二. 慶長の役

 当時、北ユーラシア全域から大東海中に勢力を持つアイヌは、豊臣軍と戦端を開く前からイスパーニャと小競り合いとは言え一部戦端を開いていた。特に一五七〇年代のアズトラン(メキシコ)を巡る争いでは、短期間ではあるが全面戦争を行った程だった。
 これのような関係から、一五九二年になると亜細亜問題でもかなり拗れており、双方当時スペイン領だったフィリピン近海で正規軍を投入しての争いにまで発展したいた。これが、アイヌが豊臣政権との休戦を急いだ大きな理由ともなっている。
 この事態にアイヌ国は、豊臣政権と同盟関係が成立すると時を移さず豊臣秀吉に対し南蛮の非道を訴え、南蛮勢力を亜細亜から共に駆逐して欲しいと申し入れた。これには、日本の巨大な軍事力、特に陸軍力をアイヌが強く望んだ事から提案された事だった。もちろん、表立った大義名分よりもそれによって得られる交易の利益の話をする事もアイヌ人は忘れていなかった。
 また、これに協力する事により、日本にアイヌの持つ海洋技術の全てを伝える事を約束した。
 こうもあっさり、アイヌが国家機密とすら言える最新技術を日本に提供した背景には、日本人に恩を売ると言うよりも、自分達(亜細亜人)の勢力の計数的な増大を計り、南蛮諸国と対抗しようとしていたアイヌ政府の思惑が強く働いていたからだった。これは、アイヌの防衛思想のその最たる現れであると言えるかも知れない。
 もっとも、交換条件である日本国内の民生技術の譲渡では、当時日本中に存在した様々な技術のその過半が、人間ごと渡される事になり、文献によれば数千に達する人工的なアイヌへの日本人移民が発生する副産物を生み、アイヌの文化の多くを日本的なものにする大きなきっかけになっていた。
 だがそれでも、日本人にとって大きな魅力であった。

 ちなみに、十六世紀末のアイヌは単に領土だけでも、既に南蛮人の言うアメリカ大陸(ニタイモショリ)西岸やアズトラン(メキシコ)から東部ヨーロッパにまで及んでおり、また交易範囲も東はアメリカ大陸から西は天竺(印度)、土耳古帝国、果ては南蛮大陸(欧州大陸)にまで及んでおり、そしてそれを可能とするだけの巨大な艦隊と交易船団を保有していた。このため、いくら技術供与しようとも、日本が容易に自分たちに対抗できるようにはならないだろうというアイヌの楽観的な観測もあった。しかし、それでもなお当時から世界を支配しているとされた南蛮には対抗出来ないと考えていた所が、実にアイヌらしいと言えるだろう。

 アイヌからの提案を表面上快く引き受けた秀吉は、新たな戦略を命令する。内容は国内の統治体制を強化し、自らは軍団を率いてアイヌと共に南蛮征伐を指揮するとしたものだった。この瞬間、日本の海外に向けての膨張が開始されたと言ってよいであろう。
 時に一五九三年春の事だった。
 そしてこの大方針に基づき、日本において軍備の、特に外洋海軍力の著しい増強が開始され、それと平行して遠征により内政が不安定になる前に政権の組織化が急ピッチで進められた。
 現代用語で言うところの、総力戦体制と挙国一致体制の確立という政治的行動だった。そして、活力のある事実上の独裁軍事国家であるだけに、その行動は素早かった。
 軍備の方は、アイヌの用いている鉄鋼ガレオン船の大量建造と陸上兵力の火力・機動力の増強、そしてそれに合わせた組織の改編であった。中でも特筆すべきことは、本格的な常備軍を豊臣直轄領内だけだか制度化したことだった。これにより火力と機動力を装備した三万人の職業軍人による近代的常備軍と随時徴兵される徴用兵五万の予備軍が編成され、これを統括する部署として侍奉行を新たに設置し、その管轄下に部隊は置かれ、随時武将に分け与え運用するという近代的な軍制が実施されることとなった。これは、遠方での海外遠征を考え、中央政府により統制できる合理的な組織が必要として、アイヌの制度を参考に作られたものだった。そして、日本において、騎兵、砲兵が一般的な兵科として導入されたのもこの時だ。
 ちなみに、この軍備の急速な増強の最大の副産物は、ガレオン船のノウハウの民間流出による流通速度の高速化と巨大化と、この後も続く軍拡と巨大な軍備を建設するために整備された軍事産業と、それら周辺の産業の著しい発展だった。これら二つは江戸時代に発展する高度な手工業などの国内産業の基礎を作り上げる事となり、日本をさらなる海外交易とそして海外移民へと駆り立てていく事になる。

 少し話が逸れてしまった政治機構についてだが、まず秀吉は天皇を中心とした政治組織での朝廷の最高位にあたる関白の位を弟の秀長に譲り自らの二代目の位置である事を衆目に認めさせ、自らは太閤と称し、そしてその下に有名な五大老・五奉行が置いた。つまり、天皇家を中心とした政治システムより上位にある豊臣家というシステムを無理矢理作り上げ、その下に新たに近代的な中央政府と官僚組織を作り上げようとしたのだ。
 これはある意味、秀吉は日本において天皇を祭祀的な宗教組織のような位置に祭り上げ、本格的な専制君主たる「皇帝」を作り上げようとしたと取れるかもしれない。
 そして、自らを頂点として五大老をもって日本国内の地方を支配し、中央は今まで暫時設置していた奉行を整理して、大きく勘定所(財務省)、侍所(国防省)、問注所(司法省)、政所(内務省)、評定所(外務省)の室町幕府の役所名だけを踏襲した新たな五つ役所を設置し、さらに別当として台湾を本拠として南洋奉行を設置して海外進出の拠点とした。
 そして自ら太閤としてその最上位に君臨した豊臣秀吉は、各奉行を手足として武断派の大名を統制しつつ南方攻略の準備に取り掛かる事になる。
 そしてその準備には約三年の歳月が必要で、その間日本列島は未曾有の軍需景気に沸き返り、海外膨張の必然すらも日本列島に強要する事にもなる。

 日本中の造船場で建造されていた軍船がようやく出揃った一五九五年春、すでに在来船を総動員して大軍が進出していた小琉球(台湾)を橋頭堡にしてルソン攻略が開始された。世に言う「慶長の役」の勃発である。
 総大将に次代の関白確実とされていた甥の豊臣秀次を据え、実際の戦闘指揮を執る南海奉行に秀吉の親任厚い加藤清正を任命し、軍略家の黒田長政、兵站に明るい小西行長を各方面軍司令官において、本陣を急ぎ城塞の建築された台北に設定し、南蛮最大の帝国の東洋の牙城呂宗に対する侵攻が開始された。
 なお、この戦役に参加した武将は、一部を除いて日本全国にほぼ均等の割合とされ、これがこの戦いが日本人を一つの国家・民族として認識させるのに大きな役割を果たしたと専門家は分析している。

 呂宗での戦闘は急速かつ激しかったが、ほぼ一方的なものとなった。国力、地の利、集中性において日本・アイヌ連合軍が圧倒的に勝っていたからだ。
 日本・アイヌ連合軍、第一派侵攻軍八万人に対し、イスパーニャの呂宗防衛軍三万、しかも現地軍ばかりであったのだから結果は火を見るより明らかだった。
 少数のイスパーニャ側フィリピン防衛艦隊を自慢の甲鉄ガレオン船で文字通り粉砕し、それに護衛された旧式のアイヌ製カラック船や一部ガレオン商船に満載された豊臣直轄軍は、上陸するやマニラ(麻仁羅)めざして進撃を開始する。
 上陸より一週間で決戦が行なわれた。
 イスパーニャのテルシオ対豊臣軍団初の激突、西欧対東洋のキエフ攻防戦以来久しぶりの激突だった。
 だが、戦闘は決戦と呼ぶには相応しくなく、現地軍を主力とした植民地軍でしかないイスパーニャに対して、約一世紀にわたる激戦をくぐり抜けて世界最強の火力と練度を誇る豊臣軍団の一方的かつ圧倒的な勝利に終わり、この勝利により浮き足立ったイスパーニャ軍を追うかたちで日本・アイヌ連合軍の侵攻は続き、それからたったの二ヵ月で日本・アイヌ連合軍は呂宗全土を席巻した。なお、この進撃の早さは、日本が現地で解放者として受け入れられた事が大きかったと現在では見られている。また、日本・アイヌ連合軍のあまりに火力・騎兵を重視しながらも敵の首を切り落とす凶暴な戦闘習慣が、西欧勢力をして悪魔の軍団と認識させ、早期に戦意が崩壊した事も原因していた。 
 この時代、サムライとはキリスト教の威光を歯牙にもかけない悪魔の先兵であり、北欧でのバーサーカーの同義語でしかなかった。
 その後日本・アイヌ連合軍は、呂宗平定もそこそこに、当地に奉行(これは総督府に当たるもの)を設置すると次の馬来、ジャワ攻略を主眼とする対ポルトガル作戦と、南蛮本土から来援するであろうイスパーニャ主力との決戦の準備に入った。
 これは、日藍軍のこの戦争での戦略目標が、彼らがインドを越えてくる最大の関門が、マレー半島の西にあるマラッカ海峡とジャワ島とスマトラ島にあるスンダ海峡で、これを押さえる事が最重要視されていたからだ。
 そう言う意味では、予防戦争的な意味合いを強く持っていたのかもしれない。

 一五九七年冬、それまでにジャワ方面に対しては、いくつかある現地国家(バンダン王国、マタラム王国など)と条約を結び、軍の駐留を含めた対南蛮同盟を樹立し、馬来を現地住民を懐柔することにより短期間で勢力下におき、ヨーロッパ勢力を東南亜細亜から駆逐する事に成功する。だが、慣れない南方のジャングルに苦しめられた事から、現在言われている程日藍軍の勝利は完全なものではなかったらしい。それが目立たなかったのは、日本人以上に南方に慣れていない欧州人が不甲斐なかったからだと思われる。
 そしてちょうど初期の戦略目標である亜細亜攻略が完了した頃、日本・アイヌ連合軍の前にはるばる喜望峰を回って東洋まで遠征してきたイスパーニャの主力艦隊が出現する。
 この情報をイスパーニャの敵対勢力イングランドから入手していた日本・アイヌ連合軍が馬来、マラッカ海峡の出口にあたるペナン沖にて待ち構え、レパント以来の東洋対西洋の艦隊決戦となった。
 無敵艦隊(アルマダ)の敗北からようやく立ち直り、さらに海軍拡張により一気に装備の近代化を果たしたイスパーニャ帝国海軍と、初期の侵攻からさらに戦力を充実させた日本水軍の本格的な激突だったが、結果は甲鉄ガレオン船という新兵器を多数投入した日本軍の勝利に終わる。
 デッキの低い黒光りする日藍の重厚な甲鉄ガレオン船は、相手よりも二、三割少ない火力をその強固な防御力で補い、安定した船体から正確な砲撃を繰り出し、さらに敵弾を受けながらも強引に近接戦に持ち込み、欧州人が一般的に考えていた海上戦闘を無視するような接近戦法で粉砕してしまったのだ。もっとも日本人側からすれば、従来の接近戦や接舷切り込みを強引に実現するために、この戦闘方法を採用したに過ぎない。この当時の日本人達はまだ、本来のガレオン船の戦闘方法は会得していなかったのだ。

 この一方的とすら言える海での勝利により勝負はあっけなくついたと日藍連合軍は考えたが、イスパーニャは別働隊をジャワに派遣しており、比較的少数だった現地日本軍を撃破し、まんまと支配権を奪回していた。
 この事態に日藍連合軍は、ただちに近在にあった小西行長を総大将に新たな討伐軍を派遣したが、当時世界帝国を自認するイスパーニャが威信をかけて送り込んだアレッサンドロ・ファルネーゼ(パルマ公)率いるイスパーニャ正規軍は、今までの植民地警備軍とは格が違い、連合軍は最初苦戦することとなる。日藍軍は、初めて欧州を席巻した本当のテルシオを前に戦術的な敗北を喫したのだ。特に、海を越えての侵攻だったことから、アイヌの誇る騎兵集団を大規模に投入できなかったため、この敗北を大きくしていた。
 だが、時間が経つにつれて、新造甲鉄ガレオン船を投入し体勢を建て直した水軍によりジャワ方面の制海権も確保され、さらに新型の大砲、火器を多数装備する惣奉行石田三成自ら率いる増援部隊とアイヌの親衛隊と呼べる最精鋭部隊のエミシュンクル軍(国境防衛軍所属の火力戦部隊と言われている)が到着することにより連合軍の優勢が確実となった。
 その後二度にわたり大きな戦闘が発生し、インドネシアにおけるイスパーニャ軍は、物量の差という戦闘の上で決して覆せない不利と味方からの補給の途絶もあり奥地へと敗走を余儀なくされ、また亜細亜での制海権を完全に確保した日藍連合艦隊の一部は、余剰となった戦力にマラッカを越えさせ、インド洋各地の彼等の拠点の攻撃や、私略(海賊)活動を始めていた。
 勝利は目前だった。現地派遣軍の一部ではこのままの勢いで天竺・南蛮本土攻略かと囁かれるまでになった。

 しかしこの時日本本国で重大な異変が起こった。秀吉死去である。
 この事態に、当時関白だった弟の秀長の統制下にあった奉行衆は、ただちにイスパーニャとの和睦を開始し、そして彼らのアジアからの全面撤退を妨害しないことと、互いの捕虜の釈放、そして今後アジアには軍事的進出は行なわない事、そしてこちらはマラッカ以西には手出ししない事を条件に公平な交易を行うこととし和睦を結んだ。
 当時としては、極めて穏健な和平条約だった。
 また、圧倒的優勢下の時の和睦が、内政上の問題(元首の死去とその後起こるであろう内乱)だと悟られぬように、彼等は交渉の席の最後をその後ヨーロッパで有名になる言葉「武士の情け」で締めくくった(もちろん、完全な情報統制は行われていた)。

 和睦が決まるが早いか、東南アジア各地に展開していた膨大な数の日本軍は、組織管理者としてはこの時代随一の実力を持っていた石田三成の指揮の元撤退を開始するが、油断ならない南蛮勢力への警戒や地元海賊や盗賊対策の必要から、東南亜細亜地域を完全にガラ空きにする訳にも行かないため、豊臣政権直属兵団の一部を残すと共に、加藤清正が引き続き南洋奉行とし本陣を台北において、呂宗、馬来にそれぞれ山内一豊、島津豊久にそれぞれ五千の一兵団と自軍による駐留を命じ、南洋水軍奉行に九鬼守隆を任命して駐留と防衛の任にあたる事となった。
 もちろんアイヌ軍も、日本軍の撤退に合わせて兵の引き上げを開始した。また、東南亜細亜防衛の任が日本との協議で決められ、当地の国家との合意の上、ジャワ防衛を主任務に約一万の兵力が駐留した。是により最盛時二十万を数えていた南蛮討伐軍は三万程度の駐留軍と艦隊主力を残して新たな戦乱の予感が渦巻く日本国内に帰国していく事になる。
 また、アイヌはその後ロシアのコサックの進入が始まっていたシベリアへと兵力を振り向けざるをえなくなり、北の大地が安定して後は北米大陸の開発に目を向けた事から、十七世紀半ば以降日本や東南亜細亜への干渉の余力を失い、亜細亜は日本人の手で管理される事が、この時決まったと言えよう。
 なお、この秀吉の死による日藍軍の撤退は、歴史上においてはモンゴル帝国の欧州遠征軍だったバツー軍の撤退と良く引き合いに出されており、一人の人間の死が世界史に大きな影響を与えた好例として採り上げられているのは、よく知られている事だと思う。


三  関ケ原の合戦