八. ペナンの黒船

 十九世紀に入り、アメリカ合衆国独立と北米植民地の多くの喪失というダメージから経済的に立ち直りそればかりか国内産業を発展させ、さらにはナポレオン率いる宿敵フランスをうち破り欧州列強との競争にうち勝ち、その勢いでインド経営を軌道にのせアジア進出を本格的に開始したイングランド(イギリス帝国)が、植民地を持たない事から必然的に勢力を縮小していたオランダを押し退けるように、総人口四億人といわれた中華大陸の巨大な市場を求めて亜細亜に入っててくる。
 彼らにそこまでの熱意を与えたのは、自らの産業改革、つまり産業革命による生産力の大幅拡大と大量消費時代の幕開けが原因であり、これは世界がパックス・ブリタニカに覆われてた時代の到来を告げるものだった。

 当時、欧州での全ての海洋覇権競争に勝利し、世界帝国を自他共に認める彼らの行動は苛烈だった。
 亜細亜進出を本格化し始めた当初こそ、オランダ同様新教徒国家らしく亜細亜を支配する日本商人との交易を真面目に行ったが、かつてのイスラム商業圏での彼らの同類がそうだったように、交易がうまくいかないと分かると武力をもって恫喝に出てくるようになる。この点もアングロ・サクソン民族的と言えるだろう。
 もっとも交易本格化当初は、日英双方の政府が相手の武力を警戒した事から、話し合いによる解決が図られる向きが強かったのだが、現地でのちょっとした商業的なこじれから、大英帝国の武装商船と江戸幕府軍の正規の軍艦とが半ば偶発的に衝突する事件が発生した事でその状態に変化が訪れる。
 この事件を奇禍としたイングランドは、当初の方針を変更し一転して恫喝外交に転じ、かなりの兵力を集中してから極めて強い態度で幕府に謝罪と賠償を求めたのだ。
 このイングランドの突然の方針変更は、それまでの日本に対する調査と実際の衝突により、江戸幕府水軍、つまり日本人達の軍事技術力が自分たちの半世紀前に過ぎない事を確認し、自らの軍事的優位を確信したためによるものだった。
 これに対して江戸幕府率いる日本は、アジアで「ミラクル・ピース」とすら呼ばれる長きに渡る平和を謳歌していたため技術革新が欧州に比べてローペースで、この頃になると欧州勢力に比べて軍事技術力的に劣勢に立っていたのだが、それには気付いていないかったが故にそれまで通り強気の姿勢を崩さず、インド以西の玄関口という重要性から幕府直轄の保護領土としている馬来に兵力を集中する事でイングランドに対抗した。
 そして、この日本の反応に敏感に反応したイングランド軍も、本国からさらなる大軍と、そして大英帝国の誇るシニアー・サーヴィス(海軍)をインド以東に集中した。
 しかし、日英の最初の衝突は豪州で起こる。双方の移民問題が原因だった。しかし、この地域での衝突は、当時のイングランドがそれ程関心を示していない事から、双方あまり大規模な戦力を投入する事はなく、結局は小競り合いで終始し、戦後しばらくしてから戦火も自然に収まり、戦後の和平交渉の結果日本が主権をイギリスに譲渡し、オーストラリア(大和島)がイングランドに、ニタインクル(ニュージーランド)をアイヌが領有することで日本側に残る事となった。
 しかし、亜細亜交易での譲歩となると幕府は頑なに彼らの進出を拒み、全面戦争も辞さない態度で臨んでいた。幕府の命令を受けて、豊臣水軍は横須賀鎮守府、長崎鎮守府から主力艦隊の一部が抜錨し、一路ペナンを目指した。
 この日本の強硬な姿勢に遂に業を煮やしたイングランド政府は、ゾロゾロと馬来に集まってきた日本人たちの甲鉄ガレオン船を主力とする大艦隊に畏怖の念をいだきつつも、一八二四年、現地軍に対して馬来対する侵攻を命令する。日本がこれほどまでに守ろうとするのだから、それだけの価値があると当時は考えられていたのだ。
 そしてペナンに侵攻してきた大英帝国海軍を確認した幕府海軍も同地域にあった全ての艦艇を集め、ペナン沖にてトラファルガー以来の大規模艦隊決戦が行なわれる事となった。ちなみにこれは、慶長の役以来、東洋対西洋の二百年ぶりの本格的な軍事的衝突でもあった。(北米での紛争は少し事情が違う)
 この海戦は基本的にはその前後の小競り合いと合わせて「日英戦争」と呼ばれるが、その後の日本での混乱から「ペナンの黒船」と呼ばれている。
 そして戦闘の結果は、双方全く予想だにしない事態となった。お互い完勝できるものと確信していたのが、イングランドが若干優位だったが痛み分けとも言える形で決着がついたからだ。
 これは優れた火砲を持つイングランド艦艇が火力で、舷側に装甲を張り巡らした日本艦艇が防御力で相手に優越しており、双方艦艇の能力的に相手に対する決定打を欠いていた為だった。このため、戦技については、当時から日英ほぼ互角だったと判断されている。
 そしてこの異常事態に、双方の上層部陣営は右往左往することとなる。
 しかしナポレオン時代、ウィーン会議を経て、当時既に世界帝国を自他共に認めていたイングランド連合王国は早期に立ち直り、事態の隠蔽と早期講和の可能性の模索に努めた。これに対して、長く亜細亜での平和に浸りきっていた江戸幕府首脳部の狼狽は激しく、現地からの報告やアイヌなどからの援軍の申し出も聞かず、ただちにイングランドに和平を申し込むほどだった。これにはイングランドもいくらか面をくらうこととなる。なにしろ戦争はこれからだと思い、フランスやオランダ以上の苦戦を予想していたのがあっさりと決着がついたためだ。
 事実、現地日本軍の戦意は極めて旺盛で、さらにアイヌ王国の援軍すら到着し、戦力的に劣勢に立たされつつあった事から、当地のイングランド艦隊司令長官は、これから以後新たな百年戦争が始まるだろうと綴った航海日誌を残している。

 日本政府(江戸幕府)の早期講和の原因は意外なものだった。イングランドのその後すぐの諜報活動で、江戸幕府が自らの戦力をかなり低く見ている事から和平を望んだと分かった。
 しかも、イングランドは戦後、講話船団を日本本国に送りさらに驚く事になる。何とペナンで戦った日本人たちの恐るべき艦隊はその一部(といっても三分の一程度はあったが)に過ぎず、本国にはなお多数の艦艇を有しており、事実講和船団を江戸湾で出迎えた幕府水軍の本国艦隊は数個戦隊にも及ぶ甲鉄ガレオン船で構成され、その勢力はアイヌなどの兄弟国を合わせると、装備は若干旧式ながら自分たちすら凌駕すると予想されたからだ。当然それは、自ら以外の欧州の全戦力と比べても遜色ないものだった。少なくとも英国人は、ロシア人やその他の遅れた欧州諸国よりも、日本の方を強大な文明国と判断した。
 現実の軍事力を前にしては、人種偏見など簡単に吹き飛んでしまっており、イングランド人は愚かではなかった。
 そして眼前に広がる東洋の大艦隊と整然と整備された彼れらの都の姿は、もし全面戦争になっていたら、どれほどの苦労をする事になったか十分に予測させるものだった。イングランド人は、この東洋の帝国にいったいどれほどの潜在的国力があるのかと想像し背筋を寒くさせた。
 この驚愕すべき情報を知ったイングランド政府は、幕府首脳の誤解を天恵と思った。事実そう言った私的な文献が多数残っている。そして、この当時のイングランドとしては稀な事に、この時点で日本を他の非西欧地域同様の搾取対象とする方針を変更させる事となる。つまり、日本を他の植民すべき地域、収奪すべき対象でなく、欧州各国と同様に政治的コントロールの対象と見たのだ。英国人の気分としては、ロシア帝国もしくはトルコ帝国と同程度の位置に日本を置いていたと見られる。
 しかし、当面はイングランドはこの情勢を利用する事には余念がなかった。さすがは、英国外交と言ったところだろう。
 具体的には、戦勝者として当然の権利を要求するが、日本人には騎士道(武士道)精神に乗っ取ったあくまでフェアな取引のポーズを取ることとしたのだ。そして、あまりに露骨な帝国主義的要求を行えば相手を追い詰める事になり、いらぬ苦労(本当の全面戦争)をする事となるので、「勝負は時の運」とばかりに情に訴える交渉を行い日本人を懐柔し、戦争相手というよりは、これからの亜細亜の管理者同士としての取引相手としてしまおうとしたのが、本音だった。
 講話条件は、日本の内情を詳しく調査してから日本側代表に手渡され、その内容は自分達が西洋諸国を押さえる代わりに(どちらにせよ自らの都合で抑えなければならないのなら恩を売ってしまおうという目算もあった)、日本にはアジア市場の解放、中でも最大の市場である筈の中華大陸市場の空け渡しを求めたものだった。この講和条約の良いところは、日本人の利権を奪えるだけでなく恩を売ることが出来、しかも恩を売る内容も別に自国に損益をもたらすもので無いことだった。そして、この一種奇妙な提案が、今日まで続く日系国家と英国とのある種の友好関係の始まりでもあった。

 当初、多額の賠償金を含めた苦しい講和内容すら予測していた江戸幕府は、この一種の対等とも取れる穏便な条件を受け入れ、彼らのアジア市場進出を認めることとした。中でも中華貿易については、ほぼ彼らの独占を認めた。もっともこれには、幕府が先の『明』と『清』の争いで苦い経験を持っており、彼らが勝手に人の海に飲まれるのならほっておこうと考えた事が最大の要因とも言われている。それに当時の幕府としては、実質的に鎖国していてまともな貿易では大した利益を上げる事ができない中華大陸国家よりも、生命線である東南アジアの権益さえ守れればよく、また北アメリカ大陸ではアイヌがイングランドとの協調を望んでおり、そのためにも早期講和と対アメリカ政策を行なう必要もあったのも早期講和の原因だった。
 事実その後日本は、英国に対してギブ・アンド・テイクの形で中華帝国に対する重要な情報をいくつもわたし、それが日英戦争からわずか十数年でアヘン戦争を呼び込む事になる。
 酷な言い方をすれば、中華大陸のその後百年続く混乱は、日本によって始めらたのだ。

 そしてイングランドは、それだけではなく勝利者としての当然の代償として領土割譲も要求してきた。これには東洋進出の最重要拠点であり、双方にとっての玄関口でもある馬来半島とその先端にある豊南島(現在のシンガポール島)の割譲を求めた。また、オーストラリアの総主権の譲渡も要求した。当時完全に混乱していた幕府は、これも幾つか条件は付けたが受け入れることとなる。そしてこれこそが、西欧列強の亜細亜進出を決定的なものとする原因となるのであった。
 また、豪州は英国の支配を受けた日系国家と言う奇妙な状態になり、英国にとっての東亜細亜系文明国支配のテストケースとして重宝され、そこで生み出される国富は英国の力を大きくするのに大いに貢献し、英国により一層の亜細亜・太平洋重視の政策を採らせる事になる。
 だが幕府は完全に亜細亜の利権を欧州列強に明け渡したわけではなく、その後も先程ふれた大和大陸(オーストラリア)ではどちらがそこを勢力下にするかで大英帝国との間で長期間揉め、双方の地域における植民の自由と住民の現状の保障を条項に加えさせたうえで、アイヌ国がニタインクル(ニュージーランド)を得、大英帝国が大和島(オーストラリア)を得るという交換条約で決着した。
 また、中華大陸問題もインドシナとの兼ね合い、インドシナは中華かどうかという問題でも対立している。さらに自分たちの防波堤として東南亜細亜諸国に経済的、軍事的な支援を熱心に行うなどの外交努力を行っている。

 しかし、日本国内ではこの戦争が極めて衝撃的な事件となった。
 当初、幕府はペナンでの敗戦を直隠しにしていたが、これがかえってデマを呼び、実際以上の敗北として国内に広まったからだ。つまり、絶対と思っていた軍事力がまったく時代遅れ(と思った)になったと勘違いしてしまったのだ。しかも、その混乱がピークに達した時にペナンで幕府水軍を破ったイングランドの講和船団(艦隊)が浦賀に入港してきた。これは、強大な経済力と軍事力によって成り立っていた(と信じられた)幕府の絶対だと思われていた力が、根底から否定されたように民衆には映ったのだ。
 また、この戦争を境に日本は、当時自然発生的に少しずつ始まっていた産業の近代化(産業革命)を、極端とも言える公共投資によりスピードを加速させ、また同時に軍事力の近代化と大増強を進めることとなる。ある種当然の選択であるはずだったが、かつてのスペイン帝国と同様にこれが皮肉にもかえって幕府の資本を急速に消耗させ、幕府の統治能力の低下を招き、さらなる国内治安の悪化へとつながり、幕府終焉の遠因となっていく事になる。そしてそれが、東南アジアでの日本の覇権を一時的に大きく減退させ欧州の進出を招くこととなり、後の世界大戦の最初の遠因になったとさえ言われている。

九  新大陸