十一. 開戦前夜

 一九三四年、アメリカ連合が亜細亜諸国の軍備拡張と、先住諸部族連合の軍近代化計画を国際的な理由にローマ条約の破棄を宣言、これにより十年以上にわたった世界最初の軍縮条約による海軍休日は一九三七年をもって終わりを告げる事が決まり、大平洋のみならず、世界中で海軍を中心とする軍備の拡張が再開される事となる。
 しかし、新たな混乱の予兆は、それ以前からいくつもあった。
 一九二二年以来、以後十数年ローマ海軍軍縮条約に則り、各国が戦艦の代艦の建造や規定外の巡洋艦の新造を国庫の許す限り行っていたが、太平洋諸国では日本を中心として経済発展しており、その国富を背景に日本帝国のみならず、オーストラリア連邦、インドネシア連合王国などが無視できない海軍力を保持しつつあった。
 また、当時の戦略兵器たる「戦艦」を保有している太平洋地域の国家の数は八カ国、合計数は三十隻以上にも及び、しかも主力は日本帝国が第一次世界大戦末期から数年で世界にばらまいたスタンダードシップこと「金剛級」高速戦艦で、アメリカの特に海軍の抱いている恐怖は大きなものだった。何しろ彼らは十八隻の戦艦を有していながら、高速戦艦を一隻も保有していなかったのに対して、有色人種達の戦艦の殆どが高速戦艦だったからだ。
 このため、アメリカ連合が老朽艦が多かったため一気に四隻もの新造戦艦の建造を開始した事が海軍軍拡での混乱の始まりだった。
 アジア・大平洋諸国全体となら、著しい劣勢であるアメリカ連合海軍としては当然の選択だったが、この大量建造に列強各国は神経を尖らし、とりわけ亜細亜・太平洋諸国は警戒感を強め、それが数年後互いの軍拡を促進する原因となっていたのだ。

 続く条約明け後の軍拡競争でも、アメリカでは多数の戦艦建造を中心とする『ヴィンソン』計画、『スターク』計画を議会が承認し、本格的な大海軍建設を開始、大平洋を挟んだ主に日系国家との艦隊拡張競走を本格化する事を高らかに宣言した。
 そして、計画の全てが完成すれば、太平洋と大西洋には新造戦艦だけで二十隻が就役予定で、彼らにとっての最低限度の安全保障はそれで確保される予定だった。
 もちろん他の他の列強もこれに応えた。全ては軍拡の原則だった。
 東洋の盟主を自認する大日本帝国は、日本皇国が「第三次海軍補充計画」、アイヌ王国が「第一次中期防衛力整備計画」の予算を通過させ、この挑戦状に真っ正面から応えた。
 また欧州でも、英国、ドイツなどがフランス、イタリア、ソ連の軍拡に対応するためもあり、新たな艦隊拡張計画を立案し、共同歩調を取りつつそのスピードを加速させつつあった。

 しかし、日系国家郡の艦隊拡張計画は、他の列強のそれとは幾分異なり、従来通りの多数の戦艦建造を中心としたものではなく、先の大戦の戦訓と近年の航空機の発達を踏まえた多数の航空母艦の建造を中心とした艦艇整備を目指すものだった。
 しかもその中心に位置する日本皇国では、アメリカにある程度対抗するため、あえて中型の高速戦艦の計画を大々的に公表し実際建造するなどのカムフラージュすらしていた。もちろん、決戦兵器たる巨大戦艦の建造もおさおさ怠りなかった。
 一九三〇年代において、大日本帝国こそがアメリカと経済力、工業力の面で唯一単独で対抗できる存在であり、しかも日本人達には友人が多く、彼らはそのアドバンテージを利用し、余裕と将来性を持った艦隊拡張を行ったのだ。
 そして、それを現すかのように、日本海軍の聖地たる呉と数百年間日本の都を守護してきた横須賀では、それぞれ「壱号艦」、「弐号艦」という開発名称が付けられた、未曾有の巨大戦艦の胎動が始まっていた。
 なお、アメリカ連合は、日本海軍の戦術ドクトリンの変更をドックの様子などからある程度察知していたが、それよりもアメリカ連合の建造能力より、ドック数や相対的な国力では亜細亜諸国の方がすでに優位となっていた事そのものを憂慮し、これがアメリカ連合の焦燥を生み、太平洋方面でのアメリカの予防戦争の直接的原因の一つとなっている。
 亜細亜・太平洋諸国が本気になれば、海軍力では彼らの方が有利であり、しかも経済力もアメリカの方が劣勢だった。そして、古来より海軍力と経済力で劣った国家が勝ったためしはなかった。

 しかし、戦乱の舞台の幕は別の国が開いた。
 一九三九年に入るとソヴィエト連邦は、かつての領土に対して本格的に食指を伸ばし始める。
 まさに、世界最大級の暴力国家だった帝政ロシアの正当なる後継者だけのことはあった。
 なおこれは、ソヴィエト連邦が二度に渡る五カ年計画の達成により大幅に国力増大に成功していた事をあらわすもので、ソヴィエトがついに本格的な膨張外交を始めたことを示すものだった。また、赤軍の大粛正の成功によりスターリンがソ連の実権を完全に掌握した事を同時に物語っていた。

 しかしソヴィエト赤軍の軍事行動は、まずはテストケースとしてロシア人にとっての主戦場予定地のヨーロッパ正面ではなくシベリアが選ばれた。満州、つまり日本とのちょっとした国境問題にこじつけて、モンゴルと満州国境のそれまで誰も知らなかった辺境の平原へ大量の軍隊を派遣し、強引に国境紛争を引き起こしたのが具体的な行動だった。
 歴史的に「ノモンハン事変」と呼ばれたこの国境紛争は、当初は互いの国境警備隊による辞書的な意味での小競り合いに過ぎなかったが、双方が錯誤と拡大解釈、現地軍の独断専行により兵力を増強した事で次第に互いの国家的威信をかけた軍事的デモンストレーションの場となり、ついには双方有力な戦力を派遣しての大規模な戦闘に発展する。
 それに目を付けたスターリンは大軍を派遣して、日本の横っ面を叩き国威を挙げようと画策し、それよりはるかに消極的な日本政府は完全な防衛行動として、情報収集の後必要十分な筈の兵力を派遣して、第一次世界大戦以来となる数万の近代的軍隊同士の激突が発生した。そしてこれは、世界最初の機械化部隊同士の激突でもあった。
 結果、互いに戦車多数を含む最新鋭の大規模な機械化戦闘部隊と航空兵力を派遣しての軍団単位での戦闘が行なわれたが、日本側を上回る膨大な物量を投入したソ連軍がやや優勢の状態で停戦を迎える事となった。
 これにソ連は自信を深くし、対して日本皇国には特に陸軍の近代化の遅れを痛感させ、日本陸軍全体での急速な近代化へと誘う事となる。
 もっとも、軍事戦略的には全く以前と変わっておらず、日ソ両国にとっては殆ど意味のない鉄と血の消耗でしかなかった。

 そして自らの軍備に自信をつけたソ連は、同年九月、革命すぐのポ=ソ戦争で多くの領土を奪ったポーランドに対し突然とも言えるぐらいに旧領土の返還を強く要求し、ポーランド政府が強く拒絶した事を受けて間髪を入れずに宣戦を布告、一斉にポーランド領内になだれ込んだ。
 第二次ポ=ソ戦争だ。
 戦闘は、戦争全体での死傷者数ではほぼ同数とする強引な物量戦を展開したソ連赤軍により一方的なものとなる。ポーランドの首都ワルシャワは、ロシア人の人の海に飲み込まれたのだ。
 ポーランド戦はたったの一月足らず、列強、隣国のドイツ立憲帝国ですら本格的介入する間もなく終息することとなった。
 ドイツ軍にできた事は、国境線を固める以外はポーランドからの亡命者を受け入れる事だけだった。
 しかも、この軍事的成功で勢いづいたソ連の強引な膨張は止まらず、同年冬までにバルト三国を平和的進駐と美名を掲げて武力併合し、さらにポーランドと同じ旧領土の返還を断られたとしてフィンランドに対する戦争まで開始するに至る。
 また、ソ連の動きに同調するように同盟関係にあるイタリアがアルバニアをソ連同様に武力併合し、アルバニアを橋頭堡にギリシアに戦争をしかけ、そして枢軸軍の動きを牽制する為に、フランス、イタリア軍が枢軸側のアキレス腱であるスエズ運河のあるエジプト国境にリビアとシリアの両側に大軍を集結させ、強いブラフをかけた。

 しかし、戦争は思わぬ方向に流れていく。
 ソ連はその年の冬にフィンランドに侵攻したのだが、マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍はゲリラ的な戦闘と地の利を活かして果敢に抵抗し、これを後押しする形で北欧諸国、そしてスペインの二の舞を避けるべく英国、ドイツなどが武器援助や義勇軍派遣などの積極的な支援を開始。すぐにも軍艦のバルト海侵入を非難するスウェーデンすら黙らせた英独の戦艦を含む大艦隊が、砕氷艦を先頭にしてバルト海深部に侵入し、レニングラードと改められたソ連第一の都市をその砲の射程圏に納める行動すらされた。
 もちろん、義勇軍とされた軍団規模の大軍と膨大な援助物資、軍需物資、最新兵器の数々がフィンランドに渡った。
 英国もドイツもやる気満々だった。
 世界はこのまま、宣戦布告なきまま、次なる世界大戦に雪崩れ込むのではと恐怖した程だった。
 そしてそれを現すかのように、年が変わってすぐフィンランド軍(+義勇軍)は大規模な反撃に転じ、フィンランド国民の男子全員より多い二十個師団近く展開していた筈のソ連赤軍を手もなくうち破り、彼らの主力を包囲殲滅後、戦線を本来の国境線まで押し返すことに成功する。そして、フィンランド軍は、従来の国境線まで前進した段階で突然停止した。もちろんこれは、フィンランドが純粋な防衛戦争を行おうとした何よりの行動であり、ソ連政府に政治的逃げ道を残しておいたに過ぎない。
 だが、正義が誰にあるか、子供にでも分かる行動だった。
 ここで欧州列強各国はソ連に対し停戦の調停を行い、これに軍部の粛正により予想以上に自らの軍隊の弱体化を痛感したソ連政府(スターリン)が応え、さらにそれに応じるように協商各国も話し合いの席へとつき、そしてドイツ・ミュンヘン市での国際会談で国境線の再度取り決めなどの条約が調印された。
 これに世界中は喜んだ。世界大戦は避けられたのだと。
 時に一九四〇年三月十日の事だった。

 そして近代社会の平和を象徴するかのように、一時は中断が決定された東洋で初めてのオリンピックが、同年十月日本帝国の首邑東京で盛大に開催された。
 同大会はそれまでで最大数の参加国が名を連ね、交通機関の発達も重なって遠く東洋の果てでの開催にも関わらず海外からの来訪者も多く、日本がこの大会のために威信を賭けて建設した様々なものを世界に見せつける事になる。
 特に日本はこの時の祭典を重視し、『紀元弐千六百年祭』という国家祭典までその直前に開催して国威昂揚につとめた。
 そして、世界の人々の眼前に広がった光景は、西洋と東洋の文明が高度なレベルで融合した姿であり、それ故人々を圧倒する。
 東京の伝統的な街並みと奇妙なコントラストを作り上げている帝都中心部にそびえる百メートルを越える最新の摩天楼群、日本列島を縦断する高速鉄道網の「弾丸特急」と建設されたばかりの高速道路網を行き交う無数の自動車両、巨大な港湾に入港する排水量七万トンに達する豪華客船、巨大空港を股にかける四つの心臓を持った巨人旅客機(+飛行艇)、そして世界初の広範囲テレビジョン放送。
 その全てが未来を感じさせるものであり、日本の繁栄を示すと同時に、文明社会がいかに素晴らしいものを生み出すかを世界の人々に見せつけた。
 文明とは、戦争の道具だけを作り出すのではないのだと。
 そして、欧米人の視点からすれば、瞬く間に未曾有の発展を遂げていた日本帝国の都での華やかな平和の祭典に人々に狂喜し、第一次世界大戦の教訓は無駄ではなかったのだ、人類とはそのように愚かではないのだと喜んだ。

 だが、この突然の停戦は、単に列強各国が自らの戦争準備ができていない事を痛感した為成立したもので、フィンランドでの戦いに協商国側、とりわけソ連は焦りを感じ、軍事力の強化はもちろんの事、早々に枢軸国側を屈伏させてしまおうと考えるようになった。これがこの時の、突然とも言える見せかけの平和を現出させたのだ。
 そして次なる大戦の準備が、平和の祭典の間に両陣営において懸命に行われた。オリンピックに狂奔していた筈の日本ですら、生産力の拡大を図るためにこの祭典を強引に押し進めていたとも言える。
 このため、この一時的な戦争休止期間を『オリンピック休戦』と呼ぶ。
 そう、まさに休戦でしかなく、これから未曾有の大戦争が勃発しようとしていたのだ。


第四部 第二次世界大戦