四. 享徳の役

 十四世紀半ばにしてようやく国家として出発したアイヌ人が、真に近世国家として発展する最大の要因は、日本人にあると言える。
 モンゴル人による侵略と支配は、結果としてアイヌ人に民族意識を持たせ国家を形成させる事となったが、それは文明的・時間的限界からせいぜい中世的国家としてであり、実際成立した当時のアイヌ国は、一部突出した経済力、技術力はともかく、政治、文化、産業、そして特に国力=人口という点では、隣国日本と比べるとはなはだ心許ないものであった。当時のアイヌ人は、建国時の国の特徴として多くの面で上向きであり、懸命であり多くの施政は実を結んでいたが、何事にも限界はあったのだ。

 そうした中、ちょうどアイヌの建国から一世紀ほどたち、さらなる飛躍へと向けて確実に歩みを進めていた十五世紀半ば、アイヌの南に存在した日本人たちの手による中世的な統一政権は、十四世紀に『レブン』達によって奪われた東北一帯の支配権の奪回を行おうとしていた。
 当然、この政権とは『室町幕府』であり、日本史上でも必ずしも高い評価を受けている政権ではなかった。それだけに、この時の日本人達の計画も根拠のあまりないものだった。
 この室町幕府による「蝦夷遠征計画」とも呼べるものは、日本にとって北狄の蛮族である筈のアイヌ人が、とても豊かであると言う風聞を真に受けた一部の守護大名の言葉に、自分たちの北の大地の国の実状について極めて疎かった幕府中央が踊らされ、おりしも深刻化していてた守護大名の権力の増大と内政の腐敗と国論の乱れを、外部への侵略と略奪によりごまかそうとした幕府の国内政治的側面が強かった事を当時の文献が示していた。
 幕府はこの遠征で、誠に手前勝手な政治的算段により国内問題を全て解決しようとしていたのだ。
 強大化した守護大名を侵略戦争による動員と戦争そのもので疲弊させ、その後是正されるであろう力の差を以て幕府に対して従順にさせ、自らが傷つかない対外戦争という目的で国内意識を団結させ、遠征成功による敵国併呑と占領地からの略奪で財政問題も解決させ、遠征に協力した者達にはそこから報酬を分け与える事でガス抜きとそれなりの服従を求め、それら全てにより幕府の権威と武威を高めることで短期的に政権を安定させ、さらに戦時という事で官僚団の再編成を目論んだ。
 だが、結果的には全て失敗し、幕府の権威をより低下させる事になったは、歴史でもよく知られているとおりで、まさに「絵に描いた餅」と言えるだろう。

 この室町幕府の身勝手な理由から起こった横暴とも言える北に対する軍事行動は、当然アイヌ人との戦端を開く事となった。
 アイヌ人としては、シャモ(日本人)の内政的な身勝手な理由で『エミシュンクル』(アイヌ人が命名した東北北部の名称)を失う訳にはいかなかった。なにしろこの地域には、国最大の製鉄場があり、また唯一の米作による穀倉地帯であった。つまり、国家の生命線であり力の根元だったのだ。
 だが、彼らシャモの力は巨大で、十数万の大軍を率いて、このアイヌの生命線を蹂躙しに来るという情報が伝わってきていた。
 このシャモの大攻勢を察知したアイヌは、圧倒的な物量に対抗するため、急速に国力の限界までの軍備の増強を急ぎ、それを効率的に進めるためそれまで実行に移したくても移せなかった国家の中央集権体制への強化を図った。
 そして中でも絶対的な兵力差を埋める事のできる新兵器の輸入、開発、生産が急がれた。特に重視されたのは、日本人が持ち得ない馬格の大きな大陸馬による騎馬集団の根こそぎ動員と、短期間で劣勢を補うことが容易いと考えられた前方投射型火薬兵器の数々だった。
 量産化された火薬兵器は、元帝国の時代に使われた「鉄砲(てつはう)」から発展した中華帝国「明」より輸入された『石火矢』と呼ばれる短射程の携帯型前方投射兵器の改良型で、その弾として『鉄砲』を進化させた炸裂弾を装填して発射できるように改良がなされ、それが炸裂することにより多数の敵を倒すものだった。
 ただ、これは射程距離に問題があるため、その点を補完できる単に鉛の礫を打ち出すだけの『石火矢』の改良型も多数生産された。敵歩兵の集団を威嚇で押し止めるのなら、これでも十分な威力だったからだ。
 ちなみに、これらの武器とこの名は戦国時代に入って日本にも広まり、炸裂弾を発射するやや大ぶりな前方投射兵器の事を『天雷』、弾をより遠くへ投射する『石火矢』だった。『石火矢』の方はさらに細分化され、大型で地面に固定するタイプのものを『大筒』、小型で人一人が楽に形態できるものを『鉄砲』と呼ぶようになる。そして、鉄砲は西欧製のマスケット銃と出会う事で、「種子島」と共に「南部鉄砲」、「麗分鉄砲」として日本全土に爆発的に普及する事となる。

 装備を整えたアイヌは、同時にこの兵器を有効に利用した戦術も新たに考案していた。
 それは、従来の築城方法をより火力戦に適した形へと変更し、火力が可能な限り常に敵に対して高い密度で投射できる形へと変更する事だった。さらに射撃を容易にするために、今までは山などの防御に適した地形を選んで築城していた要塞を開けた土地への築城とし、その周りを深く広い壕で囲んだ。その形は、イタリア構城術として欧州で確立した近世要塞とほぼ同じ形態を持っていた。
 そして、アイヌでの最大の築城での変更点はその規模だった。要所要所に構築された拠点用の城塞、特に東部戦線の平野部の城塞は、壕の周りだけで当時としては破格の数キロメートルにも達しており、その中に貯えられた備蓄物資は、一万人の守備隊が一年は戦えるだけ備えられていたとされる。
 そうした巨大な城塞を中心として、いくつもの小さな城塞が国境近辺の街を中心に構築され、その一つでも攻略できないと国境深く侵攻できないよう巧妙に築かれた。これは一つの城塞で敵の侵攻を防ぐのでは無く、それぞれを有機的に結合して攻め寄せる大軍を防ぐのが目的だったためだ。当然、城塞の過半は交通の要衝に存在していた。
 そしてこの戦術を可能にするために、彼らはエミシュンクルとシャモの国境近くの重要な拠点ごとに野戦築城を開始した。とくに最重要拠点である釜石に通じるルートは、モショリ本土から多数の人夫を動員してまで入念な築城が行われ、そのラインを中心に国境地帯一帯が深い奥行きを持った強力な要塞地帯となった。軍事史上では、この複合要塞線は「カムイ・ライン」と呼ばれ、現代でもアイヌ人が関わった要塞線や陣地、封鎖線をこう呼ぶ事もある。
 また、この要塞線の特徴は、それぞれの要塞の過半が土塁で覆われた一時的な「野戦陣地」であって、本当の意味での「永久要塞」ではなく、その守備部隊は状況によってその「要塞」を放棄する事を前提にした野戦築城である事も注目できよう。これも、アイヌ側が少ない兵力を可能な限り効率的に運用しようとした発想からきている。アイヌは、一種の機動防御戦術を考えていたのだ。
 また、アイヌでは、モンゴル人がその支配の間に残した馬格の大きな大陸馬をもとに、彼らの主力兵種である軽快な騎兵集団も広く導入していた。これは、当時の日本には全く存在しない兵科であり、この当時すでに西洋で云う「重騎兵」、「軽騎兵」、そして火力兵器の充実により「竜騎兵」が中隊〜連隊規模でいくつも編成され、野戦での切り札である機動打撃力として、数千の規模で存在していたとされている。
 ちなみに、この当時そして戦国期の大半の日本の武士や大名が保有していた騎馬武者や騎乗士は、重騎兵ではなく西欧での旧来型騎士にあたり、当然だが騎馬だけを集団で運用する事は前提にされておらず、さらに徒歩の従者と共に運用する事でせっかくの機動力も失っており、しかもこの当時の日本馬は馬格も小さく(今現在のポニーよりも小さいぐらい)、大陸伝来のモンゴル馬により編成された、圧倒的スピードと集団による強い打撃力を持ったアイヌ騎兵の敵ではなかった。数百年経っていたが、状況はモンゴルのバツーによる欧州遠征と違いなかったのだ。
 もっとも、「騎兵」はこの戦乱の後、戦国の世で一部の武将がアイヌ馬と呼ばれた大陸馬と共に使用するようになり、それが後に広まって戦国末期には日本でも一般的な兵種として定着するようになる。この事から、日本人たちにとって火力兵器よりも、「本当の」騎馬軍団の威力が大きく映った事がうかがえるだろう。この点もモンゴル人による欧州侵略と似ている。

 そして、遂に戦端が開かれた。
 アイヌの国境全てを改造するような防御陣地構築がほぼ終わろうとしていた一四五五年皐月、ようやくまとまりに欠ける国論を統一し、巨大な遠征軍を編成した室町幕府は、十三万にも及ぶ軍勢を将軍の名代の大守護大名が率いさせアイヌとの国境を一斉に突破した。世に言う『享徳の役』の勃発である。
 この日本軍の侵攻に対してアイヌは、『レブン』を中心とした六万の軍勢を国境一帯に配置した。これは当時のアイヌのほぼ総動員と云われており、それを裏付けるように、当時の文献や絵巻物の中には多数の女性の姿が戦場にあったことを伝えており、その影響からか、おとぎ話レベルで若い女性兵士の活躍を伝えた話がいくつも残っている。もっとも、実際王族や貴族に属する幾人かの女性は戦場にあり、部隊を指揮していた事を示す文献が多数見つかっており、この事からもアイヌ貴族の職業意識の高さを見る事ができよう。また、文献などが伝えていた女性の姿の大半は、たとえそれが騎馬であっとしても戦線後方での兵站・支援(補給・整備)活動が主だったと分析されている。それは、アイヌ軍が基本的に重武装であり、国内戦か遠距離への進出を重視していた事から、後方支援組織の編成に熱心だったからだ。

 戦端が開かれると、アイヌのもくろみ通り大陸的な攻城戦が各地で展開され、中華地域の技術を用いたアイヌの築き上げた城塞は、日本軍を国境からわずかに入った場所で釘付けにした。特に、西部戦線は山岳防御という事もあり、終戦まで日本軍を釘付けにした。
 日本人たちは、アイヌの巨大な城塞に攻めあぐねた。
 単に深い堀で囲まれた巨大城塞ですら初体験のできごとなのに、そこから各種の火力兵器が惜しげもなく投射されるのだから、そのショックは極めて大きなものがあった。世界初の砲弾神経症が発生したのも、この戦役からだとされるぐらいだから、そのショックが推察できるだろう。
 そして戦線が膠着してしばらくすると、今度は防衛線の後方から日本人に全く馴染みのない馬格の大きな馬で構成された騎兵集団が、日本人の軍事常識からすると圧倒的な機動性を保ちつつ突然姿をあらわし、日本軍戦線を突破すると後方部隊を瞬く間に蹂躙し、場合によっては一軍そのものを包囲殲滅して見せ、その力を余すところなく発揮、大いに幕府軍を翻弄、撃滅した。これが、現代戦史学者の云うところの「(北緯)三十九度線の攻防」である。
 だが、基本的に相手の三倍と言う攻勢側の原則を満たし物量に勝る日本軍は、要塞戦と騎馬蹂躙線のノウハウを高い授業料と長い月日を費やして払って得ると、徐々にアイヌを圧倒し始める事となる。ただし、騎馬軍団はモンゴル馬が大量に調達できない事からその点はどうしようもなく、一部日本馬で構成された部隊も編成されたが、最後までアイヌの同兵科には同数で対抗する事はできなかったし、各種の火薬兵器も捕獲したものが尽きると、それを自らの後方から多数入手する事は難しく、こちらもアイヌの戦術を完全に取り込む事には短期的には失敗している。

 その後戦争は、双方の予測を裏切り二年の長きに及んだ。戦争が長引いた原因は主に日本側にあり、侵攻軍の統率がとれていない事から、全軍で統一された行動をする事がなく、一軍が戦っている間は他の軍は後方で待機し、別の一軍が本国に後退しても、別の一軍はその場に残りと言う状況が続き、これが戦争の長期化を促したのだ。もちろん、この間に日本軍が被った損害は大きく、当時としては破格の数万人に及んでいると見られる。
 そして、結果として双方一歩も譲らず激しく戦いそして疲弊したが、物量にものを言わせた日本軍は平地である東部戦線を一年以上かけて押し切り、ついに彼らの力の根源である釜石多々羅を指呼におさめるところまで進軍する。
 この頃には、幕府軍もある程度の全軍の統率を作り上げ、数万の大軍を問題なく運用できるようになっていた。
 そしてその年の水無月、ついに決戦が開始される。火薬兵器がその力を減じ、ぬかるんだ足場で騎兵の衝撃力が減る梅雨の雨が激しく降る季節を狙って日本軍が攻勢に出たのだ。
 この戦いではアイヌ軍二万三千、日本軍四万五千人がキタカミ盆地で激突し、アイヌではその総指揮官の名から「コシャマインの戦い」と呼んでいる。なお、コシャマインとはこの当時の皇太子の一人の名前であり、その中でも有力者とされている。
 戦闘は、単純な野外決戦としてスタートし、それ故に平地での戦いに慣れ、また兵力的にも勝る日本軍がアイヌの火力に苦戦しつつも物量で押し切る形で有利に進め、大軍の側面突破を許したコシャマインはたった一日で破れる事となり、アイヌ軍は潰走とも取れる程の状態で山間部へと追いやられた。この当時、アイヌにとっての野外戦力の主力である騎馬軍団の多くが後方で再編成中だったのが、日本軍に対して機動力で劣る状況を作り、致命的とすら言える敗北を呼び込んだのだ。
 この点では、日本側の情報戦の勝利とも言えるだろう。苦手ならば、なるべく相手にしない方法を考えればよいのだから。
 そして決戦から数日後、アイヌ軍主力残存部隊は山間部の都市要塞にこもり、幕府軍三万がこれを包囲した。兵力差は十倍近くあり、落城も時間の問題と思われた。
 だが、アイヌの力の根元であるカマイシ(釜石)を背後に持つキタカミヌプリ(北上山脈)で、最後にして最大級の城塞であるトオノ(十斧)城にこもったアイヌの残存軍は、ここで釜石多々羅(現在のカマシシ製鉄所の原型とされる)でつくられたあらゆる火薬製の武器を使用した。
 アイヌの幸運は、この最後の拠点が最後であるが故に釜石に近かった事、そこで作られた膨大な試作兵器の数々が戦場に間に合った事、そして何より軍の潰走により、臨時に指揮官となった人物が、前線指揮官として極めて優れた合理的思考を持つ人物であり、また極度の火力戦主義者だった事だろう。残念な事にこの人物の名は現代には伝わっておらず、ただ古戦場跡にその偉業を称えた石碑を残すのみとなっている。
 ちなみに、ここで投入された兵器は今までのものをさらに発展させたもので、一世紀後アイヌが世界中の戦場で一般的に使うようになる兵器の試作品群であった。大型の石火矢、天雷、そして『鉄砲』。さらに明で『火箭』と呼ばれているものに近い形をした、現代の言葉で言うロケット弾もあり、これらの兵器に共通するのは、どれも優れた前方投射兵器だと言うことだった。
 事前にその使用を知っていた味方ですら怯えさせたといわれるこれら大型火力兵器の一斉射撃は、攻め寄せる日本軍をただの一撃で粉砕し、潰乱させてしまった。といっても、現代でも遮蔽物のない場所での、圧倒的な重砲の弾幕射撃に耐えられる軍隊など存在しないのだから、日本のサムライ達を責めるのは酷と言えるだろう。
 そして、このアイヌ側の思わぬ反撃により士気の面から総崩れとなった幕府軍は、多くの指揮官がMIA(行方不明=戦死と思われる)により不在となった不幸も手伝い、我先に国境を目指して逃げ散ってしまい、その頃ようやく体勢の整った、増援としてアイヌ領各地から到着した騎兵を中心としたアイヌ軍による掃討戦が展開される事で日本軍はエミシュンクルからことごとく撃退される事となった。戦闘の最後はまさに「騎馬蹂躙戦」と呼ぶに相応しいものであり、日本との国境へと続く道は、矢がいくつも突き刺さるか、赤黒い穴の空いた日本兵の死体で埋まっていたと、凄惨な戦場の様子を当時の文献は伝えている。

 こうして、最初の日藍戦争は終わりを告げた。だが、その戦争の後遺症は双方とも重く、特に組織的に硬直化していた室町幕府は、その後遺症に苦しむこととなる。
 それを現すかのように戦乱の混乱が一段落すると室町幕府は、すぐにアイヌに使者を送りエミシュンクルより北をアイヌの地と認めそれより南を日本のものとし、互いにそれを犯さない為に、正式に国交を開くことを求めてきた。また、アイヌの武力に怯える幕府は、同盟条約の締結も和睦の内容に盛り込んでいた。これにより今日よく知られている中世のアイヌと日本の国境のおおまかな所が正式に決定したのである。
 そしてこの戦争で著しく軍事的、政治的力を消耗した室町幕府は、中央政府としての統制力をほぼ失い、日本はその後すぐ発生した、地方有力者どうしによる全く無定見な内乱、「応仁の乱」を経て日本版百年戦争である「戦国時代」を迎えることになる。これにより日本の中央勢力は、蝦夷へ関心を向ける余裕が無くなる事となった。しかし、それにもかかわらず、アイヌはその後も国境の守りを固め国力のさらなる充実を図ていった。


五  国家体制の整備