一. 革命勃発

 日本国・江戸幕府と共に亜細亜・大東海・北米大陸での覇権確立に邁進していたアイヌ国は、日本がそうであるように経済的な繁栄を謳歌していたが、その内実は十三世紀狩猟・採取民族から強制的に脱却され、モンゴル式遊牧民族へと脱却し、自らの手により絶対王政を確立するまで発展した十六世紀からさして変化していなかった。
 日本同様、文明の発達が鈍化していたのだ。
 もっとも街の外見や民衆の風俗は、人口と言う絶対的に不利な要素により国力的な差がはっきりしてきた日本(江戸幕府)への対抗上から導入された西欧文化の大幅導入により、表面的には北方亜細亜と欧米が混ざりあった、煉瓦、石造りの建造物と重厚な木造家屋が混ざり合って建ち並ぶ一種独特な街のたたずまいをしていた。
 また、農村部では欧米で一般的な三圃式農業(混合農業)の自国版の改良型が十六世紀半ばの欧州到達と同時期に導入された程度で、さしたる変化は見られなかった。もっとも、この点も他の亜細亜地域とは大きく違う農村風景を作り上げていたと言う点において特異と言えるだろう。
 そして都市部での生活は、当然以前とは比べものにならないぐらい変化していた。先述したように寒い地方という事も手伝い、木造建築主体の建築物は石や煉瓦作りなど丈夫な建材を使ったものが主流となり、依然木造建築主体の日本の町々などとは、全く違う景観を有していたのが次第の特徴だ。
 しかし、交易の発展と農業技術の進歩を牽引力とした重商主義の結果による工場制手工業の発達こそあったが、十六世紀に確立された独特の政治形態に変化はなかったし、生活習慣も定住化で建物がりっぱになったぐらいで、それほど変わったわけでもなかった。少なくともアイヌ国民の多くは、そう考えていたと思われる。国の政策もあり都市や平野部以外のモショリはいまだ緑豊かで、まだまだカムイの声も聴くこともできた。(しかしさすがに近代化したので、刺青など原始的風習はすたれてしまっていたが。)
 そしてそれは、王制と政府そのものにも言えることだった。かつて斬新で先進的とされた制度は、選王制度そのものは厳格に守られ愚王こそ輩出しなかったが、その後ほとんど手を加えられなかった事から、この当時まったく旧態依然としており、あまり近代的な統治体制にあるとは言えなかった。しかも、莫大な貿易利潤は、ある程度民衆に還元されているとは言え、それは実質的に国家を運営している官僚たちと一部の国の特権階級(王族と貴族(諸侯))、そして廻船問屋(交易商)の一部が言っているだけで信頼のおけるものではなく、さらに、税金は各省庁の縄張り争いによる何だかよく分からない公共事業費と宮廷費、そして莫大な軍事費に消費され全く民衆に還元されず、あまつさえ十八世紀半ばからの相次ぐ争乱による増税によって、民衆の生活は困窮の一途を辿っていた。
 これに国内、国外を問わず中流・中産階級の多く住む各コタン(町)、カン(都市)が大きく反発を示し、国内は内乱一歩手前と言えるほど混乱し、市民を味方に付けた地方民族ゲリラ、それに便乗した反政府勢力が、対抗者や施設を狙ったテロや衝突が頻発するようになり、治安は悪化の一途を辿っていた。これに政府は、形通りの弾圧を強化するばかりで場当たり的な対応しかせず、市民の憎悪を募らせるだけだった。
 この傾向は十八世紀後半に入ろうと言うときピークになり、一時期は内紛により国が崩壊するのではという観測が流れ、安定政権を継続していた江戸幕府がどのような事態にも対応できるようにと、アイヌ国境線に軍を展開する程の警戒を見せた。もちろん、江戸幕府の本音は混乱がピークに達したとき、念願の蝦夷征伐を行いアイヌの大地を日の本に併合してしまうことにあったのは、その行動からも明らかだった。

 この事態を以前から憂慮していた王族のイトコノ親王(皇太子)は、事ここに至って中央政府の硬直化と腐敗を打破すべく、水面下で同士を募り宮廷改革(クーデター)を実行する。
 「ウタリ革命」とも呼ばれる、イトコノ・サンクスアイノ王朝の成立である。期しくもその頃西洋ではフランス市民革命が行なわれていた。
 宮廷改革(クーデター)そのものは、近衛軍の実戦部隊の司令長官であったイトコノ親王(皇太子)近衛軍中将が、直卒の部隊を率いて瞬く間に首邑ウソリケシを制圧し中央権力を掌握。そして国民、とりわけ都市部の中流階層の圧倒的支持のもと臨時政府の宰相に就任することであっけなく勝負はついた。旧体制派側が、反撃するいとますら無かったほどの鮮やかさだった。これは、当時の政府から民心が離れていた事を示すと共に、アイヌ独特の縦割り行政体制そのものが動脈硬化で硬直しきっており、緊急事態に対して有効に機能していなかった事を示していると言えよう。
 宰相となったイトコノ親王は、権力を掌握するとさっそく宮廷内の清浄化と、腐敗化した官僚団の粛正、組織改革を実行し、イギリスなど欧州の進んだ近代的政府を参考に、議会の設置と法制度の制定を行い立憲君主体制を確立するための体制作りに着手した。
 彼はそれだけにとどまらず、首邑を今のウソリケシからモショリの中核部あたるオタルナイに遷都する事を決め、国王として正式に即位すると国名を「アイヌ国(AINU)」から「アイヌ王国(Kingdom of the AINU」に変更した。そして徹底した改革と近代化に乗り出していく。
 その分野は政治・行政だけに止まるだけでなく、産業全般に始まり、軍事、教育など多岐に渡っており、この時の改革が起爆剤となってこの国をアジアで初めての本格的な産業革命を行うことに成功させ、アイヌを近代国家として大発展に導き、日系国家群のアジアの覇権奪回の基礎を築き、その指導的地位を確立する事へと繋がっていった。
 つまりこの時アイヌは、世界史上希に出現する「善政を行う独裁者」によって急速な方向転換を実現したのだ。
 そして一七九二年、当時の王を退位させ自らが新たなアイヌ王となり、イトコノ・サンクスアイノ王朝と呼ばれることになる王朝を成立させる。

 形はともかく、今日のアイヌ王国の基本的姿は彼の在位の時代に形成されたわけだが、立憲君主体制の成立とそれに伴う立憲民主主義・資本主義の発展は、元々の国民性によるところも大きいので一概に彼の功績とは言い難いが、彼が果たした役割は今日に至っても高く評価されている。しかし、この革命の影響で近衛軍と王室(そして、この革命で成功を収めた貴族)が強い影響力を持つようになるなど、一部時代に逆行したような弊害ももたらしており、アイヌ王国の完全な立憲君主体制の確立は、今日に至っても実現していない。
 なお、王政が覆しにくい理由として、アイヌ独自の八王家による選王制度があるのも間違いないだろう。少なくとも、互いに足を引っ張り合い、競争をしながら王を選ぶという制度を厳格に維持している限り愚王だけは輩出する事はなく、しかもその権力は議会によって抑制されるのだから、民衆が反発するにはどうしてもベクトルが向きにくいと言えるだろう。
 しかも、メディアが発達して以後の各アイヌ王家は、悪く言えば見栄えの良い王族を国民の前に出すようになり、人気取りに腐心したことから派手さと象徴性が重視され、さらには八王家が本国の地方をそれぞれ代表するという方向性から国民からも支持される大きな要因になっている。
 要するに戴冠しないその他のアイヌ王家は、他国と比べると「象徴」、「旗」としての側面をより強く持つと言えるだろう。

 話がそれたが、新生アイヌ王国は自身の政権を安定させると、今度は自分たち同様二百年の間に腐敗・陳腐化・停滞化した他の日系諸国を再生する為に、旧政府の打倒とそれに変わりうる政権確立をする事により、システムとしての日系国家群の再生を目指して積極的に革命の輸出を行うため、他の日系諸国へと明に暗に政策を実行した。今日一部の史家らはこのアイヌの動きを、アイヌ人が日系国家盟主となる為の陰謀という説もあるが、彼らのこの動きがなければ、日本人の勢力圏の大部分が、西欧の植民地や保護地域となっていた事は間違いないだろう。
 そして、このアイヌによる影響もあり、琉球王朝では、かねてからアイヌ同様の問題に苦慮していた王族の主導の元、一八五三年に同様の宮廷改革がなされ近代立憲君主国家として再出発し、その南に位置する台湾でも日本本土の内乱のさなか、当地で英明な君主として知られていた台南大侯第十二代目君主・立花重宗公の精力的な指導の元改革がなされ、一八六八年に台湾公国と名を改め、立憲君主国家として再生している。
 また呂宗では、日系社会全域の混乱のさなか、現地の統制に失敗した呂宗各大侯と現地幕府組織が弾圧を強化し、また歴史的な現地人と移民の対立を利用した政策が裏目に出て、事態は悪化の一途を辿りついには内乱状態となった。その後、その混乱を収拾した下級武士と民衆の力により日系国家としては唯一天皇を元首としつつも、一八六八年に共和国として成立している。
 そして日系社会最大規模の革命は、一八六○年代に入り日系社会の中核である日本本土で始まる。


二  明治革命