六. 日本の成長(ミラクル・ピース)

 約二五〇年間続いた江戸時代において、近代的官僚による完全な文治統治を確立した江戸幕府は、亜細亜・大東海(大平洋)全域の交易と情報をコントロールする事と、その地域でのシーレーンの確保のみ専念した。その代わり費用と手間のわりに、長期的な利益を得るには莫大な時間と経費を必要とする、高い文化を持った地域への侵略的な植民地化は殆ど行わなかった。これは、近在の亜細亜国家が経済的によく発達した中世型国家が多かった事も原因していたし、大陸に存在する強大すぎる勢力を持つ中華帝国の影響もある。
 この当時の日本は、明らかに中華帝国を無視しており、そしてこれは日本にとっての中華コンプレックスの現れであったが、互いにとって都合がよかった事から、十九世紀半ばに西欧が本格的に入り込むまで継続される事になる。
 ただその反面、親日的な政府を作る工作には熱心だった事は文献からも明らかだ。ゆえにこの時代の日本は、活動地域は亜細亜・大東海地域に限定されてはいたが、世界有数の情報機関を持つ事となり、その為の機関が各探題でもあった。最盛時のその情報力は、ジョージ朝もしくはビクトリア朝時代の大英帝国のそれとも匹敵するとすら言われ、亜細亜・大東海(大平洋)全域にその根を下ろしていた。これあればこそ、江戸幕府は二五〇年間もの間、この広大な地域において安定した海外統治ができたと言っても過言ではないだろう。
 そして、海外で日本の間者や諜報関係者の事が黒装束と神秘のベールで包まれた不死身のファイター「ニンジャ」として、ある種滑稽な姿に擬人化され、目に見えない恐怖を欧州人に振りまく事になる。

 日本国内の政治体制の確立の後、つまり十七世紀半ばから以後百五十年ほどは、余りに遠方に存在する強大な力を持った国家の存在を警戒した欧州列強が、主に距離的問題もあり亜細亜進出を長期間控えた事から、日本の交易路には時折はびこる海賊対策や反日的な政権が誕生した際の近隣諸国に対する恫喝外交程度や、地方の内乱・小競り合い程度しか強大な日本の軍事力を必要とする機会はなく、そのため幕府も諸侯も軍事・国防に必要な最低限以外の国力を投入する必要もなくなり、その余力は国富の拡大、つまり交易のさらなる拡大を目的とした産業育成とそれを可能とする国内社会資本の建設に投入され、日本、そして日系国家群を内から形成していく原動力となった。
 これを、戦争や侵略をせずに発展した事から、蒸気機関の出現により始まった第一次産業革命とはまた違った、生産革命と呼ぶ事もある。
 そしてこの平和な期間に、武士・豪商・豪農・そして都市住民を中心とした華やかな文化が時代ごとに醸成され、日本人の繁栄に華をそえた。
 しかしこの繁栄こそ、植民地からの一方的な収奪によらずに、豊かでそれぞれが繁栄していた当時の亜細亜全域の富と情報のコントロールにより利益を上げる事を最優先の政策とした江戸幕府が、極めて実利を求める西欧とは少し違った意味での重商業主義政権である事の証明と言えよう。また、各地の日本人たちが、大東海(太平洋)各地の未開地の開拓を熱心に押し進めた事も、これを補強した事は言うまでもないだろう。この点においては、実に農耕民族らしいと言えるかもしれない。
 そして、この幕府が作り上げた方向性と海外での武士、商人の活動が、近代以降の外に向けての日本人の精神的な考え方を決めたとも言える。しかしその反面国内では、こういった海外での奔放とも言える性質を抑制し、内政的不安を少しでも緩和するために、幕府が武士を中心に率先して統治者にとって都合の良い儒教の教えを広めた。それがいわゆる「武士道」と呼ばれる精神的美学や日本的(禁欲的)文化的風土を補強する事になっていく。
 そしてこの「武士道」といわゆる「商人根性」が、内的調和や精神的美学と実利や挑戦を好むと言うネガティブとポジティブの性質を持ち合わせた今日の日本人を完成させたと言えるのではないだろうか。
 では、ここで少し本題から離れるが、当時の日本文化を産業・文明程度の進展を中心に見て次に進もう。

 江戸時代において有名な文化は、戦国末期の十六世紀末から十七世紀前半までの「安土桃山文化」、十七世紀後半から始まった「元禄文化」、十八世紀末からの「化政文化」とほぼ百年おきにそれぞれの節目で花開いている。
 そして、この文化の最盛期はそれぞれ、日本の勢力、富が著しく増大した時期、つまり近世日本の黄金期にあたる。
 分かりやすく分類すると、戦乱の拡大による産業の全国的発展とその後の急速な海外膨張がもたらした武士、豪商(大商人)中心の「安土桃山文化」、内需拡大、つまり家内制手工業、問屋制手工業を中心とした国内産業の発展と日本本土の社会資本整備のための大土木事業がもたらした富みを牽引力とした都市住民文化である「元禄文化」、農業収入の増大と工場制手工業の拡大などが生み出した資本家と裕福な武士・豪農(貴族・士族)階級、そして日本各地の大都市住民が作り上げた「化政文化」になる。また、「化政文化」はそれまでの上方(京阪神地方)発祥の文化でなく全国規模、特に首都江戸を中心にして発展したのが大きな違いで、さらには産業革命の苗床を作り上げた功績も小さくないだろう。
 そして、これら文明・文化の進展は、欧州特に英国のそれと比べるとほぼ半世紀遅れであり、日本が次の段階に進む時に英国との戦争が発生、平和の中での産業、文化の発展を阻害し、そして新たな階級社会の出現を阻止したと言える。このため、日本では西欧ほど特権階級(貴族、資産家、富農)が実質的な力を持ち、そのパワーにより庶民との間に絶対的な差を作り上げるに至っていない。
 そして「化政文化」で形成された中途半端な状態が幕末まで続き、最終的に一部の裕福な成功者(貴族・士族、資産家)とそれなりに豊かな都市住民(中産階級・中流階層)とそれよりやや貧しい一般住民(農民など三次産業従事者と都市下層労働者)という差を作り上げ、表面的な身分制度(士農工商)を事実上崩壊に追いやり、明治に入るまでに新たな身分の差異を生み、一八六七年の革命へと繋がっていく。

 では、次にそれぞれの文化の時代について、もう少し掘り下げてみよう。
 「安土桃山文化」の最大の特徴は、武将や豪商が生み出した巨大で華美な城塞建築や美術品ではなく、文化そのものがそれまでの古代・中世文化ではなく、近世的文化だと言うことだ。
 また、「黄金趣味」などに代表されるそれまでにない派手さと、「わび・さび」と言われる日本独特の閑寂な精神を尊ぶ二つの側面を持っている点も見逃せない。なぜなら、これこそが近世日本人の二面性をこれ以上ないぐらいに表現したものであり、その後の方向性を決定づけたからだ。
 もっとも、表面的に著名な文化側面は、明治期まで「南蛮」と呼ばれた欧州の文化が、数多くそれまでの日本文化の中に入り込み受け入れられた事がある。文明的に日本に大きな影響を与えたものを採り上げてみると、西洋火器、航海術、活版印刷術などが有名だが、音楽・絵画・衣食・医療面など様々な分野でも南蛮文化が取り入れられている。
 中でも織田信長の安土城、豊臣秀頼が完成させた江戸城が良く知られていると思う。
 そして、その逆に日本の亜細亜拡大により様々なものも持ち帰られ、これも日本文化に大きな影響を与えている。当時までの呂宗、馬来、インドシナ、インドネシア、南洋各地、果ては印度、両アメリカ大陸などの文物を集めた巨大博物館が東京の大東亜博物館に今も存在するので、これについてはそこを訪れるのが良いだろう。
 また、当時まだ隠れた世界帝国と評してよい広大な版図を誇っていた隣国アイヌからの文化的影響も無視してはならない。特に馬匹の広範な一般利用、食肉習慣、建造物の木造から石造への一部転換は、彼らがもたらしたと言っても過言ではないからだ。そして、隣国に文明的に発展した国が在るという事実が、日本人の競争意識を刺激し、これが相互作用してその後の日系文化・文明の発展に大きな影響を与えた事を考えると、このアイヌ国の存在こそが最重要と言えるかもしれない。もっとも、十七世紀半ばを境にアイヌの勢力は減退を続け、その後文化面で日本に影響を与えることは少なくなり、反対に日本文化がアイヌに流れる従来の形が強くなっている。
 話が少し逸れたが、華美な文化に表面を彩られた近世文明の基礎作りこそが「安土桃山文化」の最大の役割、これが結論だ。

 次に「元禄文化」だが、この文化の最大の特徴は、日本全国の近世化と海外交易の拡大による日本の国富の増大に後押しされた事にある。
 広義には元禄時代を中心とする江戸時代前半期の文化で、四代目将軍豊臣綱吉在職中の一六八〇年(延宝八)〜一七〇九年(宝永六)がその時期とされる。ちょうどこれは、呂宗などへの日本人移住が大幅に行われ、日本商人が西は南蛮から東は南北アメリカ大陸と最も活発に海外で活躍した時期ともされている。
 また、「上方文化」と呼ばれるように、京都、大坂を中心とした文化であり、文明の進展や産業の発展においても、西日本中心に動いていた時期とも重なる。
 大坂は日本中の交易路と日本の海外交易路の最も大きなトレーダー都市として、つまり全国物産の集散地として繁栄し、京都は「千年王都」と呼ばれる優れた伝統的文化とそれまでに蓄積された伝統技術をもつ商工業の中心として、江戸時代前半期の経済界の中心的地位を占めた、まさに興隆期の上方町人による町人文化(都市文化)であった。
 これは、首都でもなく、産業革命以前の時代だったにも関わらず当時の大坂の人口が五〇万人を越えていた事を最大の例として挙げられるだろう。大坂の街はそれ程商業で栄えていた。
 そして、上方の都市住民とそれらの頂点に立つ今井、鴻池など現在もコングロマリットとして大きな影響力を持つとされる豪商たちを頂点とする町人の文化的欲求の高まりが、この元禄文化を創り上げたのだ。
 なお、金融の街、日本の瑞西として堺の街が再生したのもこの時期になり、日本のロスチャイルドと言われる鴻池家が単に海運・商業だけでなく、金融業に手を染め、軍需産業に強く関わるようになったのもこの時期になる。
 また、物産の大量流通は航路、道路の発展を促進し、さらに高度化した通商路を利用する事により産業の発展が全国規模で加速され、しかも急速に大規模になり、そうした生産力の向上と商品流通の発達を基礎とする大坂周辺の在郷町、江戸をはじめとする城下町、宿場町、港町がこの文化のもう一つの牽引役ともなっていく。
 これを文明的に見ると、その特徴に日本の主要内陸街道がローマ帝国もかくやという石畳製の道路に整備され、そこを無数の馬車が往来し、巨大な石造りの港に接岸する大型ガレオン船の姿が特徴として挙げられる。そして、日本列島に現存する多くの石造建造物が出現し始めたのものこの時期で、京都、大坂、江戸、博多などの商業の盛んな街の中心街に当時としては高層の石造建造物群、つまり初期のビル街が出現し、道路の石による舗装も相まって必要性が叫ばれるようになった大都市での下水道の整備が始まったのもこの時期からだ。
 また、上方の商業的な発展は、この地域を中心に亜細亜各地からの逆移民を発生させ、江戸と上方で人種の混濁化を生み、今でも古くからの都市住民の肌や瞳、髪の色が多彩なのもこの時期から始まっている。

 最後に「化政文化」だが、江戸時代の後期、江戸を中心として展開し、文化・文政期に最盛期をむかえた文化現象がこれにあたる。
 大和大陸(現在のオーストラリア)への大規模な移民の開始や北の隣国アイヌでの大規模な政変と改革、天明・寛政時代の田沼親子の大規模な改革政治をへて、都市も農村も、矛盾をはらみながらも活況を呈し、それが文化の創造、容への参加者、いわば文化の担い手を身分的・地域的にも拡大し、国民的規模で文化は進展した。
 その最大の文化的特徴は、日本全国規模での教育の普及とそれに伴う西欧的な大学の登場、つまり高度な教育が日本全国民に必要になった時代を反映した、国民文化の形成とそれを後押しした書籍文化にある。
 また、交通網の発展に伴う地方の発展は、寺社参詣・縁日・花見など町民の遊びや地方観光も活発なものとし、踊りや音曲など遊芸を習う者も増えた事などからも当時の姿を見て取れる。日本各地に存在する祭りが、現在の形になったのもこの頃で、これらも日本文化全体の国民文化化を促進し、海外への日本文化輸出を強める大きな要因になる。
 もう少し細かく見よう。
 教育の普及は、室町・安土桃山時代に始まった寺子屋制度と江戸時代初期に形成された藩校・兵校と呼ばれる武士の教育機関がその萌芽となり、江戸幕府の豪商以下の都市住民への政治的解放が都市住民の教育の発展を促し、そして元禄時代からの日本の海外への本格的膨張、つまり移民政策が日本人の均一化を幕府(政府)に求めさせ、それら全てが形になったのがこの「化政文化」の時代だ。
 なお、日本各地の伝統ある大学が誕生したのは元禄時代からだが、本格的に大学となったのはこの時期で、「郷学」、「小学」、「大学」が現在での「小学校」、「中等学校」、「高・大学」になり、都市住民が作り出した学校は「小学」が「徒学(徒弟学校)」、「大学」が「師学(師範学校)」のちの高等学校になり、紆余曲折と西欧文化の流入により今の形が徐々に作られていく事になる。つまり、明治以降新たに作られた学校は、各種女学校を始めとする女性を対象とした学校だけと言ってよいだろう。

 また、家内制手工業から急速に工場制手工業へと発展した二次産業の影響は、英国などでも行われた農地の「囲い込み」を起こし、日本経済全てが完全に農業主導から商業主導、しかも重商主義へと傾倒させる事になり、平野部にあった昔ながらの農村風景の多くを破壊し、地方武士や豪農を裕福にするだけでなく、日本社会全体に大量消費時代と資本主義の幕開けを促す事になる。
 なお、土木技術の発展、農法の改良により、新たな土地が生まれたり生産量が大幅に増大した事で、新たに土地を開発した者やそれまでの土地持ち武士、豪農が富み、この状態の継続は武士と裕福階層を中心とした「豪士」と呼ばれる新たなエリート階層を作り上げる原動力になり、彼らの飛躍もこの「化政文化」を支える事になる。
 そして、「豪士」達は豊かな財力により革命後もその勢力を維持し続け、その精神的中心にある「武士道」を守り続ける存在としての価値も持つ事になる。
 なお、英国でも同様の動きが多少形が違うが進展し、これが「ジェントリー(地主)」と呼ばれる階層を生み出し、日本の「豪士」とよく引き合いに出される事になる。
 そして、武士・豪商、豪農などの裕福階層、各地の中産・中流都市住民、貧しい農民・労働者階級という、収入による新たな階級を作り上げ、これを放置せざるをえなかった幕府の終焉へと繋がって行く。


七. 汎日本主義(パックス・ニッポニア)