十. 暗雲到来

 アジアが日本軍部の暴走によりきな臭くなってきていた頃、欧州ではもっと大きな政治的事件がいくつも起きていた。世界政治レベルで、日本軍部の暴走が目立たなかったのは、このためだった。
 この当時の世界の中心たる欧州列強の目は、自らの近在にまず向いていたのだ。

 欧州の混乱の元凶は、共産主義勢力の拡大とイタリアのファシズム台頭、そしてスペイン内乱がその代表になる。
 一九三〇年代中頃より五カ年計画の成功で意気上がるソヴィエト連邦が、かつてロシアの支配領域だった地域へと手を伸ばし始め、その地域に多大な利益を持ち、また勢力圏としている中欧の覇者を自認するドイツ帝国と対立の溝を深くしていた。また、これを西アジア利権で伝統的にロシアと対立し、反共産主義傾向が最も強い大英帝国がドイツを後押しして、これに伝統的に反独、反英感情の強く、また当時社会主義政党による政権下にあったフランスが、ドイツ、イギリスとの対立の溝を深くしていた。また、イタリアはファシズム政権成立により、力による政治で徐々に国際的孤立を深めていた。
 そしてこの構図は次第に二極化していき、まず兵器産業を中心に協力関係を深くしていたソ連とイタリアが協商条約を締結し、これに、第一次世界大戦でのアルザス・ロレーヌ帰属問題がこじれ、英独との対立が決定的になったフランスが接近を図り、三七年にヤルタにて会談が持たれ、ソ仏伊による第二次三国協商が成立した。また北アメリカ大陸東海岸北部地方を中心に伝統的に親仏傾向が強く、徐々に反英国、反日本感情を強めていたアメリカ連合もこれに接近していた。
 この傾向は、イタリアが世界最古の王家を持つと言われたエチオピア王国に、いわれのない侵略戦争を仕掛けても変化はなかった。いや、これにより事態は加速されたと言える。なぜなら、国連で初めて除名処分が出されたからだ。

 これに対し、世界帝国として全体主義、共産主義の浸透をこれ以上許さないとする大英帝国と、伝統的にロシアと対立しているドイツ立憲帝国は、このラテン・スラブ連合に真っ向から対抗した。
 これは一九三五年に英独防共協定締結につながり、一九三六年にはソ連・中華共産党と強い対立関係にあった日本帝国もこれに参加し、三国防共協定、枢軸同盟(通称「ソ連包囲網」又は「トライアングル・アクシズ」)を結んだ。
 この同盟には、英独の影響下にあった大半の国も参加し、またアジアでも日本との同盟関係を結んでいる各国がこぞって参加し、それに釣られるかのように共産主義(+ロシア勢力)に怯えるその他の国々も身を寄せ、事実上の世界規模の巨大組織となり、当時ですらその規模は国連より巨大とすら言われた。
 なお、この枢軸同盟は、三つの巨大な帝国が同盟を結んでいた事から「三帝同盟」と呼ぶものもいる。

 そして枢軸と協商の対立の中、最初に戦火が上がったのはスペインであった。ファシズムであるが現実主義者でもあったため、英独から支援を受ける事のできたフランコ将軍と、共産勢力に支援された人民戦線が激しい内戦を始めたのだ。
 なお、これを以て第二次世界大戦が始まったとする歴史家もいる。
 それはこの時の列強の行動が影響していた。
 スペイン内乱を、単に政治的代理戦争の場としてだけではなく次の戦争のテストケース、または新兵器のまたとない実験場と考えた列強各国は、それぞれの陣営の後押しを強くしたのが原因だ。当然、協商側が人民戦線を支援し、枢軸側がファシストであったが自由主義陣営の代表でもあるとされたフランコ将軍を支持し、それだけに飽きたらず、たがいに義勇軍の名目で多数の自国兵士すら送り込んでいだ。
 しかし、ファシスト支援という事で国内世論を得られず、また地の利を得ない枢軸側は、フランコ軍に対する支援が思いどおりにできず、地続きという地の利(フランス)と義勇軍と言う名の正規軍を大量に投入(ソ連赤軍・イタリア軍)した協商側の支援する人民戦線が二年の泥沼の内戦のすえに形としての勝利を掴み、もう一つヨーロッパに共産主義国を誕生させる事となる。
 共産主義の時代到来か、と世界中が騒いだ時期だ。
 これにより枢軸側はいっそう共産主義、ファシズムに対する態度を硬くし、三国共通で以前から産業の拡大を隠れ蓑に少しづつ進んでいた、公共投資や兵器の輸出をカムフラージュとした軍備拡張のペースを一層早くする事態を生む事になる。これに対し協商側は、この成功に自信を付け、膨張外交を一層激しく広げ始めることにつながる。
 つまり、枢軸国側は現実を見据えて動き、協商側は見せかけの勝利に溺れたとも表現できるだろう。
 もっとも、新たに誕生した筈のスペイン共産政権は、内部対立により全く統一がとれず、もちろんソ連と共に欧州の革命輸出などできるわけもなく、最後の最後まで混乱した政権となり、最終的には仏ソが崩壊してから時を待たずして、枢軸側の支援を受けた共和制の新政府の統治するところとなる。
 要するに、共産主義政権の成立は、スペインの民の苦しみをより長くしただけだったのだ。

 そして、欧州が新たな戦乱の予感に包まれている頃、アジアでは一九三一年の満州事変を境に日本を中心とする各国軍部の独走が頻発し、極めて不安定は政治的状態にあった。
 また、中華大陸での内戦も激化の一途と辿り、混沌の度合いを深めていた。
 具体的に例をあげるなら、満州事変の後に起こった上海事変での日本の大規模な軍事介入、その前後して発生した中華共産党と国民政府、広東政府の三つどもえの内戦の激化などの戦乱がそれだ。

 しかし、その混乱の背後にはその戦乱を助長し、自分たちの利益を得ようとする日本皇国を始めとする列強各国の影が常に付きまとっていた。具体的に中華大陸にずっぽり脚を突っ込んでいたのは、日本、ソ連、英国、そしてアメリカ、あとこれにドイツが一部食い込む事になる。
 彼らは自分たちが起こした戦乱と中華内戦を利用し、中華大陸とその周辺諸国に大量の武器を売り巨大な富みを得、また中華統一を邪魔し、中央が弱体になったのを見計らってから国連の民族自立主義を盾に多くの地域に新興国を作り上げる工作を積極的に行い、亜細亜での自陣営の相対的な勢力の拡大に邁進した。特に日本と英国がこの動きに熱心だった。もっともこの行動は、豊臣幕府から続く伝統的な政策でもあると言え、日本の自然な行動と言えるかも知れない。
 そして、その結果の一つが満州での軍事クーデターであり、アメリカの中華市場からの締め出しだったのだ。
 しかし、混乱の場所が中華大陸であるだけに、その後の情勢は二転三転する。
 満州事変から数年後に、中華中央で争う各勢力の後援組織がガラッと代わっていたのがその代表だろう。
 中華共産党はそれまでと変わりなくソヴィエト連邦が支援していたが、満州帝国成立以後、日本と蒋介石率いる国民党軍(国府軍)の仲が冷却化し、その間隙を縫うようにアメリカがその後がまに入り、当時華南地方で勢力を拡大しつつあった王兆明と日本の繋がりが強くなり、気が付いたらそれぞれの代理戦争へと変わりつつあった。
 なお、英国は中華大陸にあってはほぼ全ての利権に首を突っ込んでいたため、身動きがとれず全ての勢力の間をいったりきたりして結局一番の利益を挙げ、ドイツは日本にくっついて、面倒を全て日本に任した状態で利益だけを吸い上げ、ただただ戦争で疲弊した祖国の復興を急いでいた。
 そして、この新たな三国志のような状態は、華南地方が一九三七年に独立宣言をする事で混沌とした状態を深める。当然後ろには日本帝国があり、新たな国家の誕生を諸手をあげて歓迎していた。
 そして本来ならこのような行動は、近隣諸国や欧米列強の反発を買うのだが、近隣諸国は歴史的に中華統一とその後の膨張を恐れているためこれを容認し、欧米列強も利益を享受していたためこれを消極的に支持すらしていた。
 それに、欧州の列強にとって、別に中華大陸がどうなろうと知ったことではなかった。
 ただ、着々と力を付けていく日本帝国を恐れるアメリカと、いつの間にかアメリカと友好国になった協商各国が非難をしていたが、彼らの多くは遠く欧州のためこれらの問題に深くは干渉できなかったし、協商の一角のソ連も似たような事をしているので大きな顔はできなかった。また、アメリカもまだ日本に全面戦争を吹っかけられる体制にはなかった。
 だが、この日本軍部を中心とした独走が、友好近隣諸国や国内政治にまで干渉し始めてくると、それを快く思わない近隣諸外国から非難の声が強くなっていく。このままでは、せっかく作り上げた同盟関係すら崩壊するのではと、日本政府中央に感じさせるには十分なものであった。
 この事態を一気に収拾するために日本皇国政府は、一九三七年一月、日本陸軍内でのクーデター計画発覚を機に、一斉に軍部の綱紀粛正を開始した。世に言う『昭和の草刈り』である。

 日本陸軍の青年将校たちがクーデターを計画するまでに至った経緯には諸説あるが、その最大の理由はやはり大恐慌以後の政治的混乱と軍部の独走にあった事は間違いないだろう。また、彼ら「政治将校」の出現を許した軍、国民の気分も影響している。
 当時日本国民の誰もが、反米気分で横溢しつつあり、真面目な外交展開をしていた政府が不甲斐なく映っていたのだ。
 しかし、世界に冠たる大帝国としての矜持を持っていた日本政府は、自らの番犬に対して全く容赦しなかった。しつけこそが、番犬には必要だったからだ。
 当然粛正は苛烈かつ極めて広範囲にわたり、日本皇国陸軍内では反体制的な行動ばかりしていた大将クラスの逮捕・投獄にまで広がり、そればかりでなく海軍のクーデター同調派、国内の各陸軍シンパ、つまり陸軍に密接に繋がっていた政治家、官僚、資本家は言うに及ばず、各国と協力してクーデター組織と関連をもっていた友好近隣諸国軍部にまで粛正の手は及んだ。日本政府はこのために、各国の政府すら動かした程だった。
 そして、この粛正劇で大きな役割を果たした日本情報総局は、その存在を全世界に喧伝することになり、東洋の帝国が単なる軍事・経済大国でない事を世界に印象づけた。
 また、パージされた将校の数が千の単位に及んだ事から、同時期にソ連で行われたスターリンの血の粛正に匹敵する大粛正だと言われる事となる(勿論、血は殆ど流れてはいないが。)。
 この事件を機に、シビリアンコントロールを回復し、さらに現役軍人を大臣にしないなどの憲法改定を経て政府、官僚の清浄化も達成した日本皇国政府は、政府の軍部統制を強化すると同時に、国際的信用を回復するために不必要な域に達していた中華各地の軍の引き上げはもちろん、それに平行して様々な国際条約や同盟を締結して新生日本の外交姿勢を内外にアピールした。
 また当然、母体である日本帝国そのものの改革も行われ、この後に発生する戦争での問題を事前にいくつかクリアする福音ももたらしていた。
 この時日本帝国は、政府主導の総力戦体制の準備が整ったのだ。


十一  開戦前夜