五. 江戸幕府

 徳川家の滅亡と共に国内の不穏分子を根こそぎ一掃する事に成功し、ようやく完全な内政的安定を手にした豊臣政権は、さらなる内政の安定を図るための行動を起す。
 それは、マサムネ王の治世下重商業主義を標榜としていたアイヌ国に対抗するためには、自らもそれを実現するための強大な中央権力が必要だったからだ。
 全ては競争原理が、日本列島を文明の発展へと駆り立てたのだ。
 そしてそれは、関白を中心とした日本式宮廷儀礼を重んじた平安朝の発展型のような郡県制による緩やかな中央集権でなく、それよりも強固で近代的な権力体勢を作る必要を迫り、再び征夷大将軍の位を朝廷に要求する事から始められた。これまでの経緯から、征夷大将軍こそが日本での絶対権力者だと日本列島の住民達が考えるようになっていたからだ。
 これを、欧州大陸的に解釈するのなら、天皇家はローマ教皇かギリシャ教皇のような精神的な権威であり、征夷大将軍とは現世の権力の代行者たる神聖ローマ皇帝かロシア皇帝のような存在に置き換えると分かりやすいだろう。特にこの姿勢は、豊臣政権というより日本人による世界が亜細亜・太平洋の一大帝国として広がりそして繁栄する、これよりもう少し後の時代において顕著化する。
 そして、これこそが日本の権力者が、この時代において権力としての宗教を特に必要としなかった大きな理由となっている。
 これ以後、日本の宗教は冠婚葬祭にあればよい、民衆信仰になったのだ。

 話がそれたが、豊臣政権の要求を受けた、いまだ京都に存在する天皇を中心とした朝廷は、秀吉の時はあれほど拒んだにもかかわらず、今度はあっさりとこれを受け入れ、豊臣秀幸は征夷大将軍となり、二つの朝廷内の最高官職を持つことはできないとして関白職が朝廷に返上された。
 なお、豊臣秀吉が望んでもなれなかったのに、豊臣秀幸が征夷大将軍に就任出来たのは、母親だった淀の方が源氏の流れを汲む織田家の血統に属しているのが、その理由だろうと言うのが現在での通説となっている。

 征夷大将軍となった豊臣秀幸は、初代将軍としての最初の仕事に着手する。
 それは、幕府の為の新たな都の建設、権力の象徴の建設だった。それは、彼が武力で日本を統一したのではないため、権威を示す必要があったからだ。
 そして彼は幕府を開く場所をそれまで豊臣の本拠地だった大坂や伏見には設けず、亡き太閤が宿敵の居城だった石山本願寺跡に大坂城を築いた事に習い、敵手の地だった江戸に新たな城を築いてそこを幕府の政治的中心地とした。これにより大坂城は、以前の伏見城のような離宮的役割となり、またその城下町は商業地帯の中心部、日本経済の中心として置かれ整備が進み、首邑としての役割は譲る事となった。そしてこれは、豊臣政権が国家規模で富、権力の一極集中を避けるために行った、高度な政治選択の結果だとされている。
 そしてこれにより、政治の中心江戸、文化の中心京都、産業の中心大坂、交易の中心博多、アイヌとの中継点仙台という図式が出来上がり、江戸時代でのそれぞれの繁栄の軸となっていく。
 もっとも、豊臣秀幸が江戸に遷都した本当の理由は、アクティブな豊臣政権が今までの政治の中枢である京都に近い事を嫌った為というのと、最初の武家の棟梁たる鎌倉幕府が関東に都をおいた故事に倣った為だとするこの二つの説が現代での通説となっており、その議論の結論は未だに出ていない。

 そして一六一八年、新たに造成されつつある江戸の街は、安土桃山時代で広がりつつあった巨大な城というよりも、平安時代の城塞都市を発展させたような近代的な城塞都市としての建設が始まり(「江戸要塞・宮殿」の完成は三〇年を要した)、とりあえず中心部の政治中枢となる京都の二条城を数倍にしたような宮殿としての趣を持った政庁の完成した一六二〇年、正式に江戸幕府が開かれた。
 なお、江戸の街は他の安土桃山型城塞建築と違い、防御力よりも権勢を見せつける事を重視した、壮大で巨大なだけの城壁の中に碁盤の目状に区切られた計画都市を内包したもので、城郭の類似例をあえてあげるなら、二条城が信長の作り上げた安土城の二つがそれに近いと言え、現代に残る二条城が江戸城のスケールダウンだと言う事を考えれば、安土城こそを唯一の例をしたと見るべきだろう。
 ただし、その時掘られた最大幅五十メートルの深い堀と街の機能全てを連結させた大運河網、石造の上水道網は二十一世紀を迎えた今日においても大きな役割を果たしており、土木学者はこの時の大土木事業をローマ帝国に匹敵する大きな評価を与えている。
 また、この時建設された、海抜100メートル以上の高さを誇った巨大天守閣は、日本建築としては異例の石造りを多用した和洋混在の巨大建築物となり、たびたび襲った雷や大火、地震も耐え抜き、今なおその威容見ることができるのは、特筆に値するだろう。
 そして、江戸の街は以後、豊臣政権の政治的中枢にして、多数の官僚・常備軍(武士)を抱えた大都市としての消費地帯として発展していく事になる。

 江戸幕府の制度は、当然だが以前の豊臣政権をさらに発展させたものとなる。
 大きくは将軍を中心とした地方行政と中央行政、海外統治を分割した中央集権型政府であり、近世的な郡県政をとっていた。
 地方支配をそれまでの中央政治的色合いが濃かった大老を改め、新たに制定された地域一帯を統治する「大侯」と呼ばれる世襲制の地方自治領主制度が敷かれた。これらの大侯には各地の有力大名(全ての大名が五十万〜百万石クラス)が任命され、それぞれ奥州(伊達)、越州(上杉)、板東州(佐竹)、信州(真田)、東海(宇喜多(豊臣))、畿内(石田)、中国(毛利)、四国(長宗我部)、北九州(豊臣(小早川))南九州(島津)、北台湾(立花)南台湾(加藤)(後に呂宗各州(呂宗本州(山内)、三千諸島(九鬼)明田(秋野))と、苅間(カリマンタン)島(小西)が加わる)が選ばれれた。
 彼らの一族は、中央の権力の代行者、地方領主と総督を兼ねたような存在として影響域内では幕府の次に強い権限を持ち、豊臣政権下での郡県制の根幹をなしていく事となる。
 なお、武蔵国全域など安全保障面から必要な最低限度の地域が幕府の直轄領として押さえられ、さらに大侯の城館のない大都市の大半が幕府直轄市となり、それ以外の日本各地は幕府派遣の官僚による二重統治(相互監視体制)のもと全て大侯の管理するところとなった。当然、大侯を始めとする諸侯さらには全ての民には、近世的郡県政統治の基本に従い中央政府への納税義務が発生し、幕府の財政を安定させる事となる。
 そして、この体制こそが豊臣政権が封建国家と言うよりも、近代的君主国家としての側面を強く持ち合わせている何よりの証拠だった。
 
 また中央行政は、試験による任官で就任する役人や奉行達(中央官僚)によって構成される惣奉行衆(八奉行衆)以下、内務、外務、財務、国防、司法、農林・土木、交易・産業、宗教の各奉行所に改変され(名称は「○○奉行」で当時風の名称となる)、幕府の強大な権力を背景に強力な官僚制度を敷いた。
 なお、政府システムの根幹の一つである「豊臣家」の管理は彼らの外に置かれ、豊臣家を日本國の政治システムにする事で近世国家としての側面を強化していた。
 もちろん、その二十万と言われた常備陸軍と強大な水軍が幕府の直轄となり、豊臣政権の体制をより盤石なものとしていた。
 そしてこれらとは別に、幕府の統治機関として武士以外の人間により構成される合議制の組織、主に大商人からの推薦で選ばれた知恵者からなる「会合衆」が作られ、幕府直轄の大都市での行政・立法の補助機関とされた。
 この機関は、当初は十七世紀初頭に本格化した海外進出により強大な力を持つに至った豪商に対するリップサービス的な表面的な政治的組織で、組織が作られた当初その実行力は殆どなかったが、後に大侯が地方自治で本当に力を持ち出すと、幕府は直轄領、直轄都市などに対する自治権・行政権を大幅に持たせ、大侯達に対抗する地方組織、後の政令指定都市とした。それでもその権限は都市行政とその地域の商業に関する事に限定されたものでしかなかったが、東洋初の中央政府公認の民主議会として存在した事は意義深いと言えよう。
 そして、十九世紀に入り産業の発達により誕生しつつあった中流・中産階級市民の増えた都市での権力を掌握した豪商達は、自分たちの地位を高めさらに財を築く為に自らの後援団体となりうる都市住民たちの教育を熱心に行い、これら高度に教育された「市民勢力」が幕末において一つの大きな勢力を築く事になる。
 だが皮肉な事に、幕府の行ったこの民衆に対する政治的ガス抜きが、日本の政治的近代化を遅らせたのは言うまでもないだろう。しかし、幕府の目的が民衆の目を誤魔化す事にあったのだから、歴史的判断は別として、最も成功した政策の一つと言えるかも知れない。

 なお、江戸幕府が二五〇年間もの長きに渡り続いた背景は、幕府が民衆に対して、この当時としては世界的に見ても最も手厚い施政を行ったからなのは間違いないだろう。何時の時代でも民衆とは、自身の生活は安定しているのなら、政治的な文句は言わないものだ。これは、アイヌの制度を見習ったものと言われ、事実アイヌより多数の政治・行政のための顧問団が派遣されている資料が残っている。
 そして、状態としては当時の欧州列強よりは、パックス・ロマーナ時代の全盛期のローマ帝国に近いと言えるかもしれない。
 また軍備も常備軍と言われるだけに封建的なものから一歩出ており、それまでの豪族や大名など一族郎党による「旗本・御家人」的な中世的軍制はすたれ、徴兵義務こそ残ったが大名、豪族、武士階級は全て西欧的な貴族への道を歩み、通常は戦国末期に新たな階級として出来上がった教育により作られた職業軍人としての武士が再編成され、文官としてではなく軍人として生き残る事を決めた武士階級の者たちが兵士となり豊臣直轄軍を構成し、新たな「旗本」・「御家人」となっていった。
 またこれとは別に地方領主たちは、管理領域の規模に応じた職業軍人を養う義務を負う事となった。当然、これは各地域の武士階級が中核となる。このため、大侯の事を軍事的に採り上げるときには、将家と呼ぶようになり、地域によってはプロイセン軍人のような強固な軍人貴族社会を作り上げていき、特に北陸、奥州、九州などでこれが顕著に見られ、彼らが二百年ほど後幕末の動乱を主導していくことになる。
 そして幕府は沿岸防衛用の陸上警備と、中でも海外での駐留任務を地方領主に重視させていた。
 本来地方が大きな軍備を持つと反乱の元となるのだが、幕府以外に外洋軍船(千石以上の外洋軍船、特に甲鉄船)の保有が厳しく禁止された事と、幕府直轄軍の規模があまりに大きい事、そしてなにより騎馬戦、火力戦が主流となった新たな軍隊を維持するだけで莫大な資金が必要で、さらに海外駐留義務により軍隊と自分たち諸侯が切り離されてしまっており、とてもそれ以上(軍事行動)の事態に発展させる事は地方領主レベルにはできず、さらに幕府の海外派兵が巧みだった事から結局大規模な内乱は、ついに幕末まで江戸幕府二五〇年の間発生することはなかった。
 幕府太平の時代、各諸侯軍は幕府直轄軍と共に国内でなく主に国外で行動し、亜細亜・大東海各地と北海道(シベリア)と秋津(北アメリカ)大陸での小競り合いに終始し、「○○州軍」として一種スポーツ競技のように民衆からの人気を競い合う事になる。このため、各大侯は自領地に属する武士たちにいっそう兵技を磨かせ、強固な規律を求め、出征する事の義務を求める方向が作られ、そしてこの精強な「軍人武士」育成とその目に見える状態が、欧州で言う所の「サムライ」を作り上げたのだ。
 さらに幕府は、海外支配のために設立された南洋奉行をより規模が大きくまた独自行政権の強い南洋探題に改め、さらにはそれまで分化していた国営交易を一手に握らせた国策交易会社的な機能を持たせ、またアイヌ国と北方地域の監視、統制に新たに北海探題を設置した。そして呂宗、馬来と南洋、大大和島(オセアニア)方面のいくつかの島々が主に日本人の治安維持のため日本領とされ、これらが各国に通達された。
 これを追う形で、小琉球あらため台湾島は正式に日本国に編入され、当地の有力豪族の他何名かの大名が大侯として移封された。
 また、琉球王国はアイヌの強い後押しもあり、アイヌ、日本と同等の立場とされ同盟関係が結ばれた。そして中華帝国の封柵体制下にある立場を利用して、これまで通り鎖国を伝統的国策としている中華大陸国家への経済的、政治的門戸とされた。言うなれば、琉球王国はそのものが中華大陸のための大使館のようなものだったのだ。もしくは、日本中央が中華帝国を忌避していた証とも取れる。
 そして、琉球が中華帝国の封柵体制のまま置かれたのは、日本人達が中華地域で産出される絹を強く欲したからでもある。

 そして、これら政治機構の一応の整備により、豊臣政権は近世的中央集権王国として完全に成立する事になる。
 これは当時の世界規模から見ても超大国の誕生でもあったが、その性格は当時の世界帝国の一般的な形である、大商人主導による支配領域からの収奪により本国の繁栄を作り上げるスペイン型植民地帝国ではなく、ある程度はそのような側面を持ってはいたが、交易体勢が確立してからは、むしろ英蘭に近い中小の商人による活発な貿易による交易帝国を形成していく事となる。また、それはアイヌが早期に重商主義帝国を形成していた事により、競争原理から加速される事となった。
 また、日本・アイヌともに領土的な側面から見れば他の帝国主義国家とは明らかに異なり、全ての支配領域における総合的な国力の増大を目的とした、どちらかといえば後年のアメリカによく似た開拓型の国家としての形態を持っていたと言えるだろう。
 この点は、日本の農耕民族的国家の側面を強く見せていると分析できる。
 ちなみに、この頃の日本の対外的な呼称は「江戸幕府」や「日の本」ではなく「豊臣王国」ないしは「豊臣王朝」とされ(正確には「豊臣朝・日本皇国」と呼ぶべきか)、また十七世紀後半に海外に対する必要性から制定された国旗は、日本とアイヌの仲を取り持った伊達家が掲げた「日の丸」が後に双方で一般化し、十七世紀中には定着し一七三〇年頃にほぼ「国旗」として確定する運びとなる(軍旗は家紋である「五七桐」、そして「総金の幟(千成り瓢箪)」)。この日の丸はその後、日本帝国の連合体そのものを表す国旗ともなった遠因がこれにあるのは、よく知られているだろう。
 そうして、政権を完全に安定化させた江戸幕府は、これより約二五〇年の永きにわたり存続し、安定した内政と強大な経済力と軍事力による近隣の実質的支配権の確立により大いに繁栄し、世界史的規模から見ての日本の台頭と、第一期黄金時代を作り出す事となる。


六  日本の成長(ミラクル・ピース)