四. 明治文化とロシアとの対立

 日本が新大陸で新たな帝国誕生を半ば傍観していた時、ロシアの南進が日本の裏庭である北アジアで本格化しだしていた。
 なればこそ、日本は新大陸情勢を傍観せざるをえなかったのだ。
 そして彼らロシア人たちは、欧州での数々の失敗を挽回すべく、そして基本膨張外交方針である不凍港を求めて、東洋の南の大地を本格的に窺いだしたのだ。
 いかにも、拡大傾向を強く持つ大陸国家的行動だった。彼らには、近代国家的な遠慮や交渉という文字は存在しないのだ。
 これに日本人達は恐怖した。ロシア人の標的は、当然隣接する自分達の国だと考えたからだ。何しろ自分たちは、ユーラシア大陸東岸の過半を押さえているのだ。
 しかしロシア人は、不凍港を求めるが故に隣接する北海道やアイヌ王国本国にはあまり興味がなく、ましてや大陸から離れた島にも興味はないらしく、その矛先を極東でも後進地域だった満州、朝鮮へと向ける。ロシア人は、近代的国家の存在しないこの地域の方がくみしやすいと考えたからだ。確かに東洋随一の文明大国と直接対立する事を考えれば、妥当な選択と言えよう。
 しかしその地域へはすでに列強、とりわけ朝鮮の独立問題から発生した『清』との戦争に勝利してより、大英帝国との密約で自らの勢力圏と自認していた日本帝国も進出を行なっていた。そして朝鮮半島と満州は日本帝国の国防を考えれば、到底他勢力に渡せる場所ではなかった。つまり、どちらにしろ日系国家連合との対立は必然だったのである。

 この頃日本帝国は、一八六七年の明治革命以後、急速に文明の西欧化と江戸末期より進展していた産業の近代化を推し進めていた。
 なお、明治政府が急速な西欧化を押し進めた最大の理由は、単に西欧列強が自らと同じでなければ国家として認めようとしないからであり、当時世界を支配していた欧州列強と対等につき合うためだけに行われた外交戦略に過ぎない。
 そして、表面的な都市文化は、他の西欧列強でも見られたように当時の世界帝国だった英国一色、ビクトリアン・カラーに染め上がっていく。この表面的な事象と日本帝国としての各種改革を総称して「文明開化」と言う。期間的には明治元年から大日本帝国憲法の発布までの約20年間がこれにあたり、せっかく天保年間の間に形成されつつあった日本的近代文明を西欧一色に塗り替えてしまう事になる。
 なお、江戸時代末期から反米感情の強い日本では、明治革命後も西欧文明の導入の際にアメリカを参考とする事を可能な限り排除し、このため欧州列強、特に世界帝国の英国と、少し似た政治形態を持つドイツの影響が強くなり、これが国民感情レベルで後々強く影響していく事となる。
 そして「四民平等」、「廃侯置道」、「学制の導入(教育令)」、「徴兵制の施行」、「国立銀行条令」、「日本皇国憲法発布」、「内閣制の導入」など、それまで引きずっていた武家社会のくびきを全て振り払う改革が断行される。もっとも、その多くは幕府の治世の間、特にその末期において実質的に達成されていた事も多いので、諸制度・仕組みを新たに生み出すのではなく、作り替える作業が明治政府の一番の仕事となった。なればこそ、簡単に憲法が発布され議会が有機的に活動できたのだ。
 ただし、新しい時代が訪れたからと言って旧来の「武家」階級・「豪士」階層が崩壊したわけではなく、万民平等も法律上ですら革命に何らかの功績があるか多くの財を持っているなどで身分の高低が作られ「華族・士族・平民」という形で新たに枠組みがなされ、幕末に生み出された労働者階級と中産階級以上の差が埋められる事はなかった。
 これがある程度是正されるには、「武家」階級最後の反乱となる「西南戦争」による政治的ショックを待たねばならず、この近代日本二度目の内乱を以て日本の近代化は達成されたと言えるだろう。
 そして、旧支配階級は政治的な権力を全て失い、新たな特権階級となった「華族」、「士族」も「豪士」階層に分類される財力・富力がなければ簡単に没落し、いかに経済力を持っているのかが新たな権力の尺度となる社会を生み出したのが、この「文明開化」の時期の特徴と言えるだろう。
 もっとも、意外かもしれないが明治革命を経てもなお日本の国富は多く、「豪士」たちもその多くは豊かなままだったのだ。
 そして彼ら明治の「豪士」階級は、英国の「ジェントリー」のように日本の明治文化を牽引し、和洋折衷な明治の上流文化を創り上げ、現代にも通じる近代日本の上流社会の基礎を作り上げる事になる。

 その後、西欧型近代国家として全ての基盤が確保されると、それまで半ばバラバラに推進されていた各国の制度的・政治的近代化が日系社会全体に拡大され、一八八九年に制定された帝国統一憲法「大日本帝国憲法」と翌年に第一回を迎えた帝国統一議会「大日本帝国議会」の開始を軸とする次なる段階へ飛躍し、この流れがその目を国内、日系社会から海外へ向ける方向に修正し、富国強兵の国家政策に従い政府主導で産業と軍備を拡大させ、近代列強としての足場を固めつつもアジア・太平洋地域の政治的体制をようやく建て直し、二十世紀を迎える頃には十分な産業と国富を持つ国家へと成長していた。
 江戸末期から建設の始まっていた鉄道は、二十世紀を迎えるまでに日本全土に拡大され、海で隔てられた日系社会の全ては高度な商船網で結ばれ、明治革命時ですら七千万人の人口を擁し、二十世紀初頭には一億人に達するとされた規模の大きな国内市場を用いた内需拡大主導経済により巨大な工場がいくつも建設され、日清戦争の頃には日本の重工業化を達成するに至る。産業発展の速度は、プロイセン帝国のちのドイツ立憲帝国と同等で規模は国家規模の違いからそれ以上だった。
 これを象徴するかのように、江戸改め東京、大坂改め大阪の二つの大都市は人口三百万人を数える世界有数の大都市に発展している。
 だが、日本は帝国主義時代にあって、その当時の主流であった純然たる植民地は一つも有しておらず、国内での生産力の拡大は自然と日本人の目を外に向けさせるようになる。
 そして当時の植民地主義時代にあっての日本帝国なりの政策を推し進め、次に進出すべきところは大英帝国を始めとする欧州列強の勢力を認めた場所、最後の巨大な市場、中華大陸であり、安全保障という経済以上に重要な問題もある事から、本国に最も近い地域である朝鮮半島と満州地方に自然と目を向けるようになっていた。
 そうした状況から、日本帝国成立とほぼ同時に、自らの安全保障確保のため鎖国していた旧態依然たる半島国家の李氏朝鮮を強引に開国させ、その後朝鮮半島の総主権を『清』帝国と政治的に争い、一八八四年に事実上『清』の朝鮮征服に対して朝鮮内部の改革側に立って軍事介入し、ついに眠れる獅子と欧州が警戒していた『清』に戦争を吹っかけ一方的な圧勝をおさめた。まさに、ランドパワーとシーパワーの激突であり、ここに人種問題は介在していなかった。
 これが「日清戦争」である。
 戦争そのものは、文字通り日本の圧勝だった。アヘン戦争以後凋落を続ける「清」帝国に対して、明治革命以来約三十年、江戸末期の天保文化の時代から考えれば半世紀以上も前から近代化を推し進めていた日本の力は大きく、その近代産業国家が作り上げた新生日本軍の圧倒的優位で戦いは進展し、戦いはその殆どが戦意に乏しい清帝国軍をほぼ一方的に撃破する形で進められ、この戦争を当時廣島に大本営をおいて戦争を指導していた日本政府内部では、記録に残すとき「事変」で片づけようかとすら議論される程だった。
 なぜなら、開戦一年にも満たない間に制海権を海戦による敵艦隊の壊滅によって奪い、安定した海上補給線を通って送られた軍団は呆気なく敵国の首都を陥落させ、時の皇帝を人質としてしまったからだ。
 ただし、当時の清帝国宰相直属の兵団は、最後の北京攻防戦で中華帝国の意地を見せつけ、日本軍に一矢報いている。

 そして、中華大陸への市場拡大のための橋頭堡が確保されると、十九世紀初頭から彼の地に興味を向け、日本、当時の江戸幕府の末期に日本が外交的に全く弱体だった間に強引な外交政策でついに大平洋への入口を確保していたロシア人と対立する事となっていた。
 そして抜け目無いロシア人たちは、この日本の対清戦争の直後にまたも中華帝国の弱体化に付け込んで満州全土に踏み込み、遼東半島の利権を得る事に成功していた。
 日清戦争で日本は、朝鮮半島を確保し支那の港をいくつも開かせ、莫大な賠償金と海南島を得て国威を挙げたが、このロシアの動きはその全てを御破算にする程のショックとなった。
 この事態に日本皇国政府はロシア人のこれ以上の亜細亜侵略を許す訳にはいかないと判断し、さらにロシア人の田舎泥棒的な手口に激怒した帝国各国の国民の突き上げもあり、オフレコで時期を見てのロシア撃滅を決意する。この時の戦争準備計画は念の入ったもので、後年公開された機密政府資料では明確な対露戦争計画がストラテジー・レベルで詳細に計画されており、十年の準備期間をおいて、陸軍大国ロシアとの全面戦争を計画していた。

 当然日本人は、大国ロシア事を構えるにあたっての準備を入念に行った。欧州随一の陸軍大国と呼ばれるロシア帝国相手に、陸戦で真正面から殴りあっても勝てる道理がないからだ。何しろ彼等は当時世界最大の陸軍国であり、翻って、日本帝国軍はようやく軍の近代化を終えたばかりで基本的に海洋国家だったからだ。
 日本人達がまず行ったことは、味方を増やす事だった。当然、最初に帝国内の政治的調整が行なわれた。だが、これは帝国各国としても、これ以上ロシア人の亜細亜での跳梁を許すまじとの声が強く、日本皇国政府のロシア開戦に異を唱える政府、自治体は全くと言っていいほど存在しなかった事からスムーズに運んだ。そればかりか、ここで亜細亜の盟主としての意地を見せるべきだとする声が強く、その為には協力は惜しまないとする政府・組織が少なくなかった。
 これは今までの南蛮(西欧)勢力の強引な進出に対しての怒りが頂点に達していた日系社会の実状を物語るものであり、日系社会の盟主たる日本皇国政府がやっと重い腰を上げた事に対する、帝国各国の熱いエールであった。そしてさらに帝国の強行派は、これをきっかけとして南蛮(西欧)勢力に対しての反撃の狼煙としようとする動きすらあったと言われている。まあ、日本人の白人国家に対する全ての怒りを受けた形のロシア人こそ言い面の皮といったところだろう。
 また、帝国内でも特に伝統的な北方重視政策をとるアイヌ王国としては、北海道経営の為にも国境を接するロシア人撃退は至上命題だった事も国内団結にはプラスに働いていた。それに各個の軍事力では、逆立ちしても陸軍大国ロシアにかなうはずがないことを知っていたので、最も大きな動員能力を持つ日本皇国が対ロシア政策に熱心なのは、各国としても心強いかぎりだった。
 こうした内政環境から、戦争に対応するため日本、アイヌを中心として、日本帝国初の国家総動員体勢が押し進められる事となる。
 日本人達はこのロシアの東洋進出まで、帝国国家として一応政治的には一つだったが、心情的にはいまいちまとまりに欠けていたのだが、この戦役により近代国家として強い団結を作り上げる事となったのは大きな福音であり、この戦争最大の成果とすら言われている。
 そして、さらに日本帝国にとり幸運なことに、ロシア人の南進を強く警戒している国があった。
 大英帝国である。
 彼らは世界帝国であるだけに、極東だけでなくペルシャなど中近東(表南蛮)でもロシア人と激しく対立していた。世界帝国として、自らの庭に土足で入り込んでくる大陸国家の田舎どろぼう的行為は無視できないからだ。しかし彼らは、自らの行き過ぎた帝国主義がもたらした南アフリカで行われたボーア戦争とその戦後処理の影響もあって、特に陸軍力の面で極東には手が回らない状況だった。つまりこれは、英国が陸軍力の面でロシアに対抗できない事を意味しており、部分的なパックス・ブリタニカの崩壊すら意味していた。そこで英国人たちは、アジア戦略の根本的な転換を行う事としたのだ。
 それは十分な軍事力を持った自分達と同じ利害関係を持つ(無い時は強引に作り上げる)国を、自分たちにとってのアジア・大平洋地域での安全保障に組み込んでしまうことだった。この新戦略に従って、彼らはその目的の最もあった国家である大日本帝国をパートナーとして選び、そのための軍事同盟を締結し、ロシア人にぶつける事としたのだ。
 そして、その最初のテストケースとして、当時清で起こった「義和団の乱」で日本と完全な共同歩調を取り、彼らの軍備の実態を図り、力量的に同盟足りうるかを結論した。
 日本帝国としても自分達の国力が、まだまだ欧米列強(特に英仏)と比らべれば小さな力しかないと考えていたので、当時の世界帝国である大英帝国との同盟関係を築くことができるのなら、これ以上の外交成果はないと考えられた。
 そして双方の合意により新たな契約は成立し、同盟関係が結ばれた。これが当時の世界を驚愕させた「日英同盟」だ。
 もっともこの時、半世紀後もこの同盟が形を変えて存続する事になろうとは、双方とも考えてはいなかった。
 そして日本人たちは、勇敢にも十倍の国力を持つといわれる大国に殴りかかっていく事になる。
 しかし、この「十倍」と言う数字は、ロシア帝国と日本皇国の正面陸軍力だけを対象とした場合の差で、その点だけはほぼ正しかったが、日本帝国全ての国力は既に工業生産力とGNPという点でロシアを大きく凌いでおり、海軍力に至っては列強三位の実力を持つまでに増強されていた事はこの当時欧米にはほとんど知られていなかった。つまり、この「十倍」をという数字は、西欧で算出された手前勝手な憶測を交えた国力予測であり、その当時の有色人種軽視の影響が強かった事を物語っている。この事実をある程度正確に知っていたのは、世界中の情報を集め正しく分析していた同盟者の英国の中枢部だけであり、日本人達ですらその多くが本当の数字には気付いていなかったと言われている。
 そして、このパワーを一人知っていたからこそ、英国は日本をパートナーとしたのだ。


五  日露戦争