三. アイヌの統一体制の確立

 モンゴル人による支配と彼らに対する反抗で民族の結束を強めたアイヌ人は、彼らを撃退したその時、もう二度とこのような侵略を受けないようにと、さらなる結束を強化を図った。
 つまり国家の形成である。
 ただし、アイヌ人による国家と言ってもそれまでの擦文(縄文)文明から、先進文明を持ったモンゴルによる奴属的な支配を受けただけの民族が、いきなり中世的な封建国家が形成するには問題があまりにも多く、合理的な考え方からどちらかと言えば中世的な封建国家よりも、かつて地中海で君臨したローマ帝国のような強力な中央集権体制を画策していたレブンの指導者達もこれには妥協せざるをえず、結局は多くの国がたどった道筋をたどり、急速ながらも段階的な国家の形成を図ることとなった。

 アイヌにおける最初の統治体制は、モンゴルや中国の支配体制を参考にしつつも、自分たちにはそれらと同じ統治体制が難しいと判断し、モショリ島とクイエ島、クリル諸島の環オホーツク圏にある大きく分けて八つの集団に分かれていたアイヌ人と、アイヌと合同する事を決めた、もしくは決めさせられた近隣民族による分断統治体制を基にする事となり、各集団の首領(首長)から会議により王を選ぶという選王制度が取られた。これは、モンゴルの「ダイハーン」制度を元にしていると言われている。
 また各集団の首領は、モンゴルの支配を受けるまでは必要な時に各集団のコタンの村長の中から全ての民による直接選挙で選ぶという原始民主主義的なものだったが、この制度は元帝国の統治の間に、決まった一族が村を統治するというごくありきたりな形に変化させられ、さらに地域全体の領主にあたる各集団の首領には「元」帝国の代官が統治する事で、モンゴル人による統治体制を作り上げていた。そして、アイヌによる祖国奪還がなされた時、特に南方部族ではレプンの中の有力者が新たな首領として迎えられる事で民族的にも制度的に完全に崩壊していた。さらには、レブンの集団の長以外も祖国奪還で功績のあった部族内の氏族が各地で実権を握る事となり、それに次ぐ働きをした氏族、多々良など優れた技術を持つ氏族もそれに準じるものとされた。
 今日では、これらを根元氏族と言い、アイヌの国として最初の成り立ちを形成し、その後のアイヌ貴族の根幹をなしていく事となる。また、こうした経緯が、その後アイヌ人全体であらゆる役職・位は職業ないしは家業という考え方を大きな価値観として持つようになっていく。そして、近世では学校でなく家が子供を教育するという事が一般的な事とされ、後にドイツのマイスター制度によく似た徒弟制度を形成し、アイヌの価値観を補強していく事となる。なお、根元氏族とは西欧的には、伯爵以上の位の高い国に貢献した貴族とほぼ同じ社会的役割を持っている。
 そしてアイヌ貴族は、こうした根元氏族の成り立ちの影響で必ず優れた技術・能力を持つ事が氏族内はもとより国民からも当然とされ、貴族イコール大きな責務が伴うという考えたが一般的となった。これは、西洋での『貴族の義務』とよく似ているが、建国の経緯からアイヌの考え方はより貴族にとって厳しい価値観と言え、この点からも当時極めて弱小だったアイヌが、尋常でない心境で国家を作っていたかを伺う事ができる。
 そして、この考えがアイヌの国をして、東洋的というよりも西欧的なものにした最大の原因だと言われている。
 なお、こういった歴史的流れから、役人も中華帝国的な試験選抜による官僚制度を持たず、当初は知識的な問題もあり根元氏族が取り仕切る事となり、合理的な集団から起こった事もあり極めて職業意識の強い集団となった。この流れから役人にも貴族同様強い個人的な責任が付与される。そのため賄賂・怠慢と言った事とはかなり距離を開けており、この点でも他の亜細亜国家とは大きく異なっている。
 この職人的な制度によるプロフェッショナルの育成という半ば制度化された体勢は、職能の分化と清廉化という点では優れており、国が小さなうちは極めて有効に機能し、国を大いに発展させていく事になるが、権力の中央への集中という意味ではとても弱いものであり、後年商人が力を持ちだしてもそれを制御するには王の権力が弱く、それが交易商人達の勢力をつけさせる事に繋がり、それが民族的に国の目を国内より国外に向けさせ、中世型貿易帝国としてのアイヌを成立させていく要因となっていく。そして商人(企業)の影響力は一五五一年のアイヌ国成立後、さらには革命後、そして今日に至っても巨大なものとして残っている事は間違いないだろう。最も、職業意識の強さが商人や市民を、暴力的な市民革命などに駆り立てなかったのもアイヌの大きな特徴と言えるだろう。
 ただ、例外的職業として兵士があり、王族・貴族が率い、士族が指揮し国民全てが戦うという、この考えは何時の時代でも国民全ての意識の中にあった。この点は、どちらかと言えばモンゴルなどの騎馬民族的と表現して良いだろう。それとも、ギリシャのポリス市民に近いかもしれない。

 ともかくこうして一三四七年の夏至の日、ウソリケシコタンの首領アテヌイを初代王としてアイヌ国が成立することとなった。また、蒙古駆逐並びに建国に多大な貢献をした『レブン』は、一部は長でもあった初代王アテヌイに付き従ったが、大半のものは東北地方の一部(エミシュンクル)を領地として王並びにカムイ(宗教での神もしくはそれに類するもの)より借り受け集団としての権利を得た。また集団となる事の代償としてシャモ(日本人)に対する防人の任につくことにもなった。ちなみに、レブンに多数所属していた外国人も一部帰国していった者達以外の多くは、建国と共にモショリやエミシュンクルに住みアイヌに帰化している。そして、この外国人の最初の帰化がきっかけとなり、その後の積極的に外部からの移民を受け入れにようになり、アイヌ人の民族血統的多様化と全体的な人口の拡大政策へと繋がっている。
 しかし、ここでひとつ問題が発生した。それは深き森へと落ち延び、かつての暮らしを守っていたアイヌたち、通称『リクンアイヌ』もしくは『カムイアイヌ』と、成立したばかりの国の対立、つまりかつての暮らしを頑なに守ろうとするものと、新しい暮らしを身につけたもの達の対立であった。
 民族全ての元の暮らしへの回帰を頑なに願う『リクンアイヌ』に、一時は建国側の強硬派が武力に訴えようともしたのだが、建国王アテルイの仲裁により和は成され、『リクンアイヌ』は自分たち本来の姿と民族の伝統を守るものとして扱われ、また彼らの住まい、また大いなるカムイがおわす深き森は王の領地とされ許可無く『リクンアイヌ』以外のものの立ち入りが禁じられ、古きアイヌと新しきアイヌは住み分ける事とされた。
 そしてその後一世紀ほどをかけて『リクンアイヌ』たちは、依然として自然崇拝をしていたアイヌ人全てにとっての心のよりどころとなり、それが発展して一つの宗教ならびに文化保護機関としての機能を持つようになった。これは八王家の一つが強く支援する事で補強され、後に国教として日本の神道のような存在へとなっていく事になる。ちなみに、この時決められたリクンアイヌの領域は当時でモショリ全土の半分に達すると見られ、今日でも巨大な原生林地帯として知られる王立公園領という形でアイヌ本土の二割がその名残として残っている。

 こうして国として取り敢えず骨格を形成し終えたアイヌ国が、次に着手した事業が骨に肉を付ける作業、「富国強兵」であった。民族としての結束を強化し、軍事組織のさらなる構築を行い、その基盤となる国力の増大のため産業、狩猟と交易、鉱業(金鉱採掘)の強化、拡大だった。
 全ては、外敵から二度とアイヌとモショリの大地を蹂躙させないためで、アイヌ人の国はまさにこの為だけに存在しており、今現在においてもこの国是とも言える方針には何ら変更はなく、どの民族、国家よりも強く国民に意識されているとされ、実際本格的な民族的侵略を受けたことのない日本などと比べるとその差は歴然としている。
 なお、狩猟(漁業)の拡大は、モンゴル人が支配していた時より進出の進んでいたチウプカ列島、イテリメン地方、コリャク地方、アレウト列島など北太平洋、オホーツク方面からモンゴルを駆逐しつつ、他民族を同化しながら進出強化と勢力拡大が図られた。
 交易の拡大と武器の入手は、主にシャモ(日本人)と、新しく起こった中華帝国「明」よりの輸入と、国内産業の充実により図られることとなった。ただし、この当時のアイヌの他民族同化政策は、基本的な点において元帝国の統治方法を採っており、かなり強引な民族同化が行われたと思われる。それは、本来微妙に違う形を持った文化が多数あるはずのオホーツク海一帯の地域の全てが、アイヌ的な文化になっているのが動かぬ証拠だろう。
 そして、さらにそれらオホーツク地域への進出により多数の金山が発見され、この新たな財源も交易・産業の発展を支える大きな力となり、また北方地域への移住の先駆けともなっていった。
 そしてこの時期に、オホーツク文化本来を中心としてモンゴル文化、日本文化、中華文化を吸収しつつ今日我々のよく知るアイヌ独自の文化の基礎が醸成され、イオマンテ祭り、ユーカラ、ウタリ伝承などに代表される口承文化としての「アイヌ文化」が完成されることとなった。また、同時に今日一般的な中世アイヌ人として知られる姿が定着したのもこの頃である。
 しかし、この当時のアイヌの記録は、アイヌが元々口承文化民族だった事から、漢文表記による中華語による文書か、縄文文化的な絵文字的なものしか残っておらず、日本人の大規模移住による日本語の大幅な導入などにより作られた、今日使われているアイヌ文字、ウタリ仮名、アイヌ語の完成はもう少し待たねばならなかった。ちなみに漢文表記が多かったのは、元帝国の支配下だったアイヌ本土とレブン双方が、文明を取り入れ利用する際に、それまでの中華近在の国家同様漢字を使用していた事による。


四  享徳の役