七. 汎日本主義(パックス・ニッポニア)

 日本国内が政治的、経済的に安定すると、江戸幕府は積極的な亜細亜経営を押し進めていくようになる。
 亜細亜各国との交易を豪商や中小の交易商人の手ではなく政府主導で亜細亜地域に限り拡大し、各地に日本人のための根拠地や入植地(瑞穂村、大和国)をいくつも建設し、手つかずの未開地域の開発を進め、さらに豊南(現在のシンガポール)、バタビアを根拠地にインド洋方面での南蛮交易をより積極的に押し進めた。南洋探題の実質的な根拠地が国内ではなく、呂宗のマニラ(麻仁羅)、インドネシアのバタビア、馬来のペナン(僻南)になったのも十八世紀に入ってからだ。
 しかし、当時この日本の亜細亜市場独占をよく思わない外国勢力が存在した。南蛮の新興貿易帝国のネーデルランド連邦(オランダ)とイングランド王国であり、この二つの国の共通の特徴は、それまで中世ヨーロッパを暗く覆い尽くしていたローマ・カトリック(旧教)のくびきから逃れた、勤勉・清貧・蓄財を美徳とするプロテスタント(新教)に裏打ちされた商業重視の新興帝国だと言える。
 そして十七世紀半ばには、旧教国のポルトガルはかつての勢いを失い、世界帝国の残滓の中でのたうち回っているスペインと江戸幕府は幾度かの戦争を経てすでにある程度政治的妥協が成立していたから、新たに海洋底国として急速に浮上しつつあったこの二国が、日本としても警戒すべき相手であった。
 そこで、この二つの南蛮国家の進出に、江戸幕府は秀吉政権時代からの伝統である懐柔策で亜細亜諸国を抱き込み味方にすると共に、南蛮の二つの国の一方に貿易に有利な条件を出すなど、対立と懐柔により制御するという政策が講じられた。だがイングランドがオランダと対立し、東南アジアの拠点を失ってからはインド経営に専念したため、必然的に残るオランダがアジア交易に乗り出してくることとなる。
 オランダは十七世紀前半、ローマ帝国以来の欧州の伝統に従い胡椒などの香辛料を求めて印度・東洋に至り、特にインドネシア地域でかなり強引な進出を行っていたので、彼らの勢力が盛んな間は亜細亜各地の日本駐留軍や幕府水軍、現地国家との衝突が絶えなかった。だが時間が経つにつれて、強大な武力を誇る日本人に対抗した武力を用いたアジア交易の拡大の無理を悟り、さらに十七世紀後半にイングランドとの商業権・制海権をかけた戦争に敗北してからは、無理押しでない平和的な日本との交易を熱心に行うようになった。
 白人対それ以外という民族的な視点から見ると、こうした歴史的流れは少しおかしいように思われているが、これは日本人(正確には江戸幕府)がインドへの進出にあまり熱心でなかった事が、イングランドとオランダの対日南蛮連合成立を阻害し欧州勢力同士を争わせる事になり、オランダに勝利したイングランドは東南亜細亜より近在のインド亜大陸へとその目を向け、一人東南アジアでの仲介貿易にこだわったオランダだけを亜細亜交易に固執させる事になったからだと思われる。
 また、十七世紀半ば以後、莫大な富をもたらすとされる亜細亜交易は、日本商人抜きには成立しなかったため、しかたなく他の南蛮の国も日本との交易は行なったが、利己意識に根ざした武力による恫喝や干渉をしようとした国家、商人は、内政的理由により侵略には過敏に反応するようになった幕府の直衛艦隊と諸侯軍の手により手荒く歓迎されてしまい、平和理に純粋に交易だけを求める姿勢を貫いたオランダだけが、自然と幕府との関係を深くしていった。
 なお、宗教問題を持ち込まなかったのもオランダが日本、亜細亜貿易を成功させた一因でもあり、同様にローマ・カトリック教会との対立から宗教を持ち込まなかったイングランドも後に入り込んでくるようになる。そして、十七世紀後半から以後百年以上にわたり、単純な損得勘定から公平な交易を求める姿勢を貫いたオランダだけが、自然と幕府との関係を深くして、今日の欧州随一の親日国家としての道を歩む事になる。
 そして、江戸幕府がローマカトリック教会とは徹底した対立をした事から、カトリック教国との仲は常に不安定で、江戸幕府崩壊後の日本帝国政府が宗教の自由を認めようやくローマ教皇と和解が成立するまで、この問題が解決される事はなかった。これも、日本が親英傾向を強めた原因だとされている。

 しかし、国内安定を完成た江戸幕府は、全体から見るとこうした南蛮諸国との交易はそれ程利益が大きくなかったため、また対立を続ける南蛮諸国の動きはそれほど意に介さず、また北方経営とアメリカ開拓を勢力境界の取り決めからもアイヌに譲り、自らは亜細亜・太平洋地域の経営に全力を投入する事になる。
 そうして日本は、圧倒的国力と地の利を背景として、十七世紀後期に入ると自然に亜細亜交易(貿易)をほぼ掌握するに至る。そして、人口二千万人以上の高度な産業国家に単独で対抗できる欧州諸国は、アジアにおいては存在しなかった。
 なお、本来文明的な競争・共存相手と言える、大陸の新興中華帝国である清帝国やそれに従属する朝鮮半島国家は鎖国してしまい海洋交易競争には参加せず、かつてインド洋を中心に覇を唱えたイスラム商人は、オスマン・トルコが停滞を始めた時期とも重なり、南蛮との競争に敗れ力を無くし、東南亜細亜の国々は大規模な海外交易を行えるほどの国力は持っていなかった。せいぜい遥か西方よりの大国が、わずかに亜細亜の珍しい文物と豊かな金銀を求めてマラッカ海峡をこえてくるだけだった。
 つまり、日本(+アイヌ)は一人亜細亜での繁栄を謳歌し、莫大な亜細亜の富が日本列島へと流れる事になる。

 開始当初の日本の貿易は、基本的に仲介交易、今日で言う中継貿易が主力で、ガレオン船(万石船または大名船)を利用した日本列島と東南アジア諸国との中継ぎ、南蛮とアジア全域との中継ぎによって成り立っていた。もちろん、国内で生産された物品によっても富は築かれたが、それは国内産業が発展した十八世紀に入ってからで、その姿は後の大英帝国よりは当時のスペインや仲介貿易に固執したネーデルランドに近い存在と言えよう。これは、江戸時代までの日本の産業が、潜在性はともかくそれ程発達していなかった事に起因している。特に輸出となると、その規模は一部の武器産業以外は小さなものでしかなかった。しかし、その後交易の富と軍拡により発展を始めた国内産業の充実により、徐々に大英帝国と同様の交易形態へと移行していき、十八世紀後期にはさらなる繁栄を日本列島にもたらす事となる。

 その間、唯一の大規模な軍事行動として中華大陸への大規模な出兵がなされていた。
 俗に言う「唐出兵」である。
 期間は、「後金」が「清」と名を新たし北京入城を果たした後の一六四五年〜四八年がこれにあたり、さらに一六六一年、「明」亡命王朝の一つが雲南王国として成立するまでが広義で含まれる。
 出兵の発端は、新興中華帝国「後金」もしくは「金華」のちの『清』帝国に対抗する旧来の中華帝国『明』の要請に従い、あくまで『明』の指揮下にある義遊軍としての派兵だったが、大陸中華が相手だったため結果的に大規模な出兵がなされる事となった。
 その数は最大十五万人にも達し、初期の三年の間は幕府からの潤沢な補給も受け、各地で中華大陸勢力が持たない優れた火力によって猛威を振るい、各地で「清」の精鋭軍を撃破する程だった。
 もっともこの派兵は、国内安定後なお国内に多数残る浪人(失業武士)の雇用を兼ねたものとしての側面が強いもの、つまり日本国内で移民が盛んになる前の時代の、人減らしや厄介者払いとしてこの政策が、創成期の豊臣政権の元進められた、という経緯になる。
 また、別の側面として中華帝国崩壊により一時的に封柵体制もなくなり、これによる交易が不可能になった事で、日本国内で生糸(絹)が著しく不足した事象も強く影響している。
 その証拠に、中華帝国に侵攻した幕府軍は絹織物で栄えた蘇州に真っ先に侵攻し、ここで大略奪を行ったと言われており、それを現すかのようにその後日本国内で生糸産業と綿織物が盛んになっている。
 なお、日本各地の陶磁器産業が盛んになったのも唐出兵からしばらく後の事で、日本の陶磁器の全ては景徳鎮をルーツにしているとされる。

 しかし、かなり深く、しかも長期間にわたり『明』側に肩入れしたにも関わらず、既に完全な衰退期を迎えていた『明』は『清』との覇権争いに敗れ為す術もなく滅亡してしまう。
 ただし、一六四八年に江戸幕府は、浪人軍(傭兵軍団)の主力に帰国を命じており、それ以後はすでにその地に根付いてしまった数万の日本浪人衆が、各地で武力・結束力の高さを見せ戦っただけで、ここに江戸幕府の大陸政策を見る事ができよう。
 この事から日本の無定見な派兵も「明」滅亡の原因の一つと言われているが、退勢明らかな中華帝国の典型的末路だった。
 日本にとってのわずかな収穫は、その前後の混乱を利用して、かろうじて雲南地方にシャムなどの助力も得て東南亜細亜の防波堤として「明」王朝最後の血統にあたる桂王の系譜により「雲南王国」を成立させることに成功した事だったが、江戸幕府が中華大陸戦略で大きな失敗をした事には変わりないと考えられた。
 これが、江戸幕府をして中華離れを決定的にしたのだ。
 だがこの日本にとっての失敗は、『清』が中華大陸統一の後も、海洋へと乗り出さず中央亜細亜方面への進出を強化したため事なきを得ている。もっともこれは、『清』が必要以上に日本の武力を警戒するようになり、その影響で完全に海に対して鎖国してしまったからだったとされ、そのことから考えるとこの出兵も結果的には成功だと言えるかもしれない。

 一方国内では、亜細亜貿易が完全な独占状態になり、膨大な富が交易によって国内に流れてきて、その膨大な富に引きずられる形で国内産業も大きく発展し、それに伴い都市部を中心に人口が大きく増大していた。
 人口増大の規模は手工業の発展、農法の改良、新たな農作物の出現(各種イモ類、トウモロコシ)による生産力増大により年々拡大し、また海外からの逆移民もあり年々増加傾向にあり、このままでは食料自給すらままならなくなるのは時間の問題だった。ある統計では、十七世紀初頭二千万人を少し越える程度だった人口が、約百年後の十七世紀後半で三千万人に達していたとする資料もある程だ。そして、この数字はいかに農業技術・土木技術が飛躍的に向上したとしても異常な数字と言えよう。
 そして幕府にとっての最大の国内問題である食糧自給問題は、戦国末期よりアイヌより馬匹を使った運搬手段と様々な肉食習慣が入り、江戸の太平の間に広く普及する事で、危機的状況を助長していた。
 食糧問題は、当面は国内開発の一層の促進と諸国よりの輸入によってまかなわれる事となったが、何か根本的な対策が必要だった。でなければ、食料輸入による国富の減少と人口増大による食料自給不可能状態が、国内の荒廃と生みかねない。何しろ日本は、海外に広大な勢力を持ちながら食料供給地となる植民地を持たなかったからだ。
 当時の幕府は、極端に飢饉を恐れていた。
 そして、増大した人口問題と遠隔地の食料供給地を自ら開発するという両者の問題を一挙に解決する為、必然的に幕府主導による開発の遅れている地域への大規模な海外領土への移住が開始される事となる。
 ここに、日本の移民政策の他国との決定的違いを見る事ができる。移民、植民が、貧しい事を原因に民主導で移民が始まったのではなく中央政府主導で始まったのだ。

 最初の移住先は、すでに日本国に編入されていた台湾だった。そこへは南洋民族系の先住台湾各部族や、、十五世紀初頭にはアイヌが進出を始め開発が進み、さらに対岸の中華系住民が多数居住していた事もあり、豊臣政権に主権が移ってからも日本本土よりも宗教規制が緩く、そのため十六世紀末より九州地方を中心としたカトリック系キリシタンの移住が行われており、また戦国時代末期に浪人化した武士たちも落ち延びる形で移住し新天地での再起を図ろうとしていた。そして特に飢饉の際に数多くの移住者が、餓死するよりはましとばかりに多数出てもいた。一六三〇年代半ばの、天草地方からのキリシタン住民を中心にした大移民は歴史的にも有名だろう。
 そして、それに加えて当地を海外交易の拠点としていた廻船問屋、交易商なども日本と東南亜細亜の中継点として多数進出し、十七世紀半ばには国内よりも活気を示す程の繁栄を示すことになる。
 これを見た幕府は、これをその後計画的に行う事を考え、評定奉行や南洋探題から独立した移民問題とそこでの自治組織の建設を監督する組織として「移民省」を設置した。この組織の最大の特徴は、現地でのつながりをより密接に行う為に、多数の在外邦人と現地の事情に精通した商人が所属していたことだった。勿論厳しい選抜試験は存在したが、誠にプロフェッショナルを好む日本人らしい対応と言えよう。そして、カトリック系国家と違い宗教関係者が完全に除外されているのも特徴と言えるだろう。これは、日本の宗教組織がすでに衰退していた事も挙げられるが、幕府が問題を起こしやすい自ら宗教問題を輸出するつもりがなかったからに他ならない。

 移民省は、成立してすぐの十七世紀中ごろから、それまで無秩序に行われていた台湾移民を統制していき徐々にその力を発揮し始めていた。
 その力が最初に示されたのは、当時台湾の次の大移民場所とされた呂宗島への国家規模での移民政策だった。当時呂宗島は亜細亜各地との交易が盛んなになった影響で多数の人種が入り込み、そしてそれらにより多数の疫病がもたらされ事、かつてのスペインの支配での人口減少、大規模な自然災害などにより人口が激減しており、これを移民省が目に止めた事から移民計画が持ち上がる事になる。
 彼等は計画を策定すると、さっそく現地人と現地邦人を飴と鞭でなだめすかして移民環境を整え、幕府に強く働きかけ大侯として何名かの大名まで移封してもらい(これ以後新たな大規模移民地が開発されるたびに、大侯が封じられるようになる)、そこが日本の一部である事を強調し、日本本土と可能な限り似た環境を作り上げ、当時において未だに移民に消極的で、なおかつ飢饉のたびに多数の死者を出している地方(特に奥州)の移民を押し進めた。中でも初期で大規模だったのが十七世紀半ばの「慶安の移民」である。彼等はそのままなら冷害による飢饉の為死ぬべき筈だった数十万の農民を半ば強引に、『飢えによる緩慢な死か、新天地での豊かな暮らしかを選ぶがよい。我らは一度しか問わないであろう』と宣伝して回り、わずかばかりの政府からの準備金や当座の食料を渡しただけで、家財など一切合切の財産をガレオン船に積み込むが早いか呂宗に移民させていった。
 呂宗への移民そのものは、大方において成功した。
 しかし、初期の頃の移民は、環境を整えたとはいえ急な人口増大に耐えられなかった呂宗でも、移民省の懸命の対応にもかかわらず何度か小規模な飢饉が発生した。だが、それでも日本人を呂宗に定着させる事には成功し、その後も当地への大規模な移民を進めるきっかけとなり、その後約百年間で日本本土、アイヌ、台湾などから、その殆どが死すべき運命だった人々を合計三百万人も移民させている。
 この大規模な日本人移民により現地民族との混血も進み、呂宗人は半ば日本人化してしまう程だった。そして江戸末期には、その意識も完全に日本人化しており、日露戦争での愛国意識は本国に勝るとすら言われたのは有名だろう。
 また、呂宗での移民が成功したのは、日本が支配者でない国家という概念を同地域に初めて持ち込んだからだとも言われている。
 その後、馬来への幕府主導の移民は、呂宗や苅間島ほど成功しなかったが(これは欧米列強と当時勢力を増しつつあった華僑の妨害のためだと移民省は説明している)、それ以外の各地の海外領土への移民をおおむね成功させていた。それにより十八世紀までに呂宗全土、新豊島、苅間島、入武諸島、南洋諸島の一部など西太平洋のほぼ全域の日本化に成功している。
 そしてさらにこの成功に自信を深めた彼等は、今度はアイヌ国を巻き込み北方移民と亜米利加移民を押し進めた。
 この移民省の動きは、同様の人口問題を抱え始めていたアイヌ国からも多数の移民者が移住し始めていた事により、共同で移民政策が推し進められた。特にアイヌは、文明の進歩により大規模な居住が可能となりつつあった近隣の北方地域の移民に熱心だった。この移民によりそれまで色々な呼ばれ方をしていた北亜細亜北方地域(東シベリア)は正式に「北海道」と命名された。ただ、元々アイヌの領域とされていたので、双方の移民を円滑に薦めるためには、どちらかの国に併合するには問題があったので、双方から幾人かの領主、大侯が任ぜられ、新たな封国「北海道諸侯国」が建国され、その国旗には多数の民族と北の空の象徴北斗七星を意味する七芒星が選ばれた。
 一方秋津(北アメリカ)大陸への移民は、現地民族との衝突を嫌うアイヌ人の影響により、新出雲地域(現在のカリフォルニア)以外においてはそれ程大規模なものとはならなかったが、それでも広大な地域だったので十八世紀に入る頃から年間万単位の移民がなされ、北アメリカ大陸西海岸地域を中心として先住民族と交わりつつその勢力を確実に広げていった。そして彼らの子孫はその後同地域の最大勢力となり、アメリカ合衆国に併合されて後も強い影響力を保持し続ける事になる。
 そして移民省が最後に目を付けたのが大和島(現オーストラリア大陸)への大規模移民だった。この殆ど人の住まない広大な大地を、まるまる日本化してしまうのが彼等の目的だった。
 ただし、殆ど人がいなかったのは、それまで他大陸と隔絶された環境に南蛮人と日本人達が大量に疫病を持ち込み、そのため原住民族が激減していたのが原因である事を忘れてはいけない。

 十八世紀当時、イギリス人やオランダ人を始めとする欧州勢力も、同大陸へ食指を伸ばし始めていたが、いつの間にか日本人を増やし、強いては亜細亜、大東海(大平洋)全ての地域を日本化する事を目的としてしまった彼等、移民省は、幕府が止めるのも強引にその反論を封じ、既に各国に広がっていた各地の移民省番所と連合し、これに南洋探題や軍も巻き込んで移民省設立以来最大規模の計画を開始した。当時用いられていた大量印刷技術を使い作られた計画書には『岩戸計画』とあった。
 余談だが、移民省が移民による日本化以外にも、経済的な進出を始めとする現地民族への日本文化の輸出を大規模に押し進めていた背景には、そうしなければなかなか日本人が気候的一等地の日本列島の外に移民しなかったからだ。
 そして、この移民が今までの移民と違う点は、日本、アイヌの移民者を一応のターゲットとしつつも、全亜細亜に広がりつつある移民省番所でも移民を募集するのだが、この際移民の基準を日本人だけでなく、日本人以外でも移民に参加できた点だった。そして亜細亜に大規模に進出しつつあった南蛮諸国をけん制するために、移民船団には必ず正規の軍船が同伴していた。
 さらに外交問題も、欧州から形の上だけの買収を行い準備は整えられた。
 こうして大和島(オーストラリア)北東部地方を中心に多数の日本人入植地が建設される事となる。当然そこには、日本本土にある大半のものが存在した。大侯の城館、奉行所、足軽の屯所、豪商の支店、本格的な港湾、米(穀物)倉……はては神社仏閣までがそのまま移転した村もあった。本願寺や神社勢力など宗教組織が自主的に進出している事は言うまでもないだろう。
 そして五十カ年計画と言われたこの移民計画は、最終的には将軍家や皇族の一部も移り住んでもらい、南の大地に新たな日本を作り上げる計画だった。

 こうした始まった大和大陸への移民は、以前同様各地で発生した飢饉の時程大規模だったが、その数は日本が繁栄にわいていた十八世紀後半から約半世紀で、実に四百万人に及んでいだ。最盛時、首邑の新浜(現ブリズベーン)は、大規模な都市計画のもと新たな都の建設すらも進み、日本本土以上の繁栄を誇るほどとなる。
 しかしこの移民は、十九世紀前半に発生したイギリスとの対外戦争の結果、江戸幕府がオーストラリアでの主権を失った事と、その前後に多発するようになった南蛮諸国との衝突により江戸幕府の力が著しく衰えた結果縮小を余儀無くされる。
 その後移民省は、他の地域で組織としての巻き返しを図ろうとしたが、その後続いた国力の縮小と国家方針の変更により、新たに移民する余裕を物心両面から失った江戸幕府から、その任務を終えたとして組織そものもを縮小が決定され、評定所改め外国奉行の下部組織に編入されることとなり実質的に消滅する。時に一八五二年の事だった。
 もっとも四半世紀後、移民省は明治政府の元違った形で復活する事になる。

 しかし、移民省が存在した約二百年の間に行われた日本人移民による影響は、この時期の日本が海外におよぼした影響の中で最も大きいものとなった。
 そう、この移民の結果、日本そのものが狭い日本列島から西太平洋全域にまで大きくなったようなものだったからだ。さらに、東南亜細亜、オセアニア・大東海(太平洋)地域の公用語を日本語にしてしまったことも、日本にとっては大きな功績と言えるだろう。
 そしてこの移民政策こそが、国内混乱期の欧州列強からの圧迫による一時期の勢力縮小を最低限に押しとどめ、しいてはその後の巻き返しを可能にした原動力と言えるのだから。
 ちなみにこの時期に増加した日本人、日系人の数は十九世紀半ばの本土人口三五〇〇万人の匹敵する三〇〇〇万人(アイヌは五〇〇万程度)で、日本語圏の総人口は世界人口は約八億人の当時ですら一億五千万人に達するといわれている。
 つまり中華大陸以外の亜細亜、太平洋圏の国では日本語が商業語として通用しているということになり、単純な総人口数では、欧州の半分に匹敵する規模にたっしていた事になる。そして、その後国連でも日本語が世界四大言語(英語、中華語(北京語)、アラブ語、そして日本語)として万国公用語の一つに数えられている事からも、その影響が計れると言えよう。


八  ペナンの黒船