決戦内閣」を樹立すべく、4月8日未明に一部部隊が皇居やNHKなどを占拠しようとし、実際一部は行動に移された。だが、同志の不足と陸軍首脳部の同意が得られず失敗に終わった(宮城事件)。これとほぼ同時刻、陸軍大臣阿南惟幾が割腹自殺し、陸軍の暴走を抑える人柱となった。
 また、講和派が主軸を占めていた海軍は、海軍各施設に中隊以上の陸戦隊を配備し、東京各地の各岸壁から中隊規模の陸戦隊を送り込む準備をしていた。これは、陸軍急進派が暴発することを予期したものだ。これらの海軍部隊が陸軍との戦闘に至らなかったのは幸いであり、また海軍の決意と威圧が徹底抗戦派を多くを押さえ込んだのも事実だろう。だがここに、《大和》を見捨てた陸軍に対する海軍の恨みを強く見ることが出来ると言われる。何しろ海軍は、自国の陸軍を抑える為に中破状態の《長門》を動かそうとしたほどだ。
 そして終戦時の混乱もあって、戦後になると旧海軍は善玉、旧陸軍が悪玉という考えが定着したと言われる。

 条約調印は、政治的効果を狙って天長節(今上天皇(昭和天皇)誕生日)の4月29日に東京湾上で行われた。威風堂々と東京湾に入港してきた英米の大艦隊は、本来なら今頃沖縄近海にいる筈の艦隊だ。また、ほぼ同時期に満州とオホーツク方面の占領統治に向かいつつある大船団と軍団は、沖縄などに侵攻予定の軍団だった。
 そして調印とほぼ同時に米軍による日本軍施設、海外領土の占領が各地で開始され、日本軍の占領地、海外領土からの一斉引き上げも開始される。

 かくして日本列島は、ドイツのような無惨な無差別爆撃や本土戦に晒されることなく戦争を終えることができた。
 米軍の沖縄侵攻部隊は、沖縄本島の事前空襲を前日に控えたところで引き返し、沖縄は寸前で完全な壊滅を免れた。満州や南樺太でもドイツのようにソ連軍の蹂躙と強制連行を受けることなく戦いを終えることができた。
 このため日本の戦死者及び空襲などによる死亡者の数は、本土戦が行われるまでの初秋もしくは盛夏まで戦い続けた場合より100万人以上少なく済んだと言われている。特に本格的な都市無差別爆撃がほどんとなかったため一般市民の死者が計数的に少なく済んだ事は確実で、死の直前のルーズベルトの英断は戦後の日米友好の最初の出発点にもなり、今も世界的に評価されている。
 また一方で、最後に国家に対する奉仕と義務を果たした海軍、特に《大和》に対する国民的人気は今なお衰えるところがないと言われている。
 そして、結果的に《大和》を沈めることに貢献した二人の男女にとって、終戦のその日は他の日本人と同様かそれ以上に感慨深いものとなった。

「終わったんですね」
 山科法子は、太い桜の幹に片手を当てながら、近づいてきた男に目線を合わせるでもなく感慨深げに語りかけた。
 彼女は小高い丘の上にそびえる大きな桜の下で、どこか別の場所を見るように視線だけを一つの場所に注いでいる。服装は、日支事変前後に流行った少し艶やかな色合いのワンピースで、それが彼女の心情を表しているようだ。それに応じるように咲き誇るソメイヨシノは満開から徐々に散り始める頃で、風がそよぐたびに周囲の空間を淡い桜色で染め上げている。
 彼女が語りかけた男は彼の兄であり、海軍大佐にして軍令部の要職に位置する軍人だ。また、大東亞戦争の幕引きの発端となった作戦を計画立案し、そして国家の一部要人と図って日本を終戦に導く一助となった男でもある。当然ながら作戦後は、それこそ家に帰ることもないほど奔走していた。
 だが今の彼の顔は、日本本土帰投以後崩れることの無かった険しさが取れ、妹の目から見てようやくかつての兄に戻ったと感じられる表情をしている。ありきたりな表現を用いれば、憑き物が落ちたようだと表現すべきだろう。
 ただし服装は濃紺の海軍第一種軍装で、瞳から知性と意志の力は失われておらず、妹に対する口調も相変わらずだった。
「そうだ、終わった。だが、何を腑抜けている。お前の情報と提案は、結果として国をも動かしたんだ。誇りを持てとは言わんが、少しは自覚を持て」
 兄の言葉に、法子は小首をかしげた。
 妹の方も、それまでの緊張感ばかりが先行する表情から、本来のものであろう柔らかみが戻っている。そんな、幼さすら感じる妹に兄は言葉を重ねた。
「サイパン島での正確な情報を用いた攻撃は、結果として作戦自体が無差別殺戮や破壊ではなく純軍事的な作戦として米軍の側から捉えられている。無謀な突撃ではなく、緻密に計算され尽くした国土と国民を守るための行動だった、とな。もっともこれは、敗者を持ち上げて自分たちの方がもっと偉いんだと結論付けるアングロサクソン特有の論法だ。しかし、お前がもたらした情報がなければ、俺達は全て吹き飛ばしていただろう。お前も含めてな。
 あと、硫黄島を攻撃させて、米軍の復讐心を爆撃再興ではなく《大和》単体に向けさせた効果は絶大だ。米軍の方針も硫黄島攻撃で復讐の方向が変わったらしい。これで艦隊が無事帰投できた可能性が高く、結果として助かった者も多数いたのはもちろん、硫黄島からは終戦を受け入れる旨の現地司令部からの連絡があったそうだ。それを伝えたくて来た。
 それと、目に見える形で《大和》が徹底的に破壊されたおかげで、海軍の戦意は総崩れだ。特に前線を知らなかった中央の連中は、落胆甚だしってやつだ。《大和》が横須賀で無惨な姿を晒してくれたからこそ、これほど早い敗戦に結びついた。そう言う意味では、《大和》は文字通り国を救ったのだ。お前もな」
 どこか突き放したような兄の言葉に、法子は現実に帰ったように真顔になる。
「兄さんこそあの作戦を立案なさって、多くの人を救ったじゃありませんか」
「かもしれん。が、俺は甘かった。三ヶ月は大丈夫だと考えていたんだが、一ヶ月と経たず米軍は無差別爆撃を行ってみせた。一回きりだったが、1週間前の爆撃では、東京の下町で1万人以上が死傷した。被害の詳細の一部は、いまだ分かっていない」
「けど、何もしなければ、空襲は今の何倍、何十倍の被害をもたらしていた筈です。……見てください、兄さんが守った街です」
 一呼吸置いて言葉尻を叫ぶように言った法子は、右手を大きく前に突き出し手を広げた。声に応えるように一陣の風が吹き、桜吹雪が彩りを加える。だが、それよりも兄博にとっては、法子の笑顔と大らかな仕草が、ハンブルグの大爆撃で出逢いそしてその後の爆撃で死別したエリザの影が重なったように見えた。
 そして法子が示した天然のパノラマの先には、横浜市街と遠く東京市街が広がる。よく見れば、遠くに宮城の緑を見ることができ、もしかしたら銀座のビル街も見えるかもしれない。
 二人の立っている場所が彼らの横浜の実家で、市中心部から少し離れた小高い丘の上にあったればこその大パノラマだ。この時代、後に首都圏と呼ばれる都市部であってもまだまだ高層建築は少なく、工場煤煙や排気ガスによる大気の汚れも少ないので、遠くの空まで澄み渡っている。
 なお、この時法子が横浜の実家にいるのは、3月19日の空襲で海軍病院が満員御礼となって居づらくなり、その間隙を兄博が突いて憲兵の監視付きという条件ながら戻すことに成功していたからだった。
 もっとも、憲兵の監視も今日限りだ。今し方の昼を告げるサイレンを以て戦争は終了し、今この時、日本中、いや世界中のラジオは史上初となる昭和天皇の肉声を流している。
 この場所にも、屋敷の居間に据えられた家具のようなラジオから、大音量で雑音だらけの玉音放送が切れ切れに流れてきている。
 と、博が首を傾げる。
「ところでお前、どこで終戦を知った」
「兄さんの忙しげな姿を見ていれば、自然と分かります。ああ、戦争が終わりに近づいているんだなって。それに家に戻ってみたら、色々な方が家を出入りしているんですよ。軍務とは違う重大事が動いている事は察しが付きます。憲兵の方も、どちらかと言えば私の監視より、家と兄さんの警護って感じでしたし」
 少し強面な顔を作る兄に、法子は悪戯っぽい笑みを浮かべる。兄の方は、強面から一転唖然とするが自然緩やかに苦笑した。
「参ったよ。流石あれだけの情報を頭の中に入れていただけの事はある。それに大した観察力だ。しかし、これからは別の事に使え。国家が総力を傾ける戦争は、今日限りで終わった。だが、一つのことが終わったに過ぎない。お前は、大学にでも入り直して国家のために尽くしなさい。軍人たる我々の役割は一旦は終わった。だがこれからの日本は、男女を問わず一人一人の日本人の時代となるだろう。お前ならうまくやれる」
 いつもの説教がかった兄の言葉に、法子は一度真顔で頷いた。
 そう、彼女のやるべき事は多い。兄の言うとおり戦争以外の事で何かを成したいとは思ったが、まずはサイパンに残してきた人々だ。彼ら彼女ら、生きているであろう人々、死んでしまった人々と再会し、事が終わったことを確認しなければならなかった。
 でなければ、彼女にとっての本当の意味での終戦は決してこないであろう。
 法子は、眼前に広がる桜で彩られた巨大都市を見つめながらも、心の視線は遠く廃墟となったサイパン島を見ていた。

 



●あとがき へ