二. 祖国奪還

 一三四五年の夏のある日(アイヌ史では夏至の日と言われているが、歴史的一次資料からは詳細不明)、モショリ島から日本(シャモ)の当時蝦夷と呼ばれていた東北地方北部に亡命していたアイヌが、当時のリーダーであった族長アテルイを先頭にモショリに押し寄せ、南部の要衝ウソリケシにあったモンゴル軍の対日侵攻用要塞を攻め落とした。
 これを合図に、かねてからモンゴル人の苛酷な支配に耐えかねたアイヌ人は、アテルイ達の草の根活動により広がったネットワークを使いモショリ全域で一斉に蜂起し、モンゴル人の支配に対し反旗を翻す。
 しかもシャモより帰ってきたアイヌ達は、かつてモンゴル軍が侵略に際して用いた火薬を用いた兵器『鉄砲(テツハウ)』を手に手に持っていた。

 モンゴル人の侵攻により海を越えてモショリ島から逃れたアイヌは、東北地方に居住していた同族や日本中央部から追われた蝦夷(エミシ)と呼ばれる人々に助けを求めた。そして彼らは、当地で産出される当時としては莫大な量となる砂金を財源として経済力・軍事力を蓄え、シャモ(日本人)の技術者や商人を雇い、現在の多々羅市(釜石市)にて大規模な製鉄を起こし、彼らに対抗するため彼らと同様の武器『鉄砲』のフルコピー並びに火薬兵器の独自開発を開始した。さらに彼らはシャモを越え、海を渡りモンゴル人に抵抗していた人々(朝鮮、中国、越南)を集め、数は少ないが強固な対蒙古武装集団を形成していった。このためか、欧米ではこの集団の事を「リベリオン」や「アベンジャーズ」と呼ぶ事もある。
 この奇妙で危険な集団の動きは当然鎌倉幕府の知るところとなったが、「弘安の役」以後も依然としてモンゴルの脅威を感じていた幕府は彼らを日本人の楯とする考えを持ち、単にこの武装集団を黙認するだけでなく、暗に支援すらしていた。これを示す資料は、鎌倉幕府の文献や資料には殆ど残っていないが、アイヌ側の資料には恐らく元南宗の出身者が書いたと思われる、漢文による官僚的な文書や木簡が幾つか残っている。

 この武装集団は、リーダーに恵まれていた事も幸いして組織は拡大の一途を辿り、成立から約半世紀後には、人口こそ少なかったが小規模な国家に匹敵する勢力へと成長していた。もちろん、日本の中でも後進地域だった東北地方北部の近在豪族の中では最大級の存在となっていた。
 ちなみに、彼らモショリを離れたアイヌ人達は、自分達の事を『レプンアイヌ』と呼んでいた為、この集団のことは当時『レブン』と呼ばれ、またこのレブンはアイヌ最古にして現在最大の企業グループ『レイブン(麗分)』の最初の姿でもある。
 しかし大きく成長した彼らであったが、母なる大地へ帰還を果す前にまず、当地の人間達を相手にしなければならなかった。
 最先端技術を持った強力な武装勢力を、権力者達が黙って放っておく訳がなかったからだ。その力を欲し、恐れた権力者達が、最初は恐怖に裏打ちされた高圧的な恭順と服従を求め、それがはねつけられると武力で以て従わせに来るという流れこそあったが、このような事例は世界のどこにでもあるので、今更細かく触れる事もないだろう。
 そして、すでに地方権力者達に恐れられる程に力をつけていた『レブン』達は、最初の一戦で奥州近在の地方豪族を結集した数千の軍勢を文字通り一蹴し、モンゴルとの戦いに絶対必要とされた、日本史上初の本格的騎兵集団を使いその後各個撃破を繰り返し、彼らの侵攻部隊の過半を殲滅する。
 そしてこれを一つの機会としたレブンは、今後の同地域での禍根を断つため、その後全面的な攻勢に転じ、圧倒的な機動力と火力により有力者の全てを攻め滅ぼし、東北北部一帯を日本の幕府や朝廷の支配の及ばぬ自分たちの自治独立地帯にしてしまう。当然、当時の幕府の役所と駐留するわずかばかりの軍勢も全て殲滅していた。
 そしてこれが、アイヌ的と呼ばれる過剰防衛反応の最初の例とされている。

 だが、この時点でアイヌ達は、まだ独立や国家の成立は宣言はしなかった。規模的には十分にその資格はあったが、彼らにとって国の建国や独立とはモショリの奪還によって初めて成されるものであり、また多数の外国人が集団に属している事から、国家よりは単に集団としていた方が都合がよかったからだ。
 そしてこのレプンの軍事行動は、当時ちょうど日本全土が鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、室町幕府成立の混乱を経て、日本人にとっては太平記でお馴染みの南朝と北朝の争いの真っ最中にあり、当分はこの地に介入できる中央勢力が存在しないため、自然と既成事実化されてしまう事となり、その後正式にアイヌの領土とされていくことになる。
 ちなみに、日本史ではこれを『礼文の国崩し』や『蝦夷(エミシ)の国取り』と呼んでおり、長い歴史の中で坂上田村麻呂らが一度は征服した大地を、日本人から見て奪い返されたのだからそうとも呼べよう。
 もちろん、アイヌではこれは建国史話として半ば神話化されている。

 すこし話が逸れてしまったが、そのようにして海を渡り力を蓄えて戻った『レブン』達は、それまでのトリカブトの毒を塗った弓矢ではなく、手に手に『鉄砲』をはじめとする火薬をもちいた武器で極度に火力戦装備を充実させ、モンゴル人と同様の騎兵すら用意し、正面からモンゴル人に戦いを挑んだ。
 モンゴル人は、ウソリケシに上陸した『レブン』達を見て驚愕した。自分達より近代装備をもったもの達が本当にあのアイヌなのかと。たしかに出立ちはアイヌの衣装を着けているようだが、洗練された武器、統率された動き、どれをとっても自分達の知っているかつてのアイヌの姿ではなかった。その姿はむしろ自分たちや中華大陸人に近いものがあった。
 そして既にかつての勢いを失っていたモンゴル人は、既に本国が大きく勢力を減退させており、このような辺境に助けをよこせる筈もなく、その後各地で蜂起したアイヌ達の力もあり当地のモンゴル人たちは一気に勢力を失い、戦意を喪失した彼らは瞬く間に討ち滅ぼされた。
 半年後、命からがらギリヤーク海峡を渡ることができたかつての支配者達は、ごくわずかであったと云われている。そして、生き残った一部の者はそのままモショリに定着し、アイヌと同化していく事で消滅していったとされている。
 なお、レプンそしてアイヌがこれ程短期間にモショリ島の主権を奪回できたのは、単にモンゴル人全体の勢いがなくなっていただけでなく、レプン達により実に周到に奪回のための工作が行われていたからに他ならない。この事もあり、この後もアイヌ人たちは単なる軍事組織以外にも、情報や謀略を担当する組織を重視するようになったと言われ、これが最終的に海外への膨張へとつながっていく事となる。


三  アイヌの統一体制の確立