五. 国家体制の整備

 アイヌ人は享徳の役の後、今までの緩やかな統治体制から戦時中に形成されつつあった中央への統治体制の強化、統合の動きを促進させ、新たな国家体制の確立を図り、より一層の「富国強兵」を促進した。
 これは、主に日本に対抗する為であり、日本史上最大級となった戦乱が自分たちのテリトリーに飛び火した時のための予防策でもあった。
 また、十六世紀に入り、ようやく実を結び始めた国内産業全体の発展と馬匹を多用したモショリ島、クイエ島での全島規模の交通手段の発達によりその促進は約束され、自らの努力と欧州からの強引な技術導入により発展した外洋航海技術を以て広く海外への進出が本格化した。特に一五〇四年に中華大陸帝国を介在しない大陸交易拡大を目的として開始された「西征」と呼ばれるシベリア遠征は、その後半世紀かけて文明国の存在しない北部ユーラシア大陸全域を席巻し、ついには東欧にまでその足跡を印し、その時のアイヌ人の軍事的行動が欧州に「タタール二度目の衝撃(セカンド・インパクト)」と言わしめるほどのショックを与え、当時の世界帝国であったオスマン・トルコ帝国と陸路と海路での通商路を開くほどの領土的膨張をアイヌに経験させ、中央政府により強く柔軟な組織化が必要となった事から加速する。
 そして一五五一年、今までの集団統治体制をさらに強化、つまり完全な近世的な中央集権と独自の絶対王政による王権を確立し、アイヌ国(チコモタイン・アイノ王朝)を成立させ、それに合わせた国としての体裁を整えていった。

 新たな王政と政治形態は、結局のところ長い経験と実績を持つ中華大陸国家の制度が見本とされ、国王にはほぼ絶対的な決定権が渡され、その下に強力な職能的官僚団を持つ事となった。また、補助機関として国王の補佐をする元帥(大臣)が設置された。この極端な国王への権力集中は、常に外敵に備えなければならないと考えるアイヌ人が民族の存続というただ一点から選んだ制度で、民族全てが賛同した絶対王政というのも世界史上稀な例と言えるだろう。
 つまり、中華大陸に成立した絶対的権力を持った皇帝による中華帝国とは、根本的に違う性質を持った国家と言う事になる。なお、制度的にはむしろ大陸の向こうにあるオスマン=トルコ帝国に近いと言えよう。
 またアイヌ国の制度は、中華帝国が宦官(宮廷)、官僚、軍人による三竦みで帝国を成立させていたのとは違い、それよりもむしろ西欧の近世政府に近い、王族、貴族による政府、貴族、士族による軍事力を民衆が監視するという形を持っていた。
 そしてその根幹をなす官僚団は、以前からの職能集団としての氏族制を残しつつも、それをより強化する為、厳しい選抜試験と実務経験により選ばれたより高度な技術者集団として再編成されていた。そして、単なる秀才集団を求めず、経験に裏打ちされた実務経験を重視している点が、中華帝国政府とアイヌの違いでもあった。
 ちなみに、亜細亜で一般的な官僚による賄賂政治が国内で強く忌避されるようになったのもこの頃と言われている。それは、極めて職業意識の強い民族意識と、自身の仕事に対する名誉意識がこの頃完全に定着した事を表していると言えよう。また、古代の中華近隣国家のように、中華大陸帝国から直接制度を導入しなかった事も、その大きな要因と思われ、アイヌが腐敗官僚による国力衰退を殊の外恐れていたのが見て取れる。アイヌは、国家の頭脳たる官僚たちに個人的な責任感を与え、さらに勤勉、清廉、名誉を何よりも求めたのだ。
 なお、この改革のなか経費のかかるようになった海軍は、その全てが国王のみが保有できるものとなり、王以外の権力者との違いを決定づけた。
 そして王自体も、アイヌの制度は他国に比べて極めて特殊なものとなっていく。
 それは、一つの強大な家による世襲王朝(帝国)ではなく、八集団(八王家)の皇太子(女)の中から国王を選ぶと言う選王制度に、旧来からの基本的な違いはなかったからだ。ご存じと思うが、これは元々モンゴル帝国の「汗王制」を見本としてアイヌ独自に制定された制度の名残だったが、当のモンゴル帝国でも問題があった事を教訓として、より自分たちの制度にあったものへと変化させたものだ。この点もオスマン朝と似ている。しかし、女性でも絶対権力者たる王になれる制度に作られていた点、絶対者の血族に権力が与えられなかった点は、アイヌ人が儒教の悪い部分での呪縛を受けてない事を示しており、中世的、近世的亜細亜国家にあっては極めて特異と言えるだろう。
 アイヌのシステムは、絶対権力者もしくは象徴としての王ではなく、王に職業としての役割をより強く求めていたのだ。
 このため、この時の主な改訂点は、王となるべき人間は、基本的には各王室から血統的な優先順位でなく最も優れた者を集め、その中から官僚団の代表と元帥(大臣)達により選ばれる事となり、国王候補には厳しい選抜制度が定められ、勇気なき者、無能な者は決して国王にはなれないとした形にさらに強化された事だ。
 これは、アイヌの限られた国力をより有効に活用するために生み出された伝統的な考え方を昇華させたもので、大国の外圧に苦しむ小国ならではの知恵と言えるだろう。そして、この制度は極端に言ってしまえば、「天才的指導者」を人工的に作り上げる制度と言えるかもしれない。しかし、そうした強大な権力を持った優れた統治者を必要とする程、当時のアイヌ人の国が巨大化していた裏返しでもある。
 ちなみに、賄賂などによる裏工作を行った王族、貴族、官僚に厳しい罰則が定められたのもこの頃だが、賄賂などを最も不名誉な事と考える意識が高い事から、そう言った事態になることは文献の上では殆ど見つけることが出来ない。
 そして、この制度はこの当時確立した強固でかつ清廉な職業意識を持った官僚集団とその制度、中央への軍事力と権力の集中が有機的に結びつき、一種の常時挙国一致体勢により、この国を一時的に世界帝国とすら呼びうる大帝国へとのしあげていく事になる。
 だが、この時代にこういった高圧的な政治体制は、本来ならまだ受け入れられないものだが、常に外敵に曝された国という意識を国民全体が持っていた為、熱狂的に支持される事となったのだ。もっとも、これには交易を国家的事業としての交易などの産業政策が、国内に莫大な財をもたらしていた事と、それを国が国民にある程度還元していた事、国が人口増大の為国民そのものを大事にしたからこそ長く継続したと言えるだろう。何時の時代でも、腹が満たされていれば民衆は大抵文句は言わないものである。
 また、中央集権の布石の一つとして、一部の王家が積極的に養護していた「カムイアイヌ」が、王室の神聖化と言う古今東西よくある統治方法の中に深く取り入れられた。そしてその副産物として、兵役につかない王家の子女は必ず「巫子(巫女)」としての鍛錬を積む事で祭事を司るのが伝統的な慣例として取り込まれ、兵役が男子のものとして一般化した革命以後は、今日よく知られているように、特に女性の王族が「巫女」としての修行を積むため森社(りしゃ)に修行に出されるのは有名だろう。そして、一般においても西洋のような寄宿学校として、現代にも伝えられている事は説明するまでもないと思う。
 また、この頃になると八集団(八王家)同様、すでに世襲されるようになっていたそれ以外の有力な力を持っていた各領地やコタン(農村)やカン(都市)の領主の中世的な貴族化が進み、その勢力や血縁的な繋がりと、徒弟制度による職業分化が階級の細分化を産んでいった。
 その階級の分化は、歴史の授業でも必ず取り上げられるが、日本の士農工商などとは少し違い、王族や貴族、士族以外は全て衆民という考え方で、職業ごとにその腕前により縦割りされた社会制度を持った社会構造だった。この徒弟制度は、現在でも我が国とその影響国で、高校、大学が学術学校としてよりも技術専門学校としての側面を多く持って存在しているのは皆さんもよくご存じと思われる。
 そして、この後十六世紀末までに定着した身分階級が「王=貴=士=衆」で、これはそのまま戦時での立場となり、アイヌの国防政策をそのまま現したものとなっていた。この辺りは、モンゴル騎兵の流れを汲んでいると言えるかもしれない。
 また、絶対王制や封建社会に付き物の宗教的な階級や階層が最初から王族や貴族と同化されている点は、他の国と完全に一線を隔てていると言えるだろう。そして、これが早期に絶対王制を確立させた大きな要因ではないかと筆者は考えている。
 そして、国内に王と対立する宗教的権威が存在しない事は、アイヌが産業国として発展するのを約束しているとも言えた。
 ちなみに、アイヌの職業意識から十七世紀には、世界最初の兵学校が設立されている。だが、設立当初は士族以上のもの為の教育機関としての側面が強く、「一族」で初級一般教育を終えたある程度の年齢に達した子女の高等教育機関であった。しかし、軍事教育が当たり前のようにカリキュラムに組み込まれていた事から、この学校制度が世界初の兵学校と呼ばれている。


六  富国強兵