五. 日露戦争

 一九〇四年二月に日本軍の奇襲により開始された日本帝国とロシア帝国との間の戦闘は、当初陸戦主体の戦争となる事から、ロシアの圧倒的有利と言われていた。
 特に当時のロシア帝国は、陸軍力は世界一、海軍力も急速な増強で五指に入るとされる、欧州随一の軍事強国であるからなおさらだった。ロシアのコサック騎兵の強さと、砲兵の強力さは欧州の誰もが認めていた。当時は、ロシアが勝つのが常識とすら考えれれていた。
 特にロシアの脅威に怯えていた近隣諸国は、心情では日本に勝って欲しかったが、現実的にとてもではないが日本に勝ち目はないと考え、だからこそ日本の決意を褒め称えた。日露戦争とは、ロシアに虐げられた全ての人々とロシア帝国との戦争でもあったのだ。
 そして、日本人もあらゆる手段を尽くしても六割の勝利が精一杯であると考え、同盟国の英国もある程度そうなることを期待していた。
 しかし、蓋を開けてみると戦前の予想とは大きくくい違っていた。

 戦争全体の流れは、多民族国家特有の近代化の遅れから革命の火だねに怯えるニコライ二世率いる帝政ロシア政府をしり目に、日本が入念に準備し帝国全土に動員をかけうるだけの国家体勢と産業体勢を確立していたためスムーズに総力戦体勢を確立でき、また先制攻撃の準備を入念に行っていた事もあり、日本帝国が比較的早期に満州への戦力集中を実現し、産業の進歩により新しい戦争へと進化しつつあった戦場で苦戦しつつも勝利と前進を続けていた。
 なおこの時代は、十数年後ほど交通システムが発達しておらず、日本帝国全土から満州・シベリアに巨大な兵力を送るには準備してなお大変な時代だった。
 だが、これは世界中を見ても初めて国家が総力を挙げて行う戦争であり、これを短期間で実現した日本の政治、経済的な潜在力では、すでに欧州列強の多くと並ぶか凌いでいたと考えて良いだろう。
 何しろ日本はこの戦争で二百万人もの兵員を動員し、満州、シベリア、北海道に送り込んだのだ。
 なお、戦闘そのものは、開戦前から日本にとっての最大の懸案だった満州先端部にある旅順要塞(+軍港)を根城とするロシア太平洋艦隊を日本・アイヌ連合艦隊をもって早期に打ち破り、難攻不落を謳われた同旅順要塞を双方の屍山血河のすえ日本側が数ヶ月の攻防ののちに陥落させ、開戦同年の晩秋に奉天で敵主力をダイナミックな包囲戦により撃滅して、日本が戦争の主導権を獲得した。
 また、日本軍の別働隊が、ロシア軍が満州へ兵力を集中した事から手薄となっていた極東ロシア領内へも侵攻していた。日本軍の兵力動員と運用速度は、当時まだ単線だったシベリア鉄道一本に頼っていたロシア軍の動きをはるかに上回っており、ロシア軍を各地で各個撃破して戦術的勝利を積み重ねていく。
 しかも、日本兵の数はロシア側の予想よりも遙に多く、ロシア側は日本軍の兵力を総数三百万人程度と見積もってすらいた。
 そして戦術的優位を積み上げた日本軍の主力は、さらに満州深部へ向けての進撃を続け、ついにロシア最大の拠点のハルビン市郊外での双方六十万人の兵力が激突した大会戦で陸上での勝利を決定し、満州と極東ロシアの平定に成功する。
 さらに海においても、遂に発生した決戦、つまり有名な「日本海海戦」にて日本帝国統合艦隊が、ロシア人が起死回生を狙って東洋に送り込んだ彼らの本国艦隊、バルチック艦隊に対して歴史上空前絶後の完全勝利を獲得し、戦史に燦然と輝く一ページを刻みつける勝利を博した。
 この戦争は日本人側から見た場合、まさに軍紀物語のような華々しい大勝利となった。
 明治日本軍は、伝説となったのだ。
 もっとも、反対に大敗北していたら目も当てられなかっただろう。英国を味方にしていたから戦略的な完敗こそないだろうが、敗戦で日本が今ほど発展しなかった事は間違いないだろう。

 そして戦争の結果は、自分達ですら疑うような大勝利となった。何しろ、日本人ですら開戦当初はなんとかロシア人の中華大陸進出を阻止でき、朝鮮半島を確保できればよしと考えていたのだ。
 そしてこの度重なる戦場での敗北と、日本の諜報組織が誘発したとされるロシア国内で発生した社会主義者、民族主義者を中心とした内乱激化により国内情勢の悪化に耐えかねたロシアが、自ら講和を求めて来る事で一年半にも及んだ戦争は終幕を迎える。
 だが、当初日本の出した講和内容はロシアにとっては到底承諾できないものだった。その内容はロシアの極東亜細亜・太平洋からの完全な閉め出しを意味していたからだった。だが、敗北と内乱という内憂外患で進退極まった為、止む負えず日本のとの講和がはかられた。
 戦費二十五億ルーブルを浪費し十万人の将兵を失い、十万人が捕虜となりそれに倍する負傷者を出したロシアには、もう日本と戦う力は残っていなかったのだ。
 結局親露側のドイツによる調停により停戦が実現し、ドイツ・ハンブルグ市で講和会議が行われ、最終的に日本はロシアから沿海州、ハバロフスク州、アムール州全域と西シベリアの一部割譲を勝ち取り、全満州の権益とリャオトン半島の租借権を譲られ、さらに小額ではあるが賠償金を得るほぼ日本側の提案通りの利権を獲得する事で決着した。
 そして南満州の権益については、同盟国として参戦した(半ば強引に参加させた)大韓国と多額の国債を購入してくれた、同じく同盟国の大英帝国とで利益を共益する事で、同盟関係の強化と友好関係の醸成を図る事も怠りなかった。日本政府は、この戦争が自分一人の力でなし得たなどとは決して考えていなかったのだ。

 かくして日本帝国は、ロシア人を極東から駆逐し、さらには広大な領土を獲得し北海道を安定化する事にも成功したが、一年半に渡る激しい戦いは、多大な戦費(約三十億円・一$=一¥)を使い多数の戦死者・負傷者を出していた。それでいて、わずかな賠償しか得られなかった事に一部の国民が政府を激しく非難することとなる。戦争で得た利権が外国にも分け与えられたのだから、国民の激昂は日比谷焼き討ち事件などに代表されるように当時かなりのものになった程だ。
 だが、この戦争により日本帝国は、大英帝国以外の西欧列強からも自分達の一員として明確に認識されるようになり、政治的・軍事的にも一流国家として認知されるようになっていた。
 ただし、大英帝国は江戸幕府の時代から日本の潜在的な国力を認知しており、露骨な干渉は避けていた事を忘れてはいけない。一人英国だけが戦前から日本の勝利を予測していたのだ。なればこそ、あれ程の外債購入を積極的に行ったと言えるだろう。

 そして日露戦争後、日本の大勝利は大英帝国により全世界に『東洋の神秘の帝国』として宣伝される事で欧米の市民の一般認識として民衆にまで定着する。
 東洋の眠れる獅子は腐敗堕落した大陸国家の中華帝国などではなく、英国同様の海洋国家たる日本帝国であり、海洋帝国こそが世界をリードする能力と義務を持っているという英国らしい論法で世界に流布された宣伝がこれにあたる。
 要するに、日本をダシにして英国の偉大さもついでに宣伝していたのだ。
 そして、この宣伝効果を武器に日本帝国と大英帝国は、亜細亜・太平洋地域の勢力拡大と経営の主導権を握る事になる。
 もっとも、反露的な国家、純粋な白人国家と言えない国々、白人の支配に甘んじている有色人種から日本はヒーローとされていたので、この宣伝は不要だった。
 つまり日露戦争とは、単に旧列強と新興帝国との局地戦争ではなく、有色人種対白人種の戦争と世界は認識したのだ。
 当然、この戦争以後世界中で植民地独立運動が活発化するようになる。
 そして大英帝国は、この日本の予想以上の活躍により発生した東洋を始めとする欧州植民地地域での自治・独立機運の高まりを、日本そのものを利用する事で制御し、自らの影響力を強く残しつつ彼等に対し少しずつ自治を与え、西欧の植民地帝国の中から真っ先に貿易帝国としての抜本的な方向転換を始める事となり、同時に工業帝国としての限界に直面したためそれまでに蓄積した財による金融帝国としての道へと本格的に乗り出す事になる。また、日本も当然この大英帝国の動きを承知でアジア・太平洋での勢力拡大を図っていった。
 まるで、詐欺師の名コンビのようだが、両国とも大陸に対して外交・謀略をもって覇権を維持するという性質を持った海洋帝国であり、互いにその事をよく認知しており、大陸国家がよく使う軍事力による暴力的進出とは対照的なその特徴がよく出ている政治的状態と言えるだろう。
 しかし、日英政府ともに自国民以外の事については概ね無関心であり、国益に反する他地域での独立運動などについては日本政府も非常に冷淡だった事は同国民としては残念と言えよう。日本が独立支援に熱心だったのは、かつて恩を受けたごく限られた地域を例外とすると、自らの勢力圏内にあるインドシナ地域と、ロシアの裏庭に位置し民族的に親日傾向の強いトルコぐらいだった。
 そして、日露戦争により綻びを見せた帝国主義は、そのピークとして世界にこれ以上ないぐらいの災厄を振りまく事となる。


六  第一次世界大戦