二. 明治革命

 アイヌ王国が、宮廷改革以後産業革命その他の近代化を一応完了し、ようやく世界列強との競争を再開しようとしていた時期、南の国でも大規模な政変が行われていた。
 日本本国で発生した『明治革命』がそれである。(注:一部では明治「維新」という言葉も使われる。)
 しかし、その道のりは単調なものではなかった。
 確かに最初の原因、ファースト・インパクトは、日英戦争、俗に言う「ペナンの黒船」だったが、その後江戸幕府は大規模公共投資という当時の欧州列強からは考えられない形で産業革命を強行し、同時に軍事力の徹底した近代化を推し進める。
 そのおかげもあり、その後しばらくして国内では近代産業が本格的に萌芽し、いびつな形ではあったが国内経済は活況を呈し、国外に対しても軍事力の復活が列強の浸透を押しとどめる役割を果たした。なればこそ、世界が帝国主義時代に突入しつつあった中、日英戦争以後四十年も幕府はほぼそのままの版図を維持しつつ存続する事ができたのだ。この江戸幕府の動きは後世から批判も多いが、少なくとも近代に向けて強く歩みだした功績は一定の評価はしてもよいだろう。
 しかし、幕府の強引な政府主導型の近代化が財源の枯渇により行き詰まり、北米での勢力圏を失う事で、本格的な革命の機運が持ち上がる事になる。
 江戸幕府は、資本主義に根ざした大量消費経済を前提とする産業革命が、どれ程の資金、資源、市場を必要とするか本当に理解していなかった、そしてそれをいち早く成し遂げた大英帝国が世界で何をしていたか、本当の所は知らなかったのだ。

 そして、日英戦争のあった一八二四年以後約三十年間、日本列島は刹那的とも言える表面的な繁栄を迎える。
 四半世紀にも及ぶ政府主導の公共投資型経済は、二百年もの長きにわたり比較的潤沢で健全だった幕府財政に財源の枯渇と巨大債務を生み出したが、同時に異常な程の内需拡大と支配階級以外への所得再分配を日本列島にもたらした。これが一部に近代的な中産階級と中流市民を生み出したのだ。だが、特定の地域、都市に偏重して税金が投入された事から、化政文化の間に是正されつつあった地域格差は再び拡大し、江戸、上方、博多などの大都市部と隣接する港湾都市はアイヌモショリのような近代的繁栄を極めたが、反対に大侯の治める地域、城下町はその恩恵をほとんど受けることができず、これが日本列島各地の中央離れを助長し、地方が独自に近代化や産業の育成を行い大都市部より少し遅れて力を付ける動きにつながり、十九世紀中ば、幕府か完全に傾いた時には地方が大きな力を持つようになる。
 なお、この「天保文化」とも呼ばれたこの時代は、それまでの時代同様華やかさにおいては比肩したが、江戸幕府という帝国の残滓を受けた文化のため、他とは分けて考えられている。
 そして、文化的な最大の特徴は、大都市部を中心とした産業革命の進展による日本初の近代文明であり、そこで成功した大都市住民による文化だったと言う事だ。全ての富と情報は、江戸、京都、大坂、博多とその近在の港湾都市集まり、幕営工場を始めとする近代的工場群の出現は日本でも現代的な「資本家」と「労働者」を誕生させ、都市部の中流階層以上とそれ以外の貧富の差を増大させた。
 ちなみに、「鴻池」、「住友」、「三井」などの豪商の地位が近代資本家として不動のものとなったのはこの時期で、あまりにも巨大になりすぎたため、明治革命以後の政府も彼らの力を削ごうとしたがそれも適わず今に至っている。何しろ彼らは、日本ではなく全太平洋地域の富・金塊の半分を持っているとされており、彼らの没落はそのまま日本・日系社会の没落を意味しているからだ。
 そして、これら大都市の中心部には、石や焼煉瓦で作られた和洋折衷な建造物が林立し、道路は完全な石畳で舗装され、その上を鉄道馬車が行き交っていた。日本最初の鉄道が完成したのもこの時代の末期にあたる一八四三年になる。また、商業都市として大坂の地位が不動のものとなったのも、この時の幕府の莫大な投資が大きな役割を果たしており、この時各豪商の拠点として栄えた事で今日の繁栄を迎えている。
 なお、中産階級以上の一般家庭、俗言う「豪士」の間で使用人(お付き・女中)を二人以上抱えるのがステイタスとなったのはこの時期で、裕福な家になるとまるで軍隊の組織図のような複雑で巨大な家臣団ならぬ、使用人衆が生み出され(家令(執事)・家政婦を頂点とするお付き、下男、女中頭、女中、下女、板前、園丁、御者、家庭教師などの家屋内下層労働者群)、江戸、大坂、京都の女性人口の三割が女中、下女とされる異常な光景を生み出し、特に政治中枢が集まり武士(官僚と軍人)による男社会となっていた江戸においては、女性人口の六割が女中、下女に含まれるという統計数字が存在している。
 そしてこれは、奇妙な事に大英帝国が世界の工場として未曾有の繁栄に沸きかえり、帝都ロンドンでメイドと呼ばれる女中たちが溢れかえるビクトリア時代黄金期よりも少し前で、この一時的な事象から文化的には日本の方が一歩先に進んでいたとも見て取れ、同時に当時の日本文化が上っ面を異常に重視する虚飾に満ちた文化である何よりの証拠と言えるだろう。
 そしていびつな都市文化は、それまでのような上向きの精神を生まず人々の心の腐敗を生み、ローマ帝国末期と似た状態を生み出していた。
 江戸幕府は、虚飾と虚栄に満ちた見せかけの繁栄の陰で、明らかに内から崩壊しつつあったのだ。

 次なる転機が訪れるのは一八五三年になる。北米大陸で日本を含めた有色人種連合がアメリカ合衆国に大敗を喫し、そのアメリカがいよいよ太平洋へと乗り出し、対岸の日本本土に軍艦多数を含む艦隊を送り込んできたのが直接的な事件、「ペリー襲来」事件だ。
 これがセカンド・インパクトになる。
 ペリー提督率いる最新鋭の蒸気船で構成された小規模な艦隊が、北米大陸での日米の取り決めを半ば無視し、寄港地の許可を求めるため幕府の許可なく江戸湾に侵入しようとして、これを強引に阻止しようとした幕府水軍の江戸湾防衛艦隊と交戦状態になり、最初の小競り合いで旧式甲鉄ガレオン船に勝利した合衆国艦隊が浦賀水道を突破、その後到着した横須賀の新鋭甲鉄蒸気船(初期の蒸気戦艦)を含む全戦力が迎え撃ち、ペリー艦隊を一隻残らず撃滅してしまう。
 「江戸湾海戦」とも呼ばれる戦いが、この時の「ペリー襲来」事件にあたる。
 そして本来なら、相手国の首都近辺に無造作に軍艦で入り込んだアメリカ側が完全に悪いのだが、既に政治的退勢にあった幕府は、時の総奉行石田直政が当時実権を握っており、彼は事件後のアメリカの強硬な態度に屈し賠償金を含めた講和条件に強引に調印した。これに国内世論が激昂、にわかに尊王攘夷活動が激しくなり、石田直政が暗殺された「桜田門外の変」以後十数年にわたる混乱の時代を迎える事になる。
 幕末の到来だった。

 そしてアイヌ王国は、この南の国での政変に際して、革命側への大規模な援助を決定する。
 なぜなら、当時の江戸幕府の政治は全く硬直化しており、西欧列強の強引な進出に対し適切な対応が全くがとれず、内政面での失策も重なりいたずらに国力を消耗し、それに伴い徐々に自らの勢力を明け渡していたからだ。また内政も同様に硬直化しており、とても西欧列強に対抗できるような近代化を推進できる状態ではなかった。
 これではいくら自分たちが近代化をして西欧列強に対抗しようとも、最も大きな潜在的国力を持ち、本来の中核でなければならない日本がこの状態では、総合的な国力という点から西欧列強に対して十分な対策がとれない事から、大規模な干渉が決定されたのだ。
 そして、当時の心ある人々がサード・インパクト、次なる大きな外圧が訪れれば、その時は外からの圧力による豊臣幕府の崩壊であり、日系社会の破滅をもたらすと考えていたのが、その原動力だった。
 なお、ここで「もし」と言う言葉が許されるのなら、多くの史家は、もしアイヌがこの時もユーラシアから北米にまたがる大帝国だったら、間違いなくアイヌ人を中心とした太平洋帝国を建設していただろうと断じている。なお、筆者もこの意見を押したいと思う。もっとも、そうであるならこの時までにアメリカという国はもっと別の形で存在したであろう。

 話を戻すが、アイヌ人たちは自らの方針に従い二五〇年間の友人であった江戸幕府を見限り、アイヌと同様の考えを持っていた日本国内の革命勢力を積極的に支援した。これには、本国以外の他の日系勢力である台湾、琉球、呂宗なども、豊臣幕府打倒なくして自国の政変も不可能と、これに同調し革命支持に回った。
 しかし、この頃は他の動きもあった。それは日本本国をここで徹底的に骨抜きにして自分たちアイヌが日系国家の盟主として取って代ろうという動きである。
 だがこれは、諸外国に日系社会自らの団結の弱さを見せることになることと、列強に付け込まれる可能性がより高いと判断されたため、新生日本国を中心とする強力な近代的連合国家の建設を画策することとなった、と言われている。
 こうした考えのもと、それぞれの勢力は日本国内の改革派の動きに連動し、南九州、中国、四国など地方の革命勢力を支援する形で内戦に介入していく事となる。そして一八六〇年代に入ると事態は加速して行き、何度かの京都と西日本各地での大規模な戦闘の後、結果として日本本土における謀略は概ね成功を収める。
 時の将軍豊臣慶喜により「大政奉還」が行われ『明治革命』は成功し、それまで日本国内の祭祀的な役割にまで政治的価値を落とされていた天皇家が数百年ぶりに実権を取り戻し、『日本皇国』が誕生する事となった。

 しかしその後、地方政治組織の集合体に過ぎない新日本政府が諸国の統制を離れ、あまりにも急進的な天皇を中心とする中央集権体制を画策したため、各国、とりわけ自立性が強く、大きな勢力を持つアイヌ王国が反発した。
 ところがこれに、旧幕府軍を中心とした旧勢力が新政府への反発と言う点だけに同調し、発足したばかりの革命政府と京都で激突するという突発事態を生み、「鳥羽伏見の戦い」と呼ばれた短期決戦で幕府軍は政治的大敗を喫した。
 『戊辰戦争』の勃発、新政府誕生のための最後の陣痛の始まりだった。
 戊辰戦争は、その後新政府がアイヌ王国などに対して態度を軟化させるなど柔軟な対応をとった事と、日本の勢力圏を虎視眈々と狙う外国勢力に対する警戒感から各国が結束したことから、政治的駆け引きから取り残され、収拾のつかなくなった旧幕府勢力のみによる純粋な内乱となり継続される事となる。
 このため戦いそのものは、その後東海から関東での小競り合いの後江戸開城により、旧幕府勢力が完全に屈服する事で決着がついたかに見えたが、それでもなお、それを受け入れない越州・奥州諸侯を中心とした勢力が徹底抗戦を行なおうとしていた。
 この時点で、自国への戦乱の拡大を恐れたアイヌ王家が本格的な仲介に入り、あくまで恭順を受け入れない旧幕府勢力の海外亡命(実質的には追放)により内乱を終息させようとした。この交渉は、新政府がこれを内密に受け入れた事もあり比較的順調に進み、一部の過激分子による若干の抵抗があった他は、大きな問題もなく進展した。
 そしてアイヌが用意したサムライ達の亡命先は、『諸部族連合』だった。かの地では、アメリカ憎しの国民感情が極めて強く、常に戦争準備状態で軍備を維持しているため、いくらでも人手が欲しかった事からこの時の亡命が実現したのだった。
 こうして新政府への屈服を拒んだ旧幕府勢力の多くが亡命し、傭兵という形で三年従軍することにより国民の資格を得て、その地に定住していく事となる。そしてその後、体制の変化により必然的に大量発生した失業武士達も、この旧幕臣の亡命をきっかけに数多くが先住諸部族連合に移民していき、主に旧幕臣の活躍から、先住諸部族の中で一つの勢力を作っていく事になる。中でも諸部族連合陸軍に身を投じた旧幕府の特殊治安維持組織の一つであった『新選組』の勇猛ぶりは有名で、現在でも、他の部族名に並んで陸軍の名誉称号として残っている。
 そしてアイヌ王国は、結果的に戦争責任を取りエミシュンクルの一部日本割譲を受け入れることとで、宗主国たる日本を立てる形を作り戊辰戦争を終わらせている。
 ただ、これは形としてであり、本来は国民投票により日本帰属の要望が強かった事から実現したもので、これはアイヌが今だ地方の自治独立性が強い事を物語っているとも言えよう。

 そして幕末の混乱を母体として一八六七年『日本皇国』は成立し、それと同時に旧勢力圏からの支持により日系社会の主権をも掌握した新政府は、一八六九年『大日本帝国』成立を宣言した。
 帝国への参加地域は日本皇国、アイヌ王国、琉球王国、台湾公国、ニタインクル公国、呂宗共和国、北海道諸侯国、礼文公国、新豊候国(新豊島)、入武候国(入武諸島)で、他南洋の島で日系国家が主権を維持していた地域が日本帝国の直轄領となった(南洋諸侯国の成立は、第一次世界大戦後)。
 つまり、北太平洋と西太平洋のほぼ全域が新たに成立した日本帝国の版図となったのだ。
 帝国としての国家の主権は、日本皇国の元首でもある天皇にあるとされたが、アイヌ王国、琉球王国や、各公国は独自の君主を立てることを許され(独立政府を持つ事も当然認められている)、また各地の地方行政も大幅に認められており、政治的には王権による連邦国家として成立したことになる。もっとも、他の王室を天皇家を頂点とする貴族としてでなく独立した王族(地方でなく国家)として認めた背景には、当時の新日本政府の政治的弱体を物語っているとも言えよう。
 
 その後新政府は、自国の諸制度の整備を図ると共に、日本帝国各国と連係してアジア・太平洋の勢力の維持を積極的に行い、東南アジア諸国との結束の強化を図っていく事となる。
 一八七五年には北海道=シベリア地域の国境を確定し、『清』帝国と対立して満州地方から間接的に進出を狙っているロシア帝国に対抗するため、朝鮮王国には強力な経済的、技術的援助を掲げ強引な外交を展開し自らの勢力圏となし、対中華・ロシア対策とした。
 また、当然自分たちの庭たる太平洋への進出の強化の最大の懸案であるハワイ王国との国交樹立と、自らのもっとも親しい国家である諸部族連合を支援するため、南北分裂でもたついている北米大陸のアメリカ連合との関係強化も急がれた。

 しかし、この一連の改革までに日系社会全体が失った勢力圏はあまりにも巨大で、オーストラリア大陸の主導権を失い、馬来半島はイギリスに割譲され、ベトナム、カンボジアなどインドシナ地域はフランスの軍門に下り、明王朝の忘れ形見である雲南王国は辛うじて独立を保っていたが日本の手を離れイギリスの影響下におかれ、東南アジアではかろうじてタイ王国、インドネシア連合王国が、日系国家との連係を保ちつつ西欧列強と対抗している状態だった。
 さらに、太平洋も二十世紀を迎えるまでにその多くが西欧列強のものとなり、日本帝国は十九世紀初頭の亜細亜・大東海(太平洋)の覇者から一転して一地方国家へと転落し、この失地回復こそが日本帝国の国是となり、国内体制を整えたのちは富国強兵のスローガンのもと、欧州列強が作り出した帝国主義時代へとばく進していく事になる。


三 アメリカ動乱