六. 富国強兵

 アイヌ人は新たな王朝体制を確立すると、さっそく「明帝国」、「室町幕府」、「李氏朝鮮」、「安南」、「オスマン=トルコ帝国」、「ムガール帝国」、「タタール」、「サファビー朝・ペルシャ」、「ローマ教皇」など国境を接したり繋がりを持っている世界中の政治勢力に対して、自らの新たな国家体制の成立を告げ、その存在をアピールした。
 しかし、建国後も建国前の方針は変更はなかった。主に本土近隣の日本(室町幕府ではない)に対抗する目的の為だけに、交易と軍事力の強化、さらなる拡大を行っていったのだ。
(ユーラシア大陸でのアイヌの活動については、また別の機会に論じてみたいと思う。)
 だがここで、アイヌ人は彼らにとって飛躍的な発展を約束するであろうものと出会うことになる。
 ガレオン船である。
 当時、やっと初期型のカラック船(帆船)建造を実現し、それにより東南アジアにまで通商航路を開拓したアイヌ人にとって、遥か南蛮から来訪したポルトガルが所有したガレオン船の存在は、これまで以上にどこにでも交易を可能とする交易船として、そして北の毛皮を求めてさらなる遠方へ赴ける狩猟母船として、極めて食指をそそられる存在だった。
 また、大規模な海外交易の発展とガレオン船を有する赤人(白人)が毛皮や金を欲しがっていることにより、交易と狩猟の強化は必要であり、そのためにはなお一層ガレオン船を必要とするようになった。そして何より、彼らとの競争に是非とも必要だったのは言うまでもないだろう。
 アイヌ人は、そのための努力を惜しまなかった。
 何しろ、カラック船からガレオン船に発展するのに欧州では約一世紀を要し、彼らのとの競争のためにもそのような無駄な時間を浪費する事は許されなかったからだ。
 南蛮人の為に自分たち亜細亜各地に建設していた各拠点のトマリ(港)を開き、勢力圏内でのキリスト教(カトリック)の布教を認め(アイヌ人はこの当時から宗教意識が極めて低かった事も原因する)、彼らの交易、場合によっては彼らの奴隷貿易にさえ協力し、その見返りとしてその技術の供与を求めた。
 これは、もし技術が得られないのなら、略奪により手に入れる計画もあった事が文献でも見つかっており、アイヌの海への強い意欲を見る事ができる。

 そしてアイヌ人の努力は報われる。しかも、比較的穏便な形でという幸運を以て。
 まっ先に亜細亜地域にまで足跡を記していたポルトガル人から、金銭でガレオン船のノウハウを得る事ができたのだ。
 もっとも、完全な設計図面や造船技師が本国から遠く離れた東洋まできているわけではなかったので、現地ポルトガル人技師や船員の協力があったとは言え建造には多大な労力と時間が必要だった。
 これは、最初のアイヌ製ガレオン船の建造にかけた年月があしかけ十年に及んでいる事からも間違いないだろう。
 だが努力の甲斐あり、十六世紀半ばにはアイヌの海に適したガレオン船を作り出すことに成功する。なお、これ程早期にアイヌでガレオン船が建造できのたは、当時アイヌですでにガレオン船の前身であるカラック船が、独自の技術で既に建造されいたからだと言う事は忘れてはいけないだろう。
 ともかく、これによってアイヌ人は、完全に狩猟民族を脱却し、その眼前に広がる大海原へと乗りだし、それまでのどちらかと言えばモンゴル人による人為的な騎馬民族的性格から、世界的な規模での海洋交易国家としてスタートしていくこととなる。
 なお、アイヌが海洋国家として簡単に定着したのは、アイヌが元々環オホーツク圏という狭い地域ながら、海洋交易民族としての側面を持っていたからだ。チウプカ列島に住んでいるアイヌがその典型だろう。

 その後アイヌ人は、十六世紀末期に日本人からの技術導入(織田信長の鉄甲軍船の模倣)によりガレオン船を装甲化する事で著しく軍事力を強化し、新たな脅威でもある欧州各国との競争力をつけることも怠りなかった。もっとも、この幾分過剰な反応は、この当時までアイヌは常に外的に敏感に反応する民族だったからだ。故に戦闘民族とすら言われる事もある。
 そして十六世紀半ば以降、その巨大な交易能力とそれを支える軍事力を背景に海外進出を強化した。
 それまでにおいても、シベリア全土を含めた陸路を中心とした大規模な交易経路を維持していたが、ガレオン船(とその関連技術)がもたらした変化は欧州がそうだったようにもはや革命的とすら言えた。
 これにより、海洋交易に対してコスト面で比較にならないシベリア交易の大規模縮小が図られ(そこでしか手に入らない品についてのみ例外とされたが)、それにより浮いた資金と人材が南方、新大陸へと注がれていく事になる。
 具体的には、ニタイモショリ(北アメリカ大陸)への進出の本格化、南方貿易拠点の確保のため小琉球(台湾)の占領などがそれである。
 また、南蛮人と交易するための金(銀)の獲得と重要な交易品である毛皮の獲得を目指しての開発と進出も平行して強化され、この海外膨張を助長する事となる。
 もちろん、東南アジア各所にも交易の為の植民、商館の設置も積極的に行なわれた。さらに、未知の交易相手を捜すため国家レベルでいくつもの探査船団を編成し、大東海(太平洋)地域の調査を推し進めた。
 ちなみにこの当時のアイヌの進出範囲は、全太平洋に及んでいると言われており、世界最初に国家として南極を探検したのもこの時期のアイヌが最初だとされている。だが、残念なことにこれらに関する資料は一七八九年の革命の際に燃やされた政府の建造物と共に焼失しており、今現在それを正確に知る術は少ない。また、この当時はアイヌが遠方での植民・移民活動には活発でなく(国内は人口はまだまだ少なく、まだかなり居住環境はあった事も影響している。)、主に商業的な活動に終始した事、進出地域も文明的に高いとは言い難い地域が多かった事、そしてなによりそれまでのユーラシア大陸での略奪行為を教訓として略奪を目的とした海外進出を控えた事などから拠点や入植地などもあまり作らなかったため、アイヌ以外での資料や史跡も、アイヌが重点的に開発を行った一部地域を除いて殆ど残っていない。もっとも国家の存在した地域でのアイヌが経済的に進出した痕跡には事欠かず、この代表的な存在として北極圏の豊かな砂金を用いた純度の高いアイヌ金貨が、当時交易圏外だった筈の太平洋・インド洋各地で発見されている。
 そして、十六世紀初頭から本格化した東南亜細亜交易では、中華帝国や日本、東南亜細亜各地での仲介貿易で莫大な富を築き上げ、ポルトガル人やスペイン人が亜細亜に乗り込んでくる前に勝負を決めてしまい、この状態は日本人が大挙海外進出を始める十六世紀末まで続く。そしてアイヌの亜細亜交易独占状態こそが、ポルトガル人にその利益を享受するためガレオン船のノウハウを渡させたとも言えるだろう。

 ひるがえってアイヌ国内を見てみると、こちらも交易と狩猟の拡大、そして商業的、軍事的な外への膨張によって文化的に急速に変化しつつあった。元寇以前は、狩猟を中心とした新石器文明にすぎなかったアイヌが、たった数百年で完全な近世文明国家を築きつつあったのだ。
 モンゴル人襲来、モンゴル人による支配、彼らとの抗争、そして日本人との対立と戦争を経て少しずつ変化はしていたのだが、本国地域が平和になると軍事に回っていた技術が一般生活に還元され、また北ユーラシア地域を中心とした異民族との交流の活発化によりそれらの地域の文化が大量に流れてきたこと、そして、世界各地との交易と域内全域での豊富な金鉱山、砂金の開発による国富の増大に引きずられる形での産業の急速な発展により人口が爆発的に拡大した事など様々な要因により、彼らアイヌはそれまでの世界帝国を作り上げた民族とは少し違い、自らの力で文化の進化の階段を何段も飛ばし、三百年足らずで先進文明産業国へと進歩しようとしていたのだ。
 もっともモンゴル人が来るはるか以前より、一般的な狩猟民族とは違い、稗・粟等の原始的栽培や、他の狩猟民族より狩猟環境が極めて安定していた事から(鹿狩りと鮭漁)半ば定住化は進んでいたのだか、モンゴル人が入ってきてから全地域での馬・山羊・羊の放牧が進むと共に、中華地域からもたらされた技術により本格的な農業が誕生し、商業の発達に引きずられた三次産業の急速な進歩は原始民主主義的なアイヌでの急速な職業の分化を促進、同じく産業発展による三次産業での人口包容力の著しい増大はコタン(村)の巨大化、すなわち都市の形成を進めた。
 しかも、規模の拡大は急速でモンゴルの侵入から二五〇年で十万人規模の街が誕生、当然都市住民と各種産業・商業を支える人々を生み出していた。
 そしてアイヌ民族の国民の質の向上を基盤として、外敵への脅威という心理が強力な中央集権国家を形成し、短期間で強大な国家を形成したのだ。
 しかし、建国からさらに百年以上前から開発が進んでいたエミシュンクルを除けば一度に農耕が進むわけでもなく(何千年を一気に進歩しようとしているのだから当然とも言える。また、技術的にモショリより北の寒い地域での農業には限界があった。)、アイヌ国政府は交易と遠距離狩猟を国家レベルで行い、民には漁業とモンゴル人によってもたらされた牧畜(放牧)そして農耕がかなり強制的に奨励された。
 農業が奨励された理由は、安定した農作物の収穫なくして定住化とそれによる文明の近代化はありえないからだ。このためか、「西征」の際に東欧から多数の移民者と共に欧州の農法も輸入されており、農業における日本、亜細亜との違い見せるようになる。
 もっとも、十六世紀後半に中米大陸から各種イモ類がもたらされ、穀類(炭水化物)が完全に自給できるようになると急速に人口が拡大し、産業の発展による人口の拡大が急速に運ぶようになり、一時はモショリ本土で人口増加が行きすぎ自給率が低下したが、これに欧州の農法が活用され十七世紀にようやく安定した食料自給を達成している。
 ちなみに、産業革命が始まって以後は、さらなる人口拡大から食糧自給率が再び低下し、一次は農法の発展で米の産出高が延びたが、今現在ではかなりの食料輸入国となっている。
 なお、米、小麦、ジャガイモと多数の主食を持つのも近世以降のアイヌ人の特徴と言えるだろう。

 また、海外への急速な膨張と騎馬民族的な収奪行動が、北ユーラシア遠征「西征」の際に大規模に行われた事から、アイヌ人の自身の混血化がこの当時急速に進んでおり、本来ならアイヌ人を中心とするツングース系の血統を中心としている民族構成の筈が、これ以前にモンゴル系、中華系、日本系の血が大量に入り込み民族の混濁化が進み、これに「西征」最大の土産となった東欧各地のスラブ系移民が北亜細亜にある筈のアイヌ人の姿を、どちらかと言えばトルコ人とフィンランド人そして北方系日本人の中間のような姿にしたと言える。これは、王族や貴族にまで影響しており、隔世遺伝などで金髪碧眼の王族などが平然と存在している事など、アイヌ人の徹底した民族的血統無視の傾向を見る事ができる。
 そして、この人種の混濁化こそが、たとえ一瞬であってもアイヌが世界帝国であった証といえるだろう。
 さらに言ってしまえば、日系社会が民族的な結束よりも「日本人」や「アイヌ人」という抽象的なものに帰属意識を持つ事を重視するようになったのも、この当時のアイヌ人の影響と言って良いだろう。

 だがアイヌ人たちは、あまりにも急速な発展を図ろうとした故に、交易帝国としていびつな形での発展が継続されていくことになり、母体となる組織が民族ではなく一種の利益集団にして軍事集団だった事も重なり、海洋帝国としての近世アイヌの特徴として挙げられる事になる。
 つまり、極論すれば、一つの企業集団が一つの民族を強引に文明化、富国強兵化しようとした結果が、これだったのだ。


七  内政干渉