三. 関ケ原の合戦

 豊臣政権は、一介の兵卒(もしくは農民兵)から遂に日本の覇者となった一人の人物、つまり圧倒的な軍事的・政治的才能を持ったカリスマだった豊臣秀吉によってのみ成立していたと言っても過言ではなかった。それ故彼の死により、それまで一枚岩だったかに見えたものが俄にグラつきだす事となる。
 このような事例は、世界史上でもよく見られ、その最大のものが世界史に多大な影響を与えたアレキサンダー大王の急死とその後の彼の帝国の分裂に見る事ができる。

 日本での混乱の主な原因は、当時国内で最も大きな勢力を持っていた諸侯の徳川家康が、豊臣政権内での覇権ではなく、日本の政治権力そのものの覇権奪取を目論み蠢動し始めた事に起因している。これにより徳川家康の歴史的評価は、中世的価値観を持った保守的な人物とされているのは、よく知られていると思う。
 この徳川家の動きに対し豊臣奉行衆は、関白豊臣秀長と徳川家康と同格の諸侯・前田利家を求心力として対抗し、実際一時的に均衡を取り戻す事に成功するが、これも翌年の前田利家の死によって後和算となってしまう。この頃には関白豊臣秀長は病気(結核)がひどくなり、以前の様に精力的な活動はできず、この混乱に拍車をかけるだけの存在となっていた。だからこそ、一族以外の大物諸侯の存在が不可欠だったのだ。
 これに対する徳川家康は前田利家の死をうけて活動を活発化し、豊臣政権の武断派と文治派の対立をたくみに利用、着実に自らの勢力を拡大していった。
 そして一五九九年一月前田利家に続いて関白豊臣秀長が病死すると、秀吉の長男秀幸(鶴松)は未だ十才に過ぎないため甥の秀次が関白職を継いだが、混乱期に就任したにしては彼の政治力は非常に弱く、彼と奉行衆の懸命の努力にも関わらず秀長ほどの統制力はなかった。
 そして、必然と偶然により豊臣政権内は、奉行と関白対武断派と秀幸(鶴松)の対立へと急速に発展し、そうして弱体を露呈した豊臣政権を尻目に徳川家康は武断派を取り込み積極的な行動を開始する。
 なお徳川家康が、早期に行動を起こした原因は、時が経つほど豊臣政権が作り上げた組織が、交易による利で膨れ上がり、それに応じて軍事力が強化され、さらに官僚制度が安定化してしまい、自らの新政権樹立のチャンスが少なくなるからだと言われている。徳川一族は「慶長の役」当時、領地替えで移った関東での地固めに懸命で、南蛮征伐には参加していなかったが、それをなし得た豊臣政権の財力と軍事力については正しく評価しており、それ故恐怖していたのだ。
 そして、機が熟するのを待って、徳川家康は豊臣奉行衆が自分を討ちやすくするため敢えて大坂を離れる。
 そして、これが彼にとっての終わりの始まりとなった。

 アイヌ国と伊達家、上杉家に日本国に逆心ありとして武断派を中心とした家康が討伐軍(以後東軍)約十万が、奥州へと進軍した。
 ちなみに、武断派大名が北の大名たちとアイヌを快く思っていなかったのは事実で、南蛮征伐ではアイヌ軍と小競り合いすら起こしていたので、これが有名な文治派つまり石田三成嫌いと共に彼らを徳川に走らせたもう一つの要因となっている。
 そして、彼らが徳川家の新たな封土となった関東に入ったのを確認した文治派は、石田三成を首謀者とする奉行衆を中心とした一大勢力を結成し(以後西軍)、彼の計略を見抜いていながら敢えて家康の計略どおりに挙兵、奉行衆の力を使用しながら急速に勢力を拡大し、近在の東軍勢力への攻撃を開始した。
 これにより日本を二つに分裂しての最大規模の合戦が発生する事になる。
 なお、この内乱に際しアイヌ国は今後の東方・北方方面の権益独占を条件に西軍への協力を図り、また海外警備・経営を担当する南洋奉行は中立を保った。しかし、南洋奉行としては何方かというと封建的傾向を強く持つ東軍(徳川家康側)に付くより、近代的な官僚制度を持つ豊臣奉行衆が主体の西軍(奉行衆)を全体として支持していた。もっとも彼ら、特に大坂城と博多、台北の官僚団は、現地経営がやっと軌道にのったばかりで内乱どころではないというのが一番多い意見だった。なお、南洋奉行の加藤清正は奉行衆とはあまり仲が良くなかったと言われるが、歴史は黙して語っていない。
 そして南洋奉行の西軍への協力の証拠として、彼らの指揮下にあるはずの博多で待機していた約二万人の海外緊急展開用の機動兵団と水軍の無断使用を黙認しているし、後の九州鎮定では積極的な活動をしている事が挙げられる。ここから南洋奉行は、農業を中心とした近世的封建態勢には興味がなかったのだろう、と結論付けられている。

 東西両軍による実質的な戦闘は一六〇〇年八月に各地で始まり、八月いっぱいを小競り合いに費やし、互いに九月にはその主力を日本の中心地に向けて集結させた。
 そしてついに九月十六日に日本の中心にあたる関ケ原にて、日本史上最大規模の正面決戦がおこなわれた。世に言う『関ヶ原の合戦』である。
 この戦いを日本史上最大とするのは、前後して起こった戦いの交戦範囲がほぼ日本全国に及んでいたからである。ちなみに、この時日本中で活動してた東西両軍の合計兵卒数は五十万人に上るとも言われ、この点でも日本近世史上最大と言えるだろう。そして、これら日本全土での戦乱を総括して『関ヶ原の合戦』と呼ぶ事が意外に知られていないので、追記しておく。

 関ケ原近辺に結集した東西双方の決戦兵力は、双方合計で二十万人以上にのぼり、付近のそれぞれの城塞の守備兵力を含めれば、徒歩一日以内にあった兵力数は二十五万人にも達していた。
 当然、これだけの兵力が一カ所に野戦という形でぶつかるのも日本史上では非常に珍しく、これを唯一の例と言ってもよいだろう。もちろん、それまでに発生した日本とアイヌの戦いは対外戦争扱いと考えた場合である。
 そして奉行衆の力、つまり豊臣家直属兵団の使用権と豊臣家の巨大な財力・兵站を自由にできる西軍の方が戦力的に有利な状況だった。
 南蛮征伐の結果、この戦いはこの時代の多くの人間が気付かないまま国家対地方諸侯連合の戦いになっていたのだ。
 その最たるものが、近畿地方で行われた前哨戦で活躍した豊臣直属軍の誇る重火力で、東南亜細亜を席巻したこの軍団があればこそ、緒戦の強引とも言える攻城戦が西軍の圧倒的優位に進展できた事は間違いないだろう。もちろん、日本各地に備蓄された各種兵站物資とその運用システムの活用、優秀な水軍による制海権獲得による優位は言うまでもない。この時の西軍、いや豊臣軍の軍事システムは他の一歩先をいっていたのだ。
 だが、決戦前哨戦は戦略的に有利な西軍の思惑とは違い、戦争慣れした秀吉子飼いだった武断派の東軍諸将の積極的攻勢の為、西軍が想定していた濃尾平野での野外決戦ではなく、それよりかなり西、ここを突破されると野外決戦を行う場所は、依然として政治的重心である京都しかないという、西軍にとっては最終防衛線とすら言える関ケ原東側の大垣城周辺で開始される事となった。
 その為双方、特に兵力が分散している西軍は味方の増援の到着を待って、より強大な戦力をもって決戦を行おうとするが、西軍はこの時も西日本各地で攻城戦を行っている為兵力の集中が遅れており、関ヶ原近在の大津城を落とした軍勢の到着までの時間稼ぎに十四日に夜襲を決行し、これが最終決戦の撃鉄となる。
 後の流れは、急速だった。
 西軍の予期せぬ夜襲により統制が乱れた東軍が、混乱の収拾と士気の低下を防ぎ、なおかつ大垣城に篭もる西軍主力に野外決戦を強要するために強引に西進を開始、これに西軍も呼応する形で移動を始め、双方関ケ原に布陣し対戦する事となる。
 本来軍事的にこのような形、つまり真っ正面からの大規模戦闘という形での野戦は非常に珍しいのだが、双方が戦術的に追いつめられ、さらに一度の戦いで決定的な勝利を望んだため、これ程の大規模な正面戦闘が発生したと言えるのではないだろうか。

 当日の戦闘は、それまで付近一帯に立ちこめていた霧の晴れた午前八時頃に東軍の突撃により開始され、それから双方一歩も譲らない主力部隊同士の真っ正面からぶつかり合う激戦となったが、午前十時頃には前衛兵力で勝り敵戦力を押しとどめる事に腐心した西軍の優位がはっきりとしていき、午前十一時、東軍前衛戦力の攻勢限界を察知した西軍による総攻撃が開始され、当初から包囲状態にあった東軍は、四方から攻撃を受け総崩れとなり昼過ぎには各所で完全に包囲され、午後二時頃に東軍残存戦力を結集しての後方への突撃、つまり東軍総退却により戦いは終息に向かった。
 この戦闘は、西軍による典型的な後手の一撃による一斉攻撃、包囲殲滅戦が行われ、最初の敵主力撃破に失敗した以上、東軍の行える事は西軍の包囲網から如何に逃れるかだけとなった。
 東軍の戦死者三万ともいわれる決定的な敗北だった。
 なお、この当時、全体の一割以上の戦死者が出るなどありえず、これは日本の軍備・戦争が明確に近代に向かっていた事の何よりの証であり、常備軍の恒常的投入、騎兵の大量使用による迂回突破、鉄砲や大砲、その他火薬式前方投射兵器が多数使用された事の何よりの証明となっている。
 少なくとも戦場での惨状は、少し後のドイツ三十年戦争よりも酷い有様だった。
 しかし、今でも謎とされているのが、東軍がよく知られているように完全に包囲された状態という軍事的に不利な陣形で戦闘に及んだのかだが、一説には、当時一時的な養子縁組で小早川姓を名乗っていた豊臣秀秋の寝返りを、東軍首脳部が確信していたためと言われている。確かに、当日の戦いでキーポイントに布陣していた彼の軍勢が決定的タイミングで西軍を裏切れば、戦闘の行方は全く逆の形で終わっていただろう。
 しかしこの件は、豊臣秀秋はこの戦いで活躍すれば後の権勢は約束されたようなもので、全くありえないと豊臣側の研究家は結論しており、当然豊臣家の記録にも裏切りの兆候など全く存在せず、徳川氏の記録も現在では残っていないことから、現在ではこれを証明する術はなく、戦国時代の一大ミステリーとされている。

 関ヶ原の決戦以後意気上がる西軍の追撃は続き、総崩れの東軍諸将を追うかたちで十五万人に膨れ上がった大軍により一気に濃尾平野一帯を奪回すると、そのまま東軍大名が連なる東海道を豊臣の名を前面に押し立てながら進撃し、決戦から一週間後には三河まで達し徳川家の元本拠地岡崎城を攻略する事で自らの圧倒的優位を決定づけた。政治的にも、西軍の勝利が確定した瞬間と言えるだろう。
 だがさらに江戸へと逃れた徳川本軍を追いつめる為西軍の進撃は続き、その年の暮れには関東を指呼に納める所まで進軍する事となる。また、西軍に与した東北の伊達、上杉、佐竹の各軍勢も西軍に呼応し関東へ足を伸ばしつつあった。
 しかし、まさに徳川家包囲網が完成しようとしていた矢先、関ヶ原敗退後すぐに開始された自らの不利を認めた徳川家康自身による和平工作が実を結び、朝廷と北政所を介しての和睦に入ることとなった。これには、西軍諸将も激しく悔しがったが、政治的な事となるとまだ徳川氏にかなわない事を思い知らされる事となった。そして、この苦い教訓が後の江戸の陣で実を結ぶ事となる。

 だが、徳川家は起死回生の和平工作により滅亡こそ免れたが、政治的・軍事的な圧倒的不利を全て覆すことまでは出来ず、結局豊臣政権内での政治権力を完全に失い、当然五大老職は解かれ、関東全域に二百六十万石を数えた広大な封土は武蔵、相模の二ヶ国へと減封され、ただの地方大大名へとその地位を失墜させた。
 また、東軍に与した豊臣武断派の大名は、決戦で戦死した武将を君主とする大名を含め西軍の東海道進撃の際に恭順した武将も多く、滅ぼされた一族こそ僅かだったが、その殆どが豊臣政権内での権力を失い、減封や改易、領地変更などされる事となり、武断派はその勢力を著しく弱める事となる。
 そして、こうしたこの一連の戦乱の大きな影響の一つが、これより後それまで戦国時代をリードしてきた『武断派』と呼ばれる大名が勢力を無くし、反対に『文治派』と呼ばれる近代官僚的性格の強い大名たちが勢力を大きく拡大、さらに『文治派』により中央政府が武将(軍隊)を制御するという性格が強くなっていく事となり、『戦国時代』の終息が目に見える形で現した事がある。
 そう、ただ力があればよいだけの時代は終わりつつあったのだ。


四  江戸の陣