七. 内政干渉

 アイヌ国が近世的国家としての体裁を整え、富国強兵に努め、そのパワーで目立たない世界帝国へと邁進している時、日本列島は日本史上最初で最後の百年戦争、俗に言う戦国時代を迎えていた。
 「応仁の乱」と呼ばれる当時室町幕府の首都があり、さらには天皇家を中心としたそれまでの日本の政治的中心部で行われた十数年に渡る地方有力豪族同士の争いが、全国規模に発展したのがその発端だった。
 発端はアイヌ人との戦争、「享徳の役」が原因とされていたが、結局のところ時の政権室町幕府の無能こそがこの戦乱を呼び込んだと言えるだろう。

 その後、当然だが京都の室町に「花の御所」と揶揄された中央政庁を持った組織は、日本全土に対する政治的影響力を著しく低くさせ、十六世紀後半に入ると各地方勢力が、次の覇権を求められる程成長を遂げ、その目を再び京都に向けるようになっていく。
 丁度、アイヌの勢力圏が北ユーラシアで最大規模に膨れ上がっていた時期の事だった。そして、この日本本土での大混乱こそが、アイヌの目を安心して世界へ向けさせたと言える。
 つまり、当時日本にとって辺境でしかなった奥州地方にある日本中央より財力・軍事技術に劣る地方豪族レベルでは、エミシュンクルの防人たる『レブン』の守りを脅かすような勢力は存在せず、時折その恐怖心からか、もしくは目先の欲に駆られて攻め立ててくる地方勢力に対しての反撃はそれを如実に物語っていた。しかも、このおかげでアイヌの領土が奥州の南へとさらに移動してもいた。
 この当時アイヌは、相手がスキを見せればそれを滅ぼし支配することを当然と考えていたのだ。
 またこの時、アイヌは日本人相手に大量の武器売買を行い莫大な富を得、さらに日本国内での勢力圏争い、または覇権争い破れた者、戦乱から逃れた者たちの亡命を、かなりの条件付きだったが積極的に受け入れをアイヌ政府が率先して行い、アイヌ人の国の国力、文化、技術レベルの主に量的レベルにおける向上を図っていた。
 要するに、人的資源の確保のため、火事場泥棒のような事を平然と行っていたのだ。
 特に、織田上総介信長主導による日本中央地域での統一事業が進むにしたがって疎まれ始めた、戦国日本特有の風土が生み出した特殊技能に優れた傭兵的集団、いわゆる傭兵的な鉄砲衆や諜報活動を行う「忍者」と後に呼ばれた職業的不正規戦集団や純粋な職業傭兵、宗教関係の傭兵などの引き入れが積極的に行われていた。
 これは、アイヌが勢力が広がりすぎた海外での治安維持と情報収集、小規模な紛争の解決にはアイヌ人による職業的軍隊でなく、これらの特殊な技能を有した人材と組織が大量に必要であり、それらを国内の人材ではとうていまかないきれなくなった為に行われた事だった。宗教的傭兵が求められたのも、当時亜細亜に入り込みつつあった欧州宗教勢力に対抗するのに便利が良かったからに過ぎない。
 なお、内戦に敗北した日本人を取り込む事をアイヌが選んだ背景には、それまでに自分たちが従えるか同盟を結んだ北ユーラシアの豪族よりは自分たちに近い民族で、しかも自分たちに同化されるしかない人々を取り込むのが、最も政治的にリスクが少ないと見ていたからだと言われている。
 ちなみに、日本国内でスカウトマンとして暗躍したアイヌの間者のことを『マタギ』と呼び、鉄砲に小刀を持ちそしてアイヌぽい衣装と豊かな髭をたくわえたもの姿が描かれて今日に伝わっている。
 「マタギ」の名は、海外でも日本の代名詞「サムライ」、「ニンジャ」、「ゲイシャ」、「フジヤマ」、「スモー」などの一つに数えられているのは、説明の必要もないだろう。

 だがこの時期、日本との関係で最も大きな変化は、今まで対立してばかりいたアイヌと日本の東北諸候の親睦が深まっていた事だろう。
 アイヌは、当時争乱状態だった不安定な日本中央との緩衝地帯として彼等との交流と安定化を望み(ようやくそのような考えを持てるゆとりができてきたと言える)、反対に東北諸候は北部の政治的安全保障の確定と、アイヌの近代的な軍備の自国への導入を図るべく接近を図ったのがその理由だった。
 そして諸侯の中でも、奥州中心部に存在し周囲に敵の多い伊達氏は古くかアイヌ王家との交流に積極的で、十六世紀末にはエミシュンクルのアイヌ王族との姻戚関係を結ぶまでになっていた。
 アイヌとしては、彼らに奥州を統合してもらい、できうるなら日本とは違う国を作り上げ、日本との緩衝国家を作ろうとしていたのだ。
 これら一連の政治的行動で最も有名なのは、十六世紀末期奥州の有力諸侯だった伊達家から養子縁組でエミシュンクル家に来た『独眼竜』で有名な政宗公の存在で、その英明さと武勇に秀でている事からエミシュンクル家は、若くして正当な王位継承者の一人としてサンクスアイヌの称号を与え、政宗公もそれによく応え、文禄・慶長双方の戦役での活躍は特に有名だ。
 そして、アイヌ王として一六〇三年に戴冠してから後の活躍は述べるまでもないだろう。

 そして日本中央での混乱は、こうした動きと連動するように収拾方向に向かい、アイヌも対岸の火事として安穏とはしてられなくなってくる。それは、日本中央部の国力、軍事力が異常な程高いレベルに達しつつあったからだ。特に、万単位の軍団同士が平然と日常茶飯事のように戦うなど、少し前の欧州ですら経験しない事で、どの軍勢も高度な軍事システムと高い練度、高度な技術、高い士気を持っている事など、中華大陸でも聞いた事はなかった。特に戦国後半に出現した職業的軍人、つまり常備軍の出現は、中世的国家だと思っていた日本の評価を一変させるものだった。
 そして、それらが複合され、一つの力を生み出す事になる。戦国の覇王・織田上総介信長の台頭だ。
 彼は自らの苛烈な性格と革新的すぎる政策が招いた反乱により没するその年に、アイヌに使者を送り恭順を求めてきていた。しかも同盟関係などではなく、日本の一地域として自らの一部となるようにである。
 これにアイヌ国は恐怖した。なにしろ最盛時(一五八二年頃)の彼の日本での勢力は、日本の産業中枢の殆どを押さえ強大な経済力を持ち、内包する人口は八百万人に及び、ほぼ日本統一を成し遂げていたと言ってよく、その動員戦力は豊かな経済力に裏打ちされた常備軍だけで二十万人達すると見られていた。
 しかも彼の軍団は、アイヌが日本中心部のある程度の安定を望み、ちょうど中部地方で旧勢力を打破しつつ勢力を拡大しつつあった彼に肩入れしたこともあり、極度に火力装備がなされていた事からアイヌの憂慮は大きなものがあった。
 何しろその頃のアイヌ国の諜報組織の予測では、三年以内に彼は日本全土を統一する事が予測されたからだ。このため、急ぎ世界中に散らばっていたアイヌの誇る騎馬軍団を本国近くに呼び戻すような行動が、あわただしく行われたほどだった。
 しかし、この危機は彼の家臣の反乱により彼が自滅したため、アイヌの努力を必要とせず回避できる事となった。
 だが、同様の危惧は時を経ずして、違う人物により現実のものとなる。


第二部 日本国 豊臣幕府