三. アメリカ動乱

 日系社会で大規模な改革が行われている頃、北アメリカ大陸でも大きな動乱が起こっていた。
 せっかく有色人種をねじ伏せたというのに、いやだからこそ旧大陸から逃れた白人達は内輪もめを始めたのだ。つまり、支配階層を最初から有しない人工国家であるが故に、アメリカ合衆国という存在は矛盾に満ちていたと判断できるだろう。

 一八四五年に、ほぼ二十世紀前期から中期の国境となったアメリカ合衆国は、経済問題に端を発した対立から南北に分裂し、第一次南北戦争が勃発。
 戦争は一八六一年から約三年間続き、有名な「ゲティスバーグ会戦」で南軍がテキサス・アズトラン系騎兵を用いた迂回突破に成功し勝利した事が直接的な原因で、当初北部に属していた州の幾つかが南に鞍替えし、以後経済力・産業力で勝る北軍は戦略的劣勢に立たされ、南軍もそれ以上戦果を拡大することができず結局戦争はドローとなり、以後合衆国(北)と南部連合(南)に分裂した。
 そして、この分裂こそが十九世紀の北米大陸の動乱時代を決定的なものとし、南北政府ともこの総決算を十九世紀中にする事こそ政治的使命と考え、世界が急速に帝国主義社会へと動いている中、三十年もの長きにわたり相手のスキを虎視眈々と狙い合う状態を続けていた。
 当然これは近隣に勢力を持つ列強にも大きな影響を与える。首を突っ込んだのは大航海時代当初から北米に進出していた英国、日本、フランス、スペインだ。
 中でもこの状態を好ましく思っていない日本帝国に属するアイヌ王国は、北米にある友好国、諸部族連合とアズトラン連合王国の安全保障をはかるため、合衆国(北)と南部連合(南)の間を取り持ち、何とか平穏に事を済まそうと努力していた。それに、北米は分裂している方が自らの友好国にそのパワーが外に向かず好都合な事から、なお一層その努力が行われた。
 しかし、この努力は合衆国とスペインが起こしたカリブ問題に端を発した問題がこじれ、「北」と「南」は共にリターンマッチの準備を始めだした事で、全ては無駄となってしまう。

 この頃、大日本帝国を構成する日本皇国とアイヌ王国は、北米大陸全体の人種差別問題さえ考えなければ、イギリス帝国と同様、南軍(アメリカ連合)と比較的友好的であった。これが単にアメリカ合衆国が北米大陸の中心に位置する最大勢力で周りからの嫌われ者だっからに過ぎないが、そのことも手伝って、南軍の肩を持ちつつも何とか戦争だけは避けるべく努力が精力的に行われていた。
 戦争など起こされ、北が勝利(国力的問題から当然北が勝つと思われていた)でもして彼らがアジア・太平洋地域への進出を開始するのは確実で、そのような事態は対岸の日系国家としては非常に困るからだ。
 実際、アメリカが統一されれば巨大な国家が海の向こうに出現し、困るぐらいではすまされないことになるので、日本人達の努力はかなりのものだった。
 彼らが太平洋を押し渡って来たら何をするかは、一八五三年のペリー襲来で十分以上に日本人達は知っていたのだ。
 しかし、旧大陸人に大きな反発心を持ち、人種偏見では人後に落ちないアメリカ大陸の白人支配層、特にWASPの牛耳る「北」の白人たちが、基本的に敵手である英国人やマトモに人権を認めていない黄色人種の言うことなど本気で聞く訳もなく、欧州も亜細亜もそっちのけにして自分たちだけで勝手に盛り上がり、ちょっとした国境紛争を端にして全面戦争を開始した。
 しかし、その直前、戦雲急を告げる一八九七年夏に、南部連合から先住諸部族連合と日本帝国に対しての北軍包囲の為の秘密交渉がもたれた。これには、新大陸への影響力維持を狙う大英帝国、スペイン帝国が参加していた。
 南部人は、自分たちが北部人に対していかに劣勢であるかを冷静に理解していたが故、大きな努力をしたのだ。第一次南北戦争の原因となった奴隷解放に強く反対していたのに、有色人種の多く住むテキサス系に対する寛容さはこれを如実に現していた。そしてこれが、西部諸州の南部への傾倒を実現してもいる。
 皮肉なことに国力的劣勢が、黒人を奴隷として使うことを行程した国が、そうでない国よりも人種解放を進めさせたのだ。
 反対に、国力の優位に慢心していた北部の怠慢は、この対照をなしていると見てよいだろう。
 この秘密交渉で南部連合は、戦争勝利の暁には先住諸部族には先の戦争で合衆国に奪われた領土の一部返還と諸部族連合(T・U・K)、日本帝国双方に対しての大東海(大平洋)方面での安全保障と完全に公平な外交、通商条約の締結を約束した。合衆国の方も領土以外では同様の交渉を持って来たが、先住民族たちにとって領土返還(奪還)ほど魅力的な条件はなく、彼等は南部連合側に付く事とした。それに、合衆国に対する恨みが晴らせるのに、そのチャンスを逃すわけがなかった。
 しかし、日本帝国は当時ロシア帝国との緊張が高まってきていたので、北米での戦争を行うどころか軍備を送る事ができず、経済封鎖など政治的な事を除けば、海軍による大東海(大平洋)の海上封鎖に対してのみの協力という形が採られる事となった。

 北米大陸での何度目かの戦争は、前年のクリスマスから約一週間たった一八九八年の新年明けてすぐに開始され、北米各地で激戦が行なわれた。
 戦いは、問答無用の先制奇襲に成功し国境線を兼ねるポトマック河を挟んだワシントンを数時間で業火に包んだ南部連合の優位に進み、遅蒔きながら合衆国が体勢を建て直しかけたところに、今度は反対側から諸部族が侵攻を開始した事で戦闘地域が大幅に拡大した。当然合衆国軍は、長大な国境線を守るため薄く戦線を張り、そこを恨み積年の諸部族連合騎兵軍団、アメリカ側の通称「トライバル・ガーズ」がシカゴを目指して徹底した蹂躙戦を行った。それは復讐であるだけに、ただただ一方的な殺戮となった。なお、有色人種が白人種を一方的に殺戮した例としては数百年ぶりの事ともなり、彼らが行ったセントポールでの大虐殺は当時世界中で物議を醸しだした程だった。

 諸部族連合参戦が決定打となり、合衆国の戦線は戦時体制と動員体勢が整わないまま、事実上の崩壊をする事となる。
 そして、おおかたの期待を裏切り、国力的に圧倒するはずの北軍が次第に敗色を濃厚にしていく。これは、南軍に戦争初期の段階で東海岸の産業、人口地帯の多くを押さえられた事が大きく影響し、多方面に戦線を抱え兵力が分散している事が拍車をかけていた。
 また、日系人が過半を占める西部諸州が南部連合に北に対抗できるだけの国力を与えていた事も無視できなかった。南部は少なくとも初戦において、北部の期待を大きく裏切り息切れしなかったのだ。

 南部連合は、戦術的勝利の積み重ねで圧倒的優位な状況を作り出した段階で北軍(合衆国)に対して休戦、事実上の降伏を勧告する。
 表面上の理由は、同じアメリカ人同士が戦う事の愚かさをうたい、さらにこれ以上国土を荒廃させる無益な争いはできないというものだったが、実際は南部連合の国力では、これ以上の侵攻が短期的に不可能だったからで、同様に長期戦には国力が耐えられなかったからだ。そして、主に心理的な面で南部連合以上に疲弊し、既にいくつかの州が寝返るか脱落していた合衆国は、この提案を受け入れ休戦、事実上の降伏に応じる事となる。
 こうして、戦争は当初の予想を裏切り南部連合の大勝利という形で約一年で終息した。このためこの第二次南北戦争のことを『一年戦争』という呼び方をすることもある。
 ちなみに、この戦争は欧州での戦争終結のスローガン、「クリスマスまでに」を守った珍しい戦争であり、多くの将兵が賭に敗北するというオマケを生んでいる。

 講和会議はアメリカ発祥の地と呼んでよいフィラデルフィア市で行なわれ、半年間の交渉の結果彼らは再び一つの家に入る事を決める。
 これによりアメリカ合衆国連邦は、地図の上から消滅し歴史上の存在となり、アメリカ連合に吸収されることとなり、正式な国名も「アメリカ連合共和国」となった。だが、合衆国の政治母体だった民主党は、対北融和政策の一環として存続することとなり、以後共和党と共にアメリカの政権をかけて三十年ぶりに首都に返り咲いたワシントン特別区を舞台に激しい競争を繰り返す事になる。
 なお、この戦いにおいて諸部族連合は、約束通り一部の領土をアメリカ連合政府から割譲され、その政治目的を達成し、それなりの満足を得ている。また、各国との間に新たに各種条約が結び直された事は言うまでもないだろう。

 しかし、南北戦争から続いた分裂時代は、北米の支配層の白人たちにとって悪夢の時代となった。
 神に祝福された国である筈のアメリカは、旧大陸人や蛮族の邪魔を排除し、ようやく国土を再び統合することに成功したのに、目を海外に向けて見れば、内戦でまごついている間に進出すべき場所が、すでにほとんどが旧大陸列強の植民地となるか、蛮族のくせに近代化を成し遂げた日系国家に属する事態となっていたからだ。
 まさに、悪夢だった。
 そのうえ、北米大陸西部にすらインディアンばかりでなく東洋人までが溢れ返っており、今までのような西部開拓と言う名の侵略行為は到底不可能だった。
 そこでアメリカ連合は、友好国であった大英帝国との親密化を図る政策を最優先事項とする政策を決定する。これは当面政治的には、大英帝国の衛星国としての地位に甘んじる代わりに、帝国の誇る巨大な市場に食い入るためだった。それにより足りない資源を確保し市場を手に入れ、内戦で疲弊しきった経済を建て直し、いずれは大英帝国に取っ手変わることを考えていたのは明白だった。アメリカ東海岸には、それだけの潜在性があったのだ。
 老獪な大英帝国も、アメリカの思惑は重々承知していたが、北米が市場としてはとても魅力的であり、また敵とするより取り込んでしまった方が何かとやりやすいと考えていたので、アメリカ連合政府を自陣営に積極的に取り入れた。
 こうして、連合と合衆国は南部連合のもと統一され、北アメリカ大陸に「アメリカ連合共和国」と言う巨大な国家が誕生することとなる。しかしそれは、巨大な経済力を持つが未成熟な保守思想の社会しか持たないいびつな大国の誕生でもあった。
 このためか、最初は南部による統一を望んだ大東海(大平洋)各国も、徐々にその真の姿を見せ始め自分本位な政策ばかり行うアメリカ連合を次第に警戒するようになり、この事態を憂慮した日本帝国とハワイ王国、そして諸部族連合は、北アメリカにおける結束の強化を約束し、対アメリカ包囲網の形成を秘密裏に決定し、南のアズトランは永世中立国へと傾倒していく。
 だが日本は、アメリカに対処する前に、近隣問題から片付けなければならなかった。そう、日本近辺は北米大陸などよりも、余程切迫した事態を迎えていた。
 ついに近世史上最も暴力的な国家、帝政ロシアの南進がアジアで本格化してきたのだ。


四  明治文化とロシアとの対立