六. 第一次世界大戦

 日露戦争ののち日本帝国は、ロシア帝国とは欧州列強と同様の外交政策を展開して不可侵条約や通商条約、はては事実上の軍事同盟まで結び満州、北方国境問題に一応の決着をつけ安定させた。
 一方、アジア・アフリカを中心とした西欧の植民地地域での独立運動も、大英帝国においてはオーストラリア、カナダが事実上の独立を果たし、インド全土、マレー(馬来)、エジプトが自治権を得た事でやや下火になり、英国によるネオ・スタンダードとなるべき秩序、宗主国を中心とした国家連合という巨大な連邦国家の構築が模索される中、世界は表面的な平和がしばらく続いたが、それもそう長くはつづかなかった。
 結局のところ、ビクトリア時代が終わったと同時に「パックス・ブリタニカ」も終焉を迎えていたのだ。
 ちなみに英国が目指した新たな国家像は、これより少し後に出現する日本帝国の姿だったというのが通説である。

 そして自らの繁栄のためだけに、地球上の全てを自分たちの植民地としてしまった欧州帝国主義は、政策の根幹である植民地にすべき場所がなくなるという致命的なシステム的限界を迎え、またそれに比例するかのごとく欧州各地の民族主義が列強それぞれの支配地域で吹き出しつつあった。
 特に、オーストラリア=ハンガリー二重帝国、オスマン・トルコ帝国、帝政ロシアなど十九世紀中の近代改革に失敗した多民族で構成された旧大国においてその傾向は顕著だった。
 そして世界中を植民地とした欧州は、そのパワーを同じ白人勢力に向けるようになり、これが新興国と旧大国との対立を表面化させ、新興工業国として頭角を現したドイツ帝国による強引な帝国主義外交は旧大国であるイギリス、フランスの警戒感を募らせ、ドイツでヴィルヘルム二世が海軍拡張を開始したことで撃鉄は起こされる。
 大英帝国とドイツ帝国の建艦競走を始めとした欧州列強の軍拡は、年を増すごとに激しさも増し、欧州大陸は表面的な繁栄のうちに大戦争の危険をはらむようになっていた。
 この争いの外にいた列強は、国内の復興に忙しく外を見る暇のないアメリカ連合共和国と、日露戦争の後遺症に悩みながらも亜細亜地域の安定化と国内開発に力を注いでいた大日本帝国だけで、欧州外交の外にいたからこそ、彼らは争いに巻き込まれなかったのだ。
 そして欧州の火薬庫と呼ばれたバルカン半島で数発の銃声が轟き、それを号砲にして欧州列強は一斉に戦争へと突入していく事になる。

 第一次世界大戦の勃発である。
 当初、結果的に戦争を煽ったヴィルヘルム二世は、この度の戦争もそれまでのような欧州王侯外交により簡単に解決し、常備軍だけを用いた短期的な戦争の後、戦争関係国の間で幾つかの国境線のやりとりをすれば終わるものと考えていた。もちろん、ドイツの勝利という前提を以てしてだ。
 そして、ドイツとしては英国に挑戦できる事だけを示せれば、この戦争の意義は十分に果たされると考えていたと思われる。
 だが、ウィーン体制時のような各国の王族と優秀な外相による華やかな外交の時代は終わりを告げており、欧州世界は未曾有の「総力戦」という大戦争へと突進していく。
 自業自得と言ってしまえばそれまでだが、この大戦争は単にドイツの坊ちゃん皇帝の責任ではなく、植民地主義の上に繁栄の胡座をかいていた欧州社会全てに対する痛烈な皮肉だった。
 しかし、この戦争に狂喜乱舞した列強もあった。
 日本とアメリカだ。

 この未曾有の大戦争に際して、大日本帝国は日英同盟のもとなお同盟国だった大英帝国を援助するために連合国側にたって参戦する。
 そして参戦すると同時に、日本海軍はそのほぼ全力をインド洋、地中海、大西洋そして戦争のホットゾーンである北海に派遣した。これは別に友誼に基づく派兵ではなく、恩を売るため、そして日本が欧州外交に本格的に関わるために自らの存在をアピールすべく行われた政治的派遣に過ぎない。そして、この戦争を契機に日本が世界を目指すことを決めた最初の行動でもあった。

 また、この大戦争の勃発は、帝国にとってはまさにここが恩の売り時、儲け時というわけであり、太平洋方面には在アジア・ドイツ軍を撃滅できるだけの必要最小限の戦力だけを残して欧州へとその兵力を派遣した。
 当然、欧州や世界中に大量の物資を運ぶために大量の船舶が必要となり、帝国各地の造船所は規格化された「戦標船」と呼ばれる高速輸送船を大量建造し、併せてそれを護衛するための護衛用艦艇を大量に吐き出し、帝国中の工場は欧州で不足しているあらゆる物資、特に兵器・軍需物資を大増産し、そして欧州からの供給が止まったあらゆる工業製品を世界中に売り捌いた。
 もちろん、既存の工場ではとうてい生産が足りないので、いくつもの新規大工場が出現し、日本の国富を年率十二パーセント以上で上昇させていった。
 日本にとって最高の戦争だった。
 世界の列強と呼ばれる過半の国々が、長期にわたり塹壕で睨み合いをしている点など、当事者としては驚喜するぐらいの状態だった。
 日露戦争後よりずっと続いていた財政状態の悪化による景気停滞は、この長期にわたる戦争景気で吹き飛び、戦場は遠く離れ、商売敵は戦争で商売どころでなくなり、しかもダラダラした戦争によって疲弊していくというオマケまであった。そして、この戦争において、日本帝国の生産力はたった数年で、それまでの二倍に拡大したとすら言われる程の発展を遂げる事となる。
 その工業生産力は、大戦中に同じく著しい成長を遂げたアメリカに次ぐ、世界第二位の座に至っていた。
 そして、その未曾有の好景気の上に新たな日本文化が作られ、それまでの上流階級・中産階級主導の華やかな明治文化から脱却し、市民主体の「大正デモクラシー」と呼ばれる一般大衆文化を生み出した。また、英国やロシアなどからの戦争疎開者の増加は、日本文化の下層において西欧化を促進し、西欧的価値観の多くもあわせて輸入されるようになる。
 日本のレストランで、英国料理やロシア料理、そして両者が好んだフランス料理が一般化したのもこの時期だ。
 そして、当然ではあるが経済的にこの戦争は日本に大きな影響を与えていた。日本経済が二倍に膨れ上がった事で、国内では多くの「成金」と呼ばれる人間を生み出したが、そればかりでなく帝国自体で少し変化がいくつか見られていた。
 それは、日本帝国内において小国であるが故に日露戦争での疲弊から回復できないでいた琉球王国が、日露戦争後不景気脱却の切り札として王国本島を経済特別区とし社会資本の整備(港湾、道路、工業用用地の造成など)したことが、この大戦争による好景気で一気に効果を現し、大量の資本が帝国内部と諸外国、とりわけ戦乱から逃れてきた欧州資本が投資され、この国をたちまち経済国家へと変貌させてしまった事だった。国家の中の国家という立場を利用しての関税撤廃が大量の資本投下を生み、その資本投下と立地条件の良さもあり、日本本土とそれより以西の地域との流通の中継地点として発展、またその風光明美さから当時大量の中流階級を生み出しつつ合った日系国家群の格好の観光名所としても発展したのだ。その繁栄ぶりは西欧列強からも注目され、『現代のベネツィア』と称された程だった。
 そして琉球の繁栄は、日本帝国の当時の姿を最も強く映し出していがそれは日本経済全体にも言える事だった。そう、「成金」による経済界の再編だ。
 それまでの日系社会は、江戸時代に勃興した豪商「鴻池」、「住友」、「三井」、そして新興の「三菱」、アイヌ系の「麗文」と「南部」、豪州系の「今井(IMAI)」、北米系の「飛鳥(Asuka)」が明治以降巨大財閥として日系社会を経済面から牛耳り、中でも江戸時代末期に日本の富みの半分を持つと言われた「鴻池」の力は強大だったが、第一次世界大戦による成功で成り上がってきた新興の企業が相対的に旧財閥に対抗出来るほどの力を持つようになり、以後半世紀かけて様々な新興財閥が隆盛し、これらの牙城を崩していく事になる。

 また、大戦に参戦した事による副産物として、日本軍は兵備に対する考えを新たにすることになる。
 海軍においては、欧州に派遣した連合艦隊主力が有名な『ジュットランド沖海戦』に参加し、ドイツ戦艦郡と交戦。多大な戦果を挙げるがこちらも新鋭戦艦『扶桑』、『山城』喪失を始めとする甚大な損害を受けたことと、ドイツの通商破壊艦艇に対し、新たな兵器として投入された航空機が多大な戦果を上げたため、当時帝国の総力を挙げて推進中だった大艦隊建造計画「八八艦隊計画」の大幅な見直しと、航空機を搭載した新たな軍艦、『空母』の主戦力化が考え始められたことだ。また陸軍では、アイヌと日本が共に一個軍団を派兵しドイツ軍と塹壕を挟んで対峙したが、ここでの日露戦争を上回る物量戦の経験により、陸軍のより一層の重武装化と自動車両、装甲車両などの新兵器の導入が大規模に進められるきっかけとなり、空においても各種戦闘機を始め、はては重爆撃機、大型飛行船にいたる兵器体系の導入を日本軍に強いる事となった。
 なお、日藍は欧州の戦場で、日露戦争で得た教訓を反映させた装備、戦術を各国に見せつけ、その評価を大いに挙げていた。もっとも皮肉なことに日本のサムライたちに最も高い評価を与えたのは、敵手たるドイツ帝国の軍人たちだった。

 一九一九年まで五年間にもわたり続いた第一次世界大戦は、結局陸でも海でも決着がつかないまま延々と続けられるのかと思われたが、ドイツ帝国が革命で勝手に崩壊したロシア帝国との戦いを片づけた後、全ての戦力を西部戦線に投入し、浸透突破戦術という新たな戦術で挑んだ最後の大攻勢により、彼らがパリ前面にまで迫る事で実質的な決着が付くことになる。
 それはまるで、ドイツ軍の列車砲弾ではない重砲弾がパリ市郊外に頻繁に落ちるようなった事で、全ての人が戦争に嫌気がさしたかのようだった。
 このドイツ最後の攻勢は、連合国側がもう少し戦力があったなら防げたと言われたが、連合国側にそれ以上の戦力を出す余裕は全く無かった。もっとも内戦からの復興と、諸部族連合との対立を理由に参戦に遂に応じなかったアメリカ連合が参戦していたら、状況は変わっていたと言われたが、それは最後まで実現する事はなかった。また、大平洋のもう一つの大国日本は積極的に戦争に参加していたが、欧州に大量の陸軍を派遣するにはあまりにも遠すぎた。なお、この戦争で日本帝国が派遣した陸上兵力は、日藍合計で二個軍団、のべ二十六万人に過ぎなかった。ただしこれは、同じく連合国だったロシア方面に派遣された、北海道諸侯国の増強一個師団を除いた数字で、この旧ロシア極東地域の住民を含めた部隊は、ドイツ軍に惨敗を喫した欧州ロシア戦線での活躍よりも、後のロシア革命において重要なポジションを占めることになる。

 そして戦争を終わらせる為の戦争と言われた筈の大戦争は、結局連合国、同盟国(ドイツのみ)双方が疲れきった段階で握手するという、真に欧州的な形で終決する。
 その後のベルサイユ講和会議でも、戦争当事者の幾らかの国境線の変更以外、長期の戦争に耐えきれず崩壊したオーストリア帝国とトルコ帝国の領域だった東欧・中東で幾つかの独立国が誕生しただけで、本当の戦争の当事者達は、莫大な戦費と人命を消費した以外、結果的に何の変化もないという誠に当事者達の徒労感だけを積み上げる結末となった。
 特に、列強の誰もがロクな戦時賠償金を得られなかった事は、全ての国々を大きく落胆させた。
 勝者無き戦争。それがこの未曾有の戦争の結末だった。いや勝者はいた。
 戦地から遠く離れていた列強にして産業国の大日本帝国、国内復興と先住諸部族連合との仲が悪化していたため結局参戦しなかった米国は、遠く離れた当事者でない産業国家であるが故に大儲けし、国を発展させた事がその証だ。
 反対に、欧州各国は文字通りの総力戦により、人的資源が不足し、財政悪化で経済が極度に疲弊、戦争の終了により生産の混乱が起き産業が停滞しと、全てが悪いベクトルに向き、以後世界政治でのイニシアチブを失っていく切っ掛けとなる。
 それは、欧州の没落と太平洋諸国の隆盛の始まり、つまり新たな時代の幕開けであり、帝国主義の時代が終わり次なる時代の始まりでもあった。
 そして、それを象徴する事件が、戦争から早期に脱落したロシア帝国にて発生する。
 それは、世界を揺るがすほどの国際政治的にも、世界史的にも極めて大きな事件だった。
 歴史的にはこれを「ロシア革命」と言う。


七  ロシア革命