一. 文禄の役

 最初に日本全国統一に王手をかけた織田信長は、自らが招いた反乱により歴史の舞台から強制的に降りることを余儀なくされたが、彼の事業を引き継ぐ形になった元家臣の豊臣(羽柴)秀吉が、彼の死後八年の一五九〇年、最後まで従わなかった関東地方の大豪族を平定する事で、約百年に及ぶ戦乱を収拾しほぼ日本統一を完成させる。ほぼと言うのは、日本中央部から見ると関東よりさらに離れた地域である奥州が、まだ日本中央勢力に対して臣従していなかったからだ。
 そして、奥州とは当時の日本中央部から見ると辺境でしかなく、その向こうにあるアイヌ人による国は、主に海外で活動する回船問屋(交易商人)や一部の物の見える武将以外にとっては、日本辺境に存在する蛮族の作り上げた国でしかなかった。

 当時アイヌが間接的に支援している奥州(東北)の大名には、伊達、相馬、最上の三氏(戦国末期のこの時期東北はほぼにこの三氏しか残ってなく、他はアイヌが北部地方を領していた。)があった。そして、このうちアイヌと特に仲がよく豊臣氏と仲の悪いのは伊達氏だけだったが、伊達氏はアイヌの援助のもと奥州統一を成し遂げる直前までその勢力を広げていた。当時の文献では最大人口二百万人にとどいていたとされるから、アイヌの後押しがあれば十分に日本中央と対抗できる勢力と言えただろう。つまり、正確にはまだ全国統一はされているとは言えなかった、もしくはアイヌの構想通り、奥州に日本でもアイヌでもない国を作り上げる可能性が最も高まっている時期でもあった。
 そして、日本中央でもアイヌの思惑は見抜いており、関東征伐の後迅速な対応が取られる事になる。
 歴史的には、この事態に豊臣秀吉は慌てず、関東征伐の軍の一部をそのまま北上させ睨みを効かせると同時に、北条討伐前に日本全土に発布した条文違反をとがめ伊達氏と交渉を始めたとある。そして、圧倒的武力と国力を背景にしたこの一連の政治的な行動だけで、伊達氏だけでなく東北の大名、豪族の全てを日本中央に恭順させることに成功した。まさに、秀吉得意の政治的(外交的)成功と呼ぶべきものだろう。これは、「殲滅か共存か」という苛烈な大陸的考えを強く持っていた当時のアイヌとは違う政治的態度であり、また奥州の人々が結局日本中央に帰属意識を持っていた事から、アイヌの計略は失敗に終わる。
 しかし、この次に秀吉は大きな失敗を犯す事になる。
 奥州のさらに北にあるアイヌ国にも使者を出し、豊臣家に臣従することと、天皇に朝貢をする旨を伝えてきたのだ。それは、豊臣政権単体への実質的な属国化要求であるだけでなく、アイヌの日本への帰属を命じたものだった。これは、国際情勢に疎い当時の中央の日本人にとって、アイヌは蝦夷の豪族程度の意識しかなく、さも当然と言った内政問題と考えられていたからこそ出された「命令」だった。
 そしてこの日本中央の政治的行動は、ある意味中華思想的な考えとも言えなくもないが、当時の日本中央がどれほど世界に対して疎かったかの証明と言えるだろう。
 そして当然だが、当時世界中にその版図と勢力を広げるほど力を持っていたアイヌ国は、あまりにも国際常識と外交感覚を無視したこの属国化要求に烈火のごとく憤慨した。それでも文明国として最初は文書での返答でたしなめたが、それが全く無視され再度同じ様な要求が関白豊臣秀吉の名で出されると、これを物理的に退ける事も厭わない覚悟を見せるために、南蛮諸国に対し有効な手段だった、軍事力の集中による恫喝をもって対等の外交交渉を行おうとした。
 当時のアイヌにとっては、日本中央、つまり天皇家を中心とした日本的権威など問題ではなかった。
 当時のアイヌ中央は、世界レベルでの広範な交易活動と軍備増強により以前のような針鼠的考えはなく、そればかりか海軍力では懸絶した力を持っていると思っており(それは事実だった)、陸軍力も世界中に散らばり数では劣るが装備の面では優越していると考えていた。そのため、もし戦端が開かれても、短期決戦で敵の動員前の戦力を撃滅することにより敵の戦意を挫き、講和が可能と踏んでいた事がこの強硬な外交行動を引き起こしたと言えよう。
 なお、この当時のアイヌ国は、潜在的国力はともかく実際は地域大国でしかない日本と違い、紛れもない世界的な軍事国家であった事は、ここでは言うまでもないだろう。ちなみに、当時のアイヌの動員戦力は、純然たる騎兵だけで五万騎(馬匹二十万頭)以上もあり、総合戦力は全欧州に匹敵すると見られている。だが、この兵力は世界中に展開しており、日本側の情報収集がアイヌ国内にある陸上兵力だけを数えた結果、高圧的外交に出たと言う説もある。

 そしてアイヌ国は自らの方針に基づき、鉄鋼ガレオン船を中心として圧倒的戦力を誇り、既に全アジアに展開していたアイヌ国海軍は、南蛮諸国、主に当時世界帝国だったスペインとの小競り合いと睨み合いを一時中断し、さらには北米大陸に派遣されていた兵力すら一部をわざわざ呼び戻し、兵力を整えたうえで海軍主力を日本近海に集結させる。さらに国境沿いには陸軍の主力五万を機動戦力である大規模な騎兵部隊と要塞陣地に籠もる防衛部隊に分けて展開し、戦争を前提とした陣地の補強、構築を開始した。そして、ある程度戦争準備が整った段階で豊臣政権に対し、反対に自分たちから平等な国交関係を求めた交渉を持ちかけた。
 アイヌは、典型的な示威外交をやり返したのだ。
 このアイヌのあからさまな(日本から見て)強い反抗的態度に当時日本全国を統一し有頂天だった豊臣秀吉は激怒し、全国の諸大名に再び動員を命じる。当然、アイヌ国に対しても、より強い調子で書面が送られた。これは、アイヌから見れば事実上の宣戦布告文書であった。
 アイヌ軍部では、秀吉が優れた軍略家であり中でも海軍には造詣が深いと思っていたので、軍事力、特に海軍力による威嚇が有効と見て行なった行動が全く裏目に出た事に多少の混乱はあったが、事ここに至って開戦も止む無しとして、日本人達の戦争準備が整っていないこの段階での先制攻撃を決意する。まさに、アイヌ的果断な決断と言えるだろう。
 そして、既に日本全国を射程圏内おさめていた全艦艇が、アイヌ本国の指令に従い日本の海上交通の破壊を開始した。
 『文禄の役』の勃発である。

 アイヌが開戦当初特に重視した海上交通破壊作戦は、日本の軍事力が島国でありながら内陸国家のような性格を持ち、彼らの百年戦争も純然たる国内戦であり、このため日本のほとんどの軍事組織が外洋的な海上護衛について極めて貧弱な思想と装備しか持たず、豊臣軍にとってまさに破滅的効果を発揮した。
 簡単に書いてしまえば、開戦からたった一ヵ月で豊臣軍は制海権を完全に喪失した、という事になる。
 さらにアイヌは、補給拠点や純粋に交通線を遮断するために幾つかの島も占領したため、これにより海を隔てた九州、四国の諸大名は全く動けなくなっていた。さらに当然通商用海上交通路も同時に遮断されたため、日本全土の経済も混乱しつつあった。海外交易をしていた朱印船などは格好の餌食となり、外洋に出る事は死を意味するという状態にまで追い込まれた。全く以てシーパワーによる優位の獲得を絵に描いたような状況だった。
 しかし、それでも豊臣軍は、関東を中心に待機させていた数万の軍勢を中心に約十万人の戦力を東北のアイヌ国境に集中させ、その年の夏にエミシュンクルに対する陸上侵攻開始する。
 世界史レベルでは、欧州までも征服したモンゴル帝国と南宗の関係に近く、戦争状態を逆転したような形になっていた。
 だが陸上兵力の圧倒的優位を信じて攻め込んだ豊臣軍だったが、ここでも日本軍は勝手が違ったいた。
 日本人たちは、戦国時代を通じて「種子島」や「南部」と呼ばれたマスケット銃の大量使用により十分に火力戦を体験していたが、彼らがここで体験したものは、それらを大きく上回るものだった。それを如実に物語っているのが双方の軍の兵器の装備率によって見ることができる。
 文禄の役の最盛時の豊臣軍十五万に対し、アイヌ軍は各地から集まった援軍を含め八万程度だったが、鉄砲の装備数はほぼ同じ五万丁、大砲の数に至っては係数的な差があったと言われている。さらにアイヌには、「西征」、特に十六世紀中ばの東欧侵攻で猛威を振るった「火竜」と呼ばれる地対地ロケットを始めとする強力な前方投射型火薬兵器を多数装備しており、それら全てが野戦を避け、野戦築城された陣地というより巨大要塞の中に篭もって、攻撃側だった豊臣軍を反対に激しく叩いていた。
 豊臣軍は、初めて西洋式近代攻城戦を相手が全く違うが体験することとなったのだ。
 しかし、この体験は後に生かされ、次の対南蛮戦争でその威力を発揮することとなる。
 なお、室町幕府が行った蝦夷征伐の話は、当時の幕府が敗北を隠すため情報を隠ぺいしたので、戦争参加当事者である一部の守護大名の生き残り以外には、あまり伝わっていなかった。それにあの頃に比べてアイヌの戦術は、大陸での戦いで格段に進歩していた。

 だが、戦争は一方的展開にならず、世界中に膨張しすぎていたアイヌ軍が、侵攻部隊の主力たる騎兵部隊を本国近辺に十分に準備できないため、日本側の陸上攻勢は国境を越えて早々に頓挫しにも関わらず、戦線は膠着する。
 その後、動かない戦線を抱えつつ、両軍は一年間激戦を続けていた。
 海では開戦時から変わりなく、依然アイヌの軍船が跳梁しており、国境の要塞戦も依然膠着状態で、局地的な兵力、国力に優位に立つ筈の豊臣軍は、アイヌの城塞をやや遠巻きに包囲する以上に打つ手のないまま過ごすこととなる。このような状態が続くと当然だが厭戦気分が高まり、特に伊達を始めとするアイヌに友好的な日本側の外様大名に不穏な空気が充満しつつあり、中央から途絶した四国、九州の大名の中には新たな戦乱の到来と、裏で動き出す者まで現れつつあった。
 豊臣側にとって、全く予想外の事態だった。
 そして、その膠着した戦線から、当時エミシュンクル王家の皇太子だったエミシュンクル・サンクスアイヌ・正宗王子率いる数万の騎兵集団が突如出現し、仙台平野に展開していた豊臣軍団前線と難なく突破すると、主力の一部をたった数時間で包囲し、その後の騎馬蹂躙戦と火力を用いた兵力により殲滅する事に成功する。
 この攻勢に参加したアイヌ騎兵軍団は、西欧で言うところの「竜騎兵(ドラグーン)」、当時の日本で言うところの「騎馬鉄砲」を中心にした約三万騎の純然たる騎兵の大軍で、その兵力運用に長けた正宗皇太子が率いた場合、その軍事的衝撃力は三倍の相手すら粉砕したと言われる。
 そしてこの大騎兵軍団の前に、豊臣軍は一部と言っても直属軍を中心とした数万の大軍が一瞬にして包囲殲滅され、当然戦線は一度崩壊し、豊臣軍は大幅な後退を余儀なくされた。
 なお、この段階でアイヌが陸上での反撃を行ったのは、そのための戦力が開戦当初海外に派遣されており、それを呼び戻し再編成するのに、この段階までの時間が必要だったからにすぎない。

 そして、この戦闘が停戦の大きな呼び水となる。
 この大敗により大きな衝撃を受けた豊臣奉行衆は、これを一つの機会と見て、和睦による解決を図ろうとしたからだ。豊臣政権の絶対者豊臣秀吉の意向はともかく、その周りを固める合理的な思考を強く持つ豊臣家臣団は、この戦争には利益はないと当初から見ていただけに、迅速な対応だった。
 まず、戦乱の元凶とも言える独裁者・豊臣秀吉を絡めてで説得してから、アイヌとの和睦が開始された。そして日本側から出された和睦の条件から、属国化の証である朝貢条項が真っ先に削除され、既成事実的な領土の一部割譲・交換、互いが占領した地域の相互返還を中心とした穏便ななものとされた。もちろん、損害賠償金などは全く要求されなかった。
 さらに姻戚関係を結び、親密な同盟関係を締結したいとも提案された。ただ、日本側のショックが余程大きかったのか双方の技術交換を密に行う条項はその条文の中にくどい程記されていた。日本人達は、ようやく外洋航行船舶の威力に気付いたのだ。
 これに対しアイヌ国も、この戦争には益が無いことは最初から分かっていたため和平の道を模索しており、この日本側からの講和条件を条件付きで受諾する事となる。これはアイヌ国としては、当時の日本中央とは国家同士として対等に付き合えれば、後の事は大抵看過できる問題だった。それは、当時のアイヌ首脳が、時間さえ稼げればいずれ自分達が優位に立てると考えていたからだった。
 そして、この事は当時のアイヌは、用心深いはずの国家中枢をしてそう思わせる程の絶頂期を迎えていた何よりの証明と言えるだろう。
 ただし、アイヌ側にとってあまり益のない技術交換は、和睦の条件をそのまま受け入れれば、軍事的な面の殆どがアイヌからの譲渡となるので、自分たちに足りない様々な民生技術などの交換などによる、あくまでギブ・アンド・テイクの形がとられる事となった。
 なお、この文禄の役以後アイヌ文化の日本化が進み、日本とアイヌの共存態勢が強くなり、近代に入り統一帝国を作り上げる大きな要因となっている。

 また、領土の譲渡に関しては、アイヌ側が大幅に譲歩する形となり、アイヌが占領していた日本側の島の返還は当然として、既に日本側に占領されていたエミシュンクルの一部と小琉球(台湾)が、それに当てられる事となった。
 アイヌ側では、負けてもいないのに領土を割譲する必要はないとする考えが一般的だったが、この時すでに割譲予定地を支配していたレブンが海外進出の為の国策会社になっていた為、当地をどちらかと言えば負担に感じており、またこれより少し前の東北豪族に対する攻撃で、アイヌと日本の境界線がやや入り乱れており、むしろエミシュンクルの一部割譲はお互いこれをおこなう事で国境線の安定ができるため、結局さして抵抗はなく割譲が行われている。
 また、小琉球(台湾)の割譲は、海外の前進基地が台湾から呂宗(ルソン)などのさらに南方に移っておりアイヌにとっての価値が低くなっていた事と、強大な陸軍力を誇る日本に台湾を実行支配させれば、中華大陸の明に対する押さえになるという思惑も働いての事だった。アイヌの民は、もっと他で必要とされていたのだ。

 このようなアイヌの思惑とは裏腹に、ついに全国統一を成し遂げさらに室町幕府よりの悲願だった蝦夷征伐を成功させた豊臣(秀吉)政権は、必然的にその絶頂を迎え、その勢いをそのまま海外に向ける事となる。
 関東討伐当初秀吉は、全国統一を成し遂げたのでしばらくは国内の安定に力を注ぐつもりだったとも言われているが、アイヌ国と同盟関係を結んだ事でこの方針を大変更させる事となったのだ。


二  慶長の役