四. 江戸の陣

 関ケ原の合戦とそれによる日本本土の混乱が収拾すると、豊臣政権は今後二度とこのような事が起こらないように、さらに強固な政治体制の確立を急いだ。
 事件が海外に漏れ、そこにつけ込まれせっかく得た海外領土や同盟国をとられては元も子もないため、中央政府の強い危機感によりこれは急速に推進される事になる。
 具体的には、奉行制のさらなる整備による中央政治制度の完成、交易独占の強化による中央政府への富の一層の集中、常備軍の拡大による軍事力のさらなる強化、身分制度の制定などによる民衆支配などを格子とした絶対王制的とすら言える中央集権体制の確立である。いや、間違いなくこれは日本的な絶対王制の確立だった。
 中でも独裁者豊臣秀吉没後の政治的混乱に懲りたため、政権の中核である豊臣家の強化が早急に行なわれた。
 以前より進んでいた小早川家、宇喜多家の豊臣家化(養子縁組と女子を嫁がせる事での血縁化)をはかり、戦前の約束どおり豊臣(小早川)秀秋を大老とした。そして主家嫡男である豊臣秀幸(鶴松)が十五歳になった十六〇五年、秀次は関白を譲り、大老へと退いている。こうして、豊臣主家と宇喜多家(尾張家)、豊臣(秀次)家(紀伊家)、小早川家(筑前家)の豊臣御三家が成立する事となり、これ以後、本家共々豊臣政権の中核を成すことになり、六代で本家の血統が途絶えて後は紀伊家が将軍家を継ぎ、最後の将軍、十四代将軍は筑前家から輩出され、政治システムとしての豊臣家を維持することに貢献している。
 また、御三家は後に海外との血縁関係を結ぶ際に多用され、欧州外交がそうであったように豊臣政権の血縁外交の最も重要な部分を担い、その政治的基盤を確かなものとしていた。もっとも、明治以後豊臣の血がアイヌ系国家を中心とした他の日系地域に色濃く残った事は後に問題になっている。
 ちなみに、この頃の豊臣政権は関白に豊臣秀幸、大老筆頭に豊臣秀次、五大老に豊臣(宇喜多)秀家、豊臣(小早川)秀秋、毛利輝元、上杉景勝、島津豊久がつき、五奉行には惣奉行(筆頭奉行)として石田三成があり、その下に増田長盛、長束正家、前田玄以、片桐且元、真田昌幸、南洋奉行に小西行長があり、この布陣で政治体系の整備を急いでいだ。
 ここからも、西軍側についた武将だけによる政権である事が伺え、あの戦いが天下分け目だったとされる所以となっている。
 例外は、関ヶ原の合戦以後手のひらを返したように西軍に付いた藤堂高虎で、彼は得意の土木分野での経験を買われて普請奉行に就き、変わり身の早さ共々当時の近世的城塞建築、特に江戸造営で大いに名を残すことになる。

 そして豊臣政権は、関ヶ原の合戦以後、経済的な面では隣国のアイヌ国を除けば、海外貿易の完全な独占を始めとした経済的な支配により、特に財力は他に比べ懸絶し、何者も対抗できない程巨大な力となっていた。
 しかし、国内に不安定要素(勿論、徳川家などの反体制的な大名、豪族のこと)があったため、まずは内政安定という政策になりがちで、せっかく大規模な進出が開始された海外への拡大は、開始時期という最も重要な時期にも関わらず自ずとストップされていく事になる。また、既に広げた勢力圏を維持するだけでも当時の南洋奉行だけでは大事業には変わり無く、まだ発足して間もない奉行所は、それだけで手いっぱいとだったというのも事実であった。ただ、海外進出については、現状でも十分な利益を上げているのだから、あえて危険を伴うこれ以上の進出は必要ないとする、一部中央の実に官僚的な考えも影響し、結局この考えが以後の豊臣政権でも定着し、これ以後の海外へ向けての膨張は政府規模では停滞していく。
 しかし、商人たちはその限りではなく、全大東海、印度洋地域へとその交易の輪を広げていった。ただ、政府(正確には強大な軍事力)の手厚い庇護がなかった為、マラッカ海峡以西では他国との競争にどうしてもハンディキャップが付き、あまり大規模なものにはならなかった。この事をもって、後世の歴史家はこの時点で日本は世界の覇権を手に入れそこねたと判断している。
 また、軍事の面では、その巨大な経済力を背景に豊臣政権の常備軍の整備が引き続き急ピッチで進行していた。勿論軍備増強の主な原因は、南蛮諸国のアジア市場進出を牽制、撃退するためだ。そのためさらに大量の甲鉄ガレオン船が就役し、関ケ原合戦後大量に発生した浪人を職業軍人として金銭契約で数万の単位で雇用し能力に合致した役職に就け、武断派大名の空いた穴をふさぐため、新たな豊臣家臣団として軍事集団を形成していった。そして、その多くが東南亜細亜各地に派遣され、日本人の権益を守るべく任務に就く事になる。
 なお、この時期に作られた浪人を新たな武装集団として再編成するための組織が、「兵部校」として十七世紀後半には各直轄都市の城塞内に整備され、一部は後の明治政府にも引き継がれ陸海軍それぞれの士官学校、士官大学へとつながっている。

 そして、アイヌ国も豊臣政権にとって大きな悩みの種だった。だが同様に、それはアイヌ国にも言える事だった。今のところ利害の一致から良好な関係を維持しているが、その国力は、あくまで、日本の視点から考えるならば国内国家としては巨大すぎ、友好的な隣国と考えても巨大な力を持ちすぎていた。当然、双方ともいつ何時また浮沈をかけた戦争に発展するかと考えずにおけないものだったが、攻め滅ぼすには余りにも労苦がかかるのは先の戦いで十分すぎる以上に体験しており、南蛮に対する双方の共通した思いと、損得勘定の点からどちらも当面はとてもそんな気も起こらなかった。
 結局、豊臣政権が決定したアイヌの取り扱いは、『亜細亜・大東海の覇権の共同管理者として、互いに決して裏切れない状況を作りつつ連星国家としてやっていく』というものだった。要は、『滅ぼすのも従えるのも面倒なので、裏切れない共犯者にしてしまえ』という事だった。
 もっとも、アイヌでも同様の事を考えていたのだから「似たもの同士」と言えるだろう。
 この似たような例に、同時期のスペイン・ポルトガルが見られる。ただし、何としても相手国家を征服しようと考えず、なるべく損をしないで相手を利用しつつ共存しようとした所が穏健な亜細亜国家らしいと言えるかも知れない。
 そして、この時作られた両国の姿勢が、後の大連邦国家への大きな布石となっている。

 話が逸れたが、こうして関ヶ原の合戦の後、数年の時を経てようやく政権を安定させた豊臣政権だったが、海外進出が停滞したと言ってもその領域は国内に比べれば巨大で、豊臣政権、特に中枢を担う奉行衆とその配下の官僚団は、自ずと海外ばかりに目を向けるようになり、結局のところ国内統治が疎かになりがちだった。特に地方行政はその政治システムから大老に任せていた事もあり、かなり杜撰な状態だった。そこを再び徳川家に付け込まれ、彼の勢力は再び関東を中心に徐々に広がりつつあった。
 しかし、これを遅ればせながらこれに強い危機感を抱いたした豊臣政権は、単に徳川氏の封じ込めもしくは殲滅を図るだけでなく、国内安定の一挙解決を図るための行動を開始する。
 もっともその行動は、意外に単純なものだった。
 徳川氏の取る行動を中央政府として事有るごとに激しく非難し、ついには求心力であった家康とその一党の人質化を要求し、事実上のお家おとり潰しを命令したのだ。これは自らが日本の中央政権であるとの何よりの宣言であると同時に、経済力、軍事力の圧倒的優位を確信しているが故の高圧的態度と言えよう。
 ただし、この豊臣政権の強引な行動は、これにより徳川氏を始めとする反乱予備分子を根こそぎいぶりだし、一掃してしまおうと言うものだと言われているから、そう考えると当然の行動と見ることもできるだろう。

 反撃の力が整うまで、もしくは二度の日本の覇権を求めないように一諸侯として存続しようと、今までなんとかしのいできた徳川氏も、この高圧的な要求にはどうすることもできず、準備不足だが一か八かの賭けにでる事を決意する。後手の一撃で豊臣の侵攻軍を撃破し、その勢いと混乱を利用してもう一度戦国時代を再来させ、その中での再起を図ろうとしたのだ。
 この方針に従い、豊臣政権は天皇と京都をないがしろにしているので打倒しなければならないと全国に檄を飛ばし、反豊臣勢力を結集しようとした。
 これに、一部の関東の大名達や、豊臣常備軍による徴兵で減少したとはいえ、なお国内に溢れていた浪人を始め、関ケ原の合戦などで敗退し滅ぼされた元大名、豪族や武士達が多数参集した。また、それまでに徳川家に恩のあったいくつかの遠方の有力者に、豊臣政権に非協力的であるよう働きかけも積極的に行われた。
 なお、この内乱でアイヌ国は完全に豊臣支持に回り、色々な援助を行って豊臣政権に『恩』を売る事に専念した。もう一度、日本中央が混乱しては、せっかく安定させた日本市場と彼らが半分握っている東南亜細亜市場が台無しになってしまうからだ。

 豊臣と徳川の最後の戦闘は、一六一四年の冬に前哨戦の箱根前面の富士川攻防戦、つまり徳川側が得意とする野戦で開始された。
 これが俗に言う「冬の陣」だ。
 そして、ここでの戦いに思わぬ戦術的敗退を喫した豊臣軍は、この戦いに日和見をした地方諸侯たちの出遅れなどが原因で進撃が遅れ、またこれを見た奥州、関東の諸大名の中で豊臣政権に恨みのある幾つかが徳川陣営に付き、本拠地の江戸には十万人を越える軍勢が集結する事となった。そしてその巨大な軍事力を背景に、大坂進撃すら思わせる動きを見せていた。
 特にこれは、冬ということで日本海側や奥州の諸侯が動けない事から、その深刻度合いを増していた。
 実際、富士川の戦いのすぐ後、徳川方による数万の軍勢を用いた甲州街道への積極的な侵攻が行われ、甲州一円が徳川側の手に落ちる事になる。
 このため、当時濃尾平野に集結しつつあった豊臣軍団の主力と西国大名の連合軍は、東海道もしくは中山道からの徳川軍による突破戦を警戒して身動きが取れなくなっていた。
 なお、世間が関ヶ原の再来、戦国時代の再来かと騒いだのが一六一四年が終わり、一六一五年を迎えようとしていた時になる。

 この不測の事態に豊臣政権は、豊臣秀頼が総大将となり諸将の動揺を沈め、軍略の天才の誉れ高き真田幸村が侍奉行に就任し豊臣の名代として、動揺が広がりつつあった全国の諸大名に激を飛ばしさらなる動員を命令する事で対応した。
 そうして動員された軍団だけでは不足とばかりに、さらに海外に展開・駐留していた軍団までも一部呼び戻し一大兵団を編成し、江戸湾を覆い尽くすような大艦隊を関東に派遣して兵站線を万全なものとした上で江戸包囲作戦を開始する。その上、内乱にも関わらずアイヌ国にも援軍の要請を出し、内乱鎮定にかける豊臣政権の決意を内外に知らしめた。
 そして、当時国内改革を終え安定政権期にあったアイヌ国のマサムネ王は、この豊臣政権の要請に応え、膨大な兵站物資と共に数万の軍団と本国艦隊を江戸へと送り込み、日藍の同盟関係の強さを内外に訴えかけている。
 なお、このメッセージは、もし豊臣政権とアイヌ王国に刃向かえば、身内であってもいかなる事態を招くかを伝えるものともなった。

 そして、その数三十万とも言われる大軍団は、日本国内の内戦だったとは言え、豊臣政権の国力を見せ付ける何よりの証拠だった。この時代、これだけの大軍、しかも極度に火力装備がなされた近代的な軍団を編成できる国は世界のどこにも無かった。この戦力は、当時の全欧州のそれを完全に圧倒するとさえ言われており、これ以上の軍事力を持つ国は巨大な領土と人口を擁する中華帝国の『明』王朝しか存在しなかった。しかも明は、その巨体と後進性ゆえ軍備の近代化は日本ほど進展していなかった。そして恐ろしい事に、完全な三兵編成(騎兵、砲兵、歩兵)が取られた豊臣軍団の半数は職業軍人による常備軍だった。
 つまり、当時の豊臣軍団は、文字通り世界最強の軍隊(陸軍)だと言えるだろう。
 これは、同時期ドイツ地方で行われていた三十年戦争における一度の大会戦での動員戦力が、せいぜい数万単位でしかなく、しかもまともな兵站システムをもたない戦いと、そうでない戦いの違いを明確に見せるものでもあった。しかし、この時代兵站を重視する巨大な軍事組織を作り上げた日本の方が先進的と言うよりも、異常だという認識は忘れてはいけないだろう。
 世界史上これ程兵站を重視した部隊を作り上げたのは、かつてのローマ帝国と一時期の中華帝国を例外とすれば、同様の軍団を整備していた隣国のアイヌ軍ぐらいだった。

 濃尾平野に二十万の大軍を集結させた豊臣軍団は、水軍に敵補給線の破壊を任せると、その後その圧倒的戦力を東海道と中山道に分けて進軍させ、甲州、伊豆で再度迎撃に現れた徳川軍を圧倒的火力と機動力でねじ伏せると、その勢いのまま関東地方へとなだれ込んだ。もちろん北国からもそれぞれ数万の大軍が同時侵攻を行っており、さらにその北からはアイヌの誇る騎馬軍団と砲撃軍団が後続として続き、とてもではないが総数十万の徳川軍に対処できる兵力ではなかった。
 これは、無理して各所で野戦に及んだ徳川軍の惨状が全てを現しており、中世型軍隊と近世型軍隊の差も同時に見せつけるものとなる。

 その後武蔵野の大地に侵入の後、集結と再編成を終えた30万人を越える豊臣軍団による江戸城攻略戦は、前哨戦の徳川氏の各支城を落とす所から始まり、江戸城攻撃に至るまで終始砲撃を主とした火力戦法が用いられた。これは、来るべき対南蛮戦の為の軍備増強に財力と国内生産の充実に力を入れた成果が十分に反映された、この当時極めて最新鋭の装備を持つ豊臣直属軍団の面目躍如たるものだった。
 この火力を前面に押し立てた戦法は、見た目にも戦国時代が終焉した事を全ての人に感じさせるものがあったと言われており、様々な文献・絵巻物が時代の節目であった事を伝えている。
 ちなみに、最後の江戸城本丸攻撃でも、徳川家康を始めとする一党も、包囲軍に所属する強大な砲兵部隊による間断ない砲撃によって倒壊した天守閣や御殿と運命を供にしたと言われ、炎上する天守閣内での切腹や、ましてや一部の軍記物にあるような、侵入した敵軍とのはでやかな剣劇を行なう余裕は無かったものと思われる。もっとも徳川一党の最後の詳細は、本丸天守閣そのものが砲撃により焼け落ちた為、一部の死体が定かではなく、民衆の間では徳川氏は落ち延びたとするような噂すら飛び交っていた。現代でも、徳川の隠し里や隠し財宝と言った逸話が残っているのは、良く知られている事だろう。もっとも、裏を返せば民衆からそう言った噂が出るほど悲劇的な最後だったとも言えるかも知れない。
 そして、この戦いにより戦国と言う時代は本当に終わりを告げ、新たな時代の幕が上がる事になる。


五  江戸幕府