一. 元寇

 十三世紀当時、比較的完成されていたとは言え、未だ擦文(縄文)文化からさして進歩していない文明形態しかもたなかったアイヌ人が、今日のような国家を形成した最初の要因は、世界最初の地球規模での世界帝国にして、当時世界最大の版図を擁していた騎馬民族の帝国の一部、モンゴル帝国の中枢とされた「元」帝国の最大の敵である南宗に対する政治的、経済的な封じ込め政策の一環として行なわれた対日侵攻とされている。
 もっとも、この侵攻は当時世界情勢を知らなかった鎌倉幕府の無知がもたらしたとも言え、「元」としては海の向こうにある辺境国家の事など、当初は半ばどうでもよい存在でしかなかった。しかし、その小国が世界帝国の体面を著しく傷つけた結果、「元」による対日侵攻が行われたのだ。

 世界史でも知られているとおり、西暦一二七四年に行なわれた「元(モンゴル)」帝国始まって以来の大渡洋侵攻は、日本以外の各地の抵抗運動などの要因により砂上の楼閣となり、水際で迎え撃った恐れを知らない(単に無知から来るものだったが)日本軍(鎌倉幕府御家人衆)の必死の抵抗の前に大敗北を喫することとなった。
 記録によると、秋も深まった頃に襲来したモンゴル兵たちは、朝鮮半島との間に存在する小さな島嶼を文字通り電撃的に粉砕すると、日本列島に対する本格的な橋頭堡となる博多湾に押し寄せる。
 ただし、モンゴル人たちが博多湾へ押し寄せたのは、鎌倉幕府の宣伝工作の結果であり、彼らが守りやすい地、つまり古代からそのための準備が行われた城塞都市・太宰府を控える地に、モンゴル人達がおびき寄せられたと言う説も存在する。
 そしてモンゴル軍は、博多湾への上陸当初から日本武士団による中世的軍隊特有の波状攻撃を受ける事となり、橋頭堡を作り得意の集団戦や騎馬蹂躙戦を行う前に攻撃力を消耗し、上陸初日に確固たる橋頭堡を確保する前に侵攻軍そのものが能動的攻撃力を喪失する程の損害を受けた。
 モンゴル軍にとっては、全く予想外の展開となった。なにしろこれでは、今後本格的侵攻で必要になる日本軍との戦闘データすらまともに集められなかったからだ。
 そこで、現地モンゴル軍は一日で撤退する当初の予定をのばし、さらに戦闘を継続する決意を固める。
 だが翌日の戦闘でも、盤石の橋頭堡を築くべく無理な進撃を行いさらに大きな損害を受る事となり、Dディ三日には侵攻軍全体のレベルにおいて軍事的に壊滅とも言える打撃をこうむり、防衛に必要な戦力すら失った事から撤退を余儀なくされる。

 モンゴル人達はたった三日で日本から去り、日本軍の防戦成功という結果をもたらしたのが、戦略面での結果だった。
 もっとも、迎撃した現地日本軍の損害も激しく、元軍以上に壊滅的状態だったと言う文献が各種確認されている。恐らく、あと一日モンゴル軍が無理押ししていれば、太宰府を中心とした九州北部はモンゴル人の支配するところとなっただろう。
 しかし、結果はモンゴル軍の純軍事的な敗北だったのだ。そして、この敗報が世界を動かす事になる。

 「元軍破れる」。この異常事態(弱小国に純軍事的敗北した事)を重くみた「元」帝国は、南宗への最後の総攻撃への政治的影響を最小限にすべく、日本に対する再度の侵攻を企図する。
 つまり、次の対日侵攻において南北からの挟撃により日本を徹底的に叩き潰すことを決定し、そしてその片翼たる北からの侵攻は、アイヌの本国にあたるモショリ島が橋頭堡とされる事がこの時決まった。
 そしてモンゴル人たちは、モショリから順次日本側の防備の手薄な蝦夷地方へ軍を進め(当時はアムール河河口あたりとクイエ島・モショリ島は地続きと思われていた。)、十分に準備期間を置き、隊伍を整えての万全の日本本土征服を行おうとした。
 このため、北からの侵攻軍に、「元」帝国は帝国の誇る騎馬軍団や北の大地での行動に馴れた従属民族であるツングース系兵士を主力とした一万の兵力を割くことを決定する。日本中枢に対してこれでも足りない分は、他の地域での侵略同様、現地住民のアイヌ民族を支配した後に使う事とされ、その準備も行われた。
 北からのモンゴル人による侵攻は、規模そのものが比較的小さかった事から、日本側が「文禄の役」と呼んだ戦役の翌年、一二七五年に早くも開始され、その年の冬には大陸に隣接したクイエ島に凍り付いた海を歩いて渡り、文明と呼べるものが存在しない地域一帯をまるで無人の野を行くように瞬く間に制圧、その次の年の一二七六年夏には、それまでにアムール川で準備しておいた急造の船を使いモショリ島へとなだれ込んだ。
 この時モンゴル騎兵は、九州方面と違いまともな迎撃に会う事もなく、また当地のアイヌとよく似た生活習慣を持つツングース系民族の特徴をよく研究し、彼らを勝つべく対策を立てて挑んだため征服はスムーズに進み、十分な拠点を確保するやモショリの野原で得意の騎馬蹂躙戦を開始し、短期間でのモショリ島制圧が可能となった。
 モンゴル軍侵攻当初事態を楽観していたアイヌ達も、クイエ島制圧を始め、モショリ北部のいくつかの部族が支配されるに及び、各部族はこの民族の危機に対して一致団結しモンゴル人との戦争を開始する。
 しかし、アイヌ人にとって自分たちの総人口の半分近くに達するこの侵攻軍は、物量と言う軍事においてもっとも重要な要素で到底対抗できる相手ではなかった。また彼らの使う武器、戦術はアイヌの力ではどうすることもできない程高度で強力だった。火力、機動力、統率力、情報収集能力、全てが卓絶していた。
 時代を少し遡っては欧州勢力を手もなく破り、当時世界最高度を誇る中華文明を圧倒しつつあった高度な軍事力と、擦文文化時代で停滞していたアイヌとの差は、文明レベルにおいてはアステカやインカを蹂躙したスペイン軍よりも絶対的な差を持っていたとすら言えるだろう。
 それでもモショリ各地で抗戦が続けられ、アイヌは地の利のみを味方としてトリカブトの毒を用いた弓を主戦力とするゲリラ戦で対抗したが、「元」帝国軍は不慣れなモショリの深き森に苦しみつつもアイヌの各部族を確実に征服していき、約二年続いた抵抗虚しくシャモ(日本本土、本州)に逃れた者や、モンゴル人が踏み込めないカムイの住まうさらに深き森へと逃れた一部のものを除けば、全てのアイヌがモンゴル人の軍門に下ることとなる。
 時に一二七八年秋の事だった。
 モンゴル人は遂に本州を臨むツガル海峡に達したのだ。だがここで、元軍はさらに海峡を渡航しなければならない為、再びその歩みを止め次の準備の為の停滞を余儀なくされる。
 モンゴルを拒むものは常に海だった。

 しかも、このたび征服した民族はシベリア各地のツングース並の文明しか持っておらず、到底すぐに北の荒海を渡れる大型船を建造能力はなく、予想外に虚しく時を浪費する事になる。このため、モショリに帝国各地から大型船を建造する能力を持つ民族を持ち込み、彼らを軸にアイヌ人たちに軍船建造をさせる事態になってすらいた。
 モンゴル人達も、ここまでアイヌの文明程度が低いとは考えていなかった故の誤算だった。
 もはや、本末転倒と言ってよいだろう。
 しかし、北部対日侵攻軍にとって幸いと言うべきか、「元」帝国の第二次対日侵攻自体は大失敗に終わる。もちろん、原因は北部方面軍にはなかった。それどころか北部方面軍は、数年間努力を重ね北の辺境の大地に中華大陸の優れた文明を持ち込み、短期間でかなりの数の軍船を建造し、蝦夷各地の偵察すら行っていた。その努力は、古えのローマ人にすら匹敵しただろう。
 そしてあと数年あれば、問題なく侵攻作戦も行えた事が、残されたモンゴル側の文献や、発見された出土品などからうかがう事ができる。
 つまり侵攻失敗の原因は、良く知られているように南からの侵攻が原因だった。
 南からのその数十四万人と言われる史上空前の対日侵攻軍は、日本側が待ちかまえているのが分かっているにも関わらずまたも博多湾に殺到し、日本軍が数年間かけて築き上げた水際の防御網、つまり海岸沿いに築かれた長城線につかまり、博多湾での橋頭堡の確保に長期間手間取っている間に、日本人達がその後「神風」と呼ぶようになった暴風雨(恐らく夏型の大型台風)により壊滅してしまったのだ。
 日本を中華文明化するための使い捨ての元南宗軍や朝鮮半島住民が兵力の過半とは言え、この敗北は元帝国にとっても大きなものだった。
 なお、たった一夜で十万人以上の軍隊が壊滅するという事態は、核を用いない限り今日においても発生していない。
 このため、アイヌ全土を征服し、東北地方への侵攻の準備段階にあった北からの侵攻も自然に中止へと追いやられた。もちろん、時の皇帝フビライは三度対日侵攻を企てたが、各支配地域での反乱激化による兵力不足などにより中止された。もちろん、既に足場を築いていたモショリにある北部方面軍単独での侵攻も計画されたが、初期計画にあった挟撃作戦が崩壊した以上、少数の別働隊だけで海を隔てた比較的規模の大きな文明圏へと侵攻しても戦略的に無意味とされ、これも中止されている。

 ただし、フビライの方針もあり、軍船の整備・建造とアイヌを使っての奥州地方の偵察活動はその後も続けられ、日本に対して小さくないプレッシャーを与え続ける事になる。
 そして、モンゴル人はせっかく手に入れた新たな領土であるモショリから退く気は全くなく、領土化を推し進める。これはこの地が、日本人たちとは違う民族により構成されていた事が大きな要因でもあったし、モンゴル人にとっても最も大切な放牧地として有望な土地(イッカリ平野やコンセン大地など)がモショリの各地に存在したからだ。
 もっともこの支配は、支配というよりも文明的には古代民族に定義されるアイヌを中世的民族にしたてあげ自らの一部となし、今後の世界征服の先兵にしようという、モンゴル人の思惑が濃く反映されたものとなった。
 そのため過酷な支配の元、海洋技術、牧畜技術を中心とした大陸の進んだ技術が大陸から多数もたらされ、アイヌ人たちに伝えられる事となる。また、支配に必要な人材が多数大陸からこの小さな北の大地に渡たって来て、モンゴル人による統治を補強した。当地方法は、他の後進地域と同様、モンゴル人を頂点とする直接統治が採用された。
 その後モンゴル人による支配は約七十年間続き、当然アイヌ人の文化、文明、技術に多大な影響を与えることとなる。モショリの森が切り開かれ広大な放牧地となり、小麦栽培などの農業による定住が行われ、商業の勃興によりモショリの大地に最初に街が作られたのも、このモンゴル人の支配時代が最初になる。
 これら中華文明の導入により、モンゴル人侵攻当初二〜三万人程度と見られたアイヌ人の人口は、侵攻直後の低下から急速な上昇に転じ、彼らが去るまでに十万人以上に達する事になる。
 そしてこの支配は、ちょうど唐の時代にモンゴル人達が中華中央から受けた支配に似たものだった。そう、彼らは唐がそうであったように、新たな支配者を自らの手で育ててしまったのだ。


二  祖国奪還