七. ロシア革命

 ロシア帝国は第一次世界大戦において真っ先にドイツに宣戦布告しておきながら少し後から攻撃を開始し、好機を狙ってドイツに殴りかかったが、その目論みはドイツ帝国の宿将ヒンデンブルグ将軍の後手の一撃により粉砕された。
 日露戦争に続いての、ロシア帝国の力の根元である軍事力が否定された瞬間だった。
 この大敗戦を機に、日露戦争のダメージからいまだ回復できず、さらに第一次世界大戦参戦による総力戦がもたらした搾取で窮乏の限界を迎えていた民衆が遂に立ち上がり、これに折からの飢饉が重なり、民衆を扇動した社会主義・共産主義者達の手による革命が帝都サンクト・ペテルブルグにて起こり、ロシア帝国はあっけなく崩壊する。
 それだけにとどまらず、その後に共産主義の国ができたのだから世界中が驚く事となった。それは世界史的、政治的に見ても、まさに革命的な事件だったからだ。
 だが、革命に対しての列強の捉え方は、そのような奥深いところにはなく、そしてもっと切実なものだった。
 それは、今現在存在する列強のほとんど全て(アメリカとフランス以外)が形はどうあれ王を中心とした立憲君主国家であり、このままロシアで共産主義革命が成功でもして、それが自国へと波及しては自分たちの体制すら脅かしかねないと言うものであり、その歴史的意義や政治的意義は取りあえず思考の外にあった。いや、されていた。そんな事を考えるよりも、まずは自分の足下の火を消すことの方がはるかに重要だったからだ。そして、感情と自らの利権保持のため、列強各国はこの革命を失敗させるべく、連合国、同盟国の関係なくロシアの大地への大規模な軍事干渉を開始する。
 そのショックは、かつてのフランス市民革命の比ではなかった。いや、同程度だったかもしれないが、大戦争の真っ最中という事もあり規模が桁違いだったと表現しておこう。

 いまだロシア(帝国)との戦争状態だったドイツ帝国は、ロシア皇后がドイツ皇帝の血統だった事もあってか数百万人がいた東部戦線の将兵の歩みを強くさせ、帝都サンクト・ペテルブルグ目指して進撃し、ロシア帝国と同盟関係にあった連合国各国も、各地に軍を派遣し革命軍に戦闘をしかけ、帝政ロシアを復活させるための様々な手を打っていった。当然日本も、革命とほぼ同時に近在のシベリア、ロシア極東を連合国各国とともに武力占領した。また、日本軍は連合国としては唯一ロシア戦線にまとまった兵力を派遣しており、サンクト・ペテルブルグ前面でドイツ軍と対峙していた二万五千人の日本軍部隊は、混乱していた欧州ロシア中央で唯一の統制された軍事組織となり、物資の続く限りにおいて貧弱な共産主義者による兵力ではどうにもできない程強力で、さらに存在そのものが国際問題を引き起こすだけに、革命側がどうすることもできない唯一の存在となっていた。しかも日本政府は、彼らにサンクト・ペテルブルグに在る日本大使館を始めとする日本人権益の保護・警備を命じ、戦線を放棄して日本人の軍隊がロシアの帝都に乱入する異常事態に発展する。
 そして日本軍の行動は、全て混乱をもたらしたロシア側に責があるとして、自らの行動を正当化し、ロシア帝都へすぐ向かえる列強の兵力が彼らだけだっただけに、国際的にも肯定される事になる。もちろんこの時、連合国各国資産の保護も日本軍の任務となっていた。
 しかし、当時のロシアは革命とドイツ軍の大攻勢などにより完全に混乱しており、当時のロシア側の記録に彼ら日本軍の動き残っておらず、日本側もいまだに機密解除していない事から、様々な民族で構成された北海道諸侯国一個師団の動きは、歴史の闇の中にある。
 ただし、彼らが欧州まわりで移動、本国に帰国した時の荷物が異常に多かったという証言が多く残されているので、推して図るべしというところだろう。

 各国の干渉にも関わらず、ロシア革命は成功する。
 結局のところ列強の干渉の大半は泥縄的であり、また当時まだ第一次世界大戦中ということもあり全く連携もとれておらず、決して効果的とは言い難いものだった事が大きな原因のひとつだろう。
 そしてこれは、世界初の社会主義国、いや共産主義国の誕生の瞬間だった。
 だが、各国の干渉もそれなりに成果を収めていた。
 自軍のあまりにも呆気ない崩壊と、ドイツのあまりにも早急な進撃、帝都近在での日本軍の異常行動に停戦時期を逸してしまったレーニンは、一九一八年四月、屈辱的なブレスト・リフトリスク条約に調印した。
 かつての首都まで奪われ、ウクライナ全土も彼らの手中にあるのではどうしようもなく、モスクワに在ったロシア・ソヴィエト臨時政府はウクライナ、白ロシア、バルト、コーカサス、フィンランドを失った。
 しかし、それだけではなかった。
 一九一八年六月、日本人が去りドイツ軍の占領下にあった帝都サンクト・ペテルブルグに、革命時行方不明となっていたロマノフ王家の当主にしてロシア皇帝だったニコライ二世とその一家が姿を現し、臨時政府が失った領土の一部にロシア帝国の復活(存続)を告げたのだった。
 他にも、それまでロシア帝国の過酷な支配に甘んじていたポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、そしてフィンランドが国家として成立した。ただしこれら国々は、成立当初は事実上ドイツ帝国の傀儡政権であり、第一次世界大戦が終了し国際連盟成立まで実質的にはドイツの衛星国か属領でしかなかった。しかし、敵国であった連合国を含めた列強各国は挙ってこれらの国々の独立を承認し、ソヴィエト・ボルシェビキは不法政権、反乱軍としあくまで承認しなかった。

 本来なら、この一種混沌とした状態が続くかに見えたが、依然として継続していた大戦争の行く末が、さらなる変化をロシアの大地に強要する事となる。
 第一次世界大戦の終決とその後のドイツ帝国での政治的混乱とポーランドがソ連に仕掛けた戦争を契機として、正統な領土の奪回を旗印に赤軍が反撃を開始し、ウクライナ、白ロシアの大半を奪回する事に成功したからだ。そして、その進撃がポーランド国境近辺に至った時点で、列強が介入し何とか休戦が成立する事で、この混乱もどうにか終息を迎える事となる。
 この結果、ウクライナ、ベラルーシなど欧州ロシアに一度は復活したロシア帝国は今度こそ完全に崩壊し、からくも生き残ったロマノフ王室以下のロシア帝国支配層はドイツ・フランスなどに亡命し、ここに永きに渡ったロシア帝国は完全に滅亡する事となる。
 また、その前後に確実に革命の生け贄対象とされる予定だった貴族、資産家階級、富農を中心とした多数の者が、列強が稼いだ形になった時間的猶予を利用して持ち出せるだけの財産ごと欧州へと亡命していた。そしてその多く(特に中産階級の一般民衆と貴族全般)が、新たな安住の地を求めて貴族などはなじみ深いフランスなど欧州の各地へと落ち延び、生活を求める者はロシア人が多数住む地域を新しく領土として組み込んでいた、日本帝国の北海道諸侯国や満州へと流れてくることになる。
 またこの間の干渉で、シベリアに多数兵力を派遣していた日本帝国は、ロシアに対する欧州の列強の二度目の軍事干渉の折に、新政府にも沿海州、ウスリー州、アムール州の日本主権を認めさせる、大きな外交的勝利を獲得している。
 ただし、最近になって、当時占領していたイルクーツク州までの割譲も検討されていたが、他の列強の不振を買うと判断された為中止されたという機密文書が見つかっている。

 また、この革命時にロシア帝都にあった貴族の多くが、日本が日露戦争でロシアから割譲した地区に十数年遡って資産を同地域に移していたという書類を作り上げ、これを盾にパリなどに亡命した貴族・中産階級の資産が、「日本帝国」の資産として多く移されてしまい、自らがもたらし混乱により多くの書類が失われていたソ連政府もこれを理論的に否定する事ができず、混乱による貴族の逃亡と共に多くの資産の海外逃亡を許している。そして、当時帝都にあって日本資産を守っていた筈の日本兵が、多くの亡命希望者を助けたという未確認の記録も残っている。
 そして、これら日本の動きに言える事は、ロシアの旧支配階層を救うという美名のもと、ロシアを二つの勢力に分割しようとしたと言う事だろう。


八  軍縮