八. 軍縮

 第一次世界大戦終決後、一〇〇〇万人という未曾有の戦死者と二〇〇〇億ドルという戦費の浪費を前に、欧州では戦争はもう真っ平という考えが蔓延していたが、戦争で大きく国力を増大させる事に成功した太平洋の列強はどうもそうではないらしく、欧州での戦争により一旦は停止していた海軍拡張競争が、戦争終結と共に再び凄まじい勢いで再開されていた。
 日本帝国では「八八艦隊計画」、アメリカ連合では「ダニエル・プラン」が、そしてそれに付き合うようにアイヌ王国でも高速戦艦八隻中核とした「外洋艦隊計画」予算が議会を通過し、また、第一次世界大戦により弾みが付き、当時特に経済力、工業力が増大しつつあったオーストラリア連邦でも同様の海軍拡張計画が成立し、その他の亜細亜・太平洋の各国でも戦艦の保有を含む大海軍の建設が実施されつつあった。
 その全ての拡張計画が実現した曉には、洋上には新鋭戦艦四十八隻を中心とした、各国合計一〇〇〇隻にも及ぶ大艦隊が出現はずだった。それはまさに、海軍軍人の夢、いや妄想の実現といえるものだった。
 さらに日本は、大平洋方面の防衛力強化の為の外交を精力的に展開し、二十世紀初頭にマリアナ、カロリン、軍将(マーシャル)諸島の一部を領有したドイツ帝国に対し、第一次世界大戦で生じた債務の一部負担と日系国家における関税率の低下、優先的融資・借款と言う破格の条件を持ちかけ同地域の購入を図った。もっともこれにはソ連の反対側の防波堤であるドイツに、一日も早く再建してもらいたいと言う国家戦略的考えも影響していたし、次なる世界帝国となる為の布石の一つでもあった。そしてこの交渉は、ドイツがすでに当地を負担にしか感じていなかった地域であったこと、莫大な戦争債務に悩まされていた事が幸いし成功する。
 帝国は大東海(大平洋)方面の拠点とドイツの好意を得ることもできたのだ。だが、これに刺激された米国はさらに軍拡のスピードを上げ、大平洋諸国もこれに応じ、太平洋を挟んだ軍拡はさらなる拡大傾向を見せるようになる。

 一九二二年、この太平洋での事態を、主に自国が建艦競走に参加できる財政状態でないことから憂慮した大英帝国が、第一次世界大戦ののち大きな影響力を持つようになった平和という錦の御旗を立てて各国に軍縮会議を提唱した。そしてこれは、理由や動機はともあれ世界史上で革命的な事件だった。
 何しろこれは、世界最初の国際的軍備縮小会議だっからだ。
 そして、大海軍の建設にすでに大きく財政を圧迫されていた各国政府も、この提案に乗ってきた。特に各国の財務官僚達が徒党を組んだのではないかと言われるぐらい早期に会議が開催される事になる。
 ローマ海軍軍縮会議である。
 会議そのものは、各国の思惑がぶつかり合いなかなか結論が出なかったが、大英帝国、日本帝国、アメリカ連合の主導のなんとか条約締結にこぎ着け、この条約による各国の主力艦保有率は、以下のように調整される事となった。

 大英帝国     五・五(六六万トン)
 日本帝国     五・五(六六万トン)
 (日本皇国   三・五(四二万トン))
 (アイヌ王国    二(二四万トン))
 アメリカ連合   五(六〇万トン)
 ドイツ帝国    二・五(三〇万トン)
 フランス共和国  一・六(二〇万トン)
 イタリア王国   一・六(二〇万トン)

 日本帝国は安堵した。どうにか帝国全体で、英米と同等の海軍力を保持することができたからだ。さらに日本は、今後重要性を増すといち早く目を付けていた航空母艦の保有率は、帝国全体で英米単独よりも多いトン数を確保する事にも成功していた(戦艦の保有率でアイヌ、日本共に一割ずつ譲歩し、日本皇国単独で英米同等、アイヌも七割を確保していた)。しかも日本皇国では、大戦と軍拡で肥大化した鉄鋼・造船産業業界救済を目的として、軍縮条約からもれた他の友好国に、建造の進んでいた破棄予定艦艇を安価で売却するなどしてプレゼンスの強化にも努めてもいた。このような、ともすれば条約に違反するようなこの行動を諸外国が受け入れた背景には、大英帝国は今後十年間、太平洋においては現有戦力と同盟国との連携により勢力圏の維持を決めており、欧州ではフランス・アメリカの横槍をかわしつつ、ベルサイユ会議にて穏便な和平条約の締結に尽力したことにより、友好的となったドイツとの協調外交で挑むことでプレゼンスを維持しようと考え、またアメリカ連合はとりあえず諸外国の軍拡を阻止したのだからよいとする国内世論(先の二度の戦争と先住諸部族連合との関係上、アメリカ市民は陸軍が主と思っているし、各国の軍拡が全て完成したら自らの方が不利になるから)が大勢を占めたため、これを受け入れたからだ。もっとも、さすがにアメリカは、この日本の大型戦艦の実質的な売却を非難したが、これは購入国側が元々輸入やライセンス生産を考慮していた事と購入してもなお、十二分に軍縮には自主的に応じていると釈明したので少なくともアメリカ世論は沈静化した。しかし、アメリカ海軍と政府上層部はこれを対米国政策と見て(事実だが)警戒感を強めていく事になる。
 しかし、その後の海軍軍縮は、つぎのジュネーブ海軍軍縮会議で各国の歩み寄りが見られなかった事から不成立に終わり、再び世界の平和気運が盛り上がった一九三一年のロンドン軍縮会議でようやくある程度の条約が結ばれたが、これもアメリカ対他の海軍国の対立が原因で、一部の艦艇の制限を設けた以外は、これといった成果はなく不調に終わっている。

 これらの軍縮は、結局各国の保有数の調整や実態のない条約だと後世からとかく非難されるものだったが、各国の財政に大いに貢献したのは間違いなかった。
 また、一九二九年に世界を襲ったアメリカを震源地とする大恐慌により世界が混沌しつつあった時にこのような条約が結ばれた意義は、とても大きい政治的効果があったと思われる。
 なお日本においては軍縮条約締結の後、一九二三年に帝都中心に大規模な自然災害が起こり一時的に軍拡どころでなくなったので、軍内部においても肯定的意見が強くなっていく。
 そして軍拡による財政の逼迫から開放された日本帝国は、あわせて陸軍の大幅軍縮も実現し、余剰になった予算を国内開発に充当していくことになる。この時軍縮していなければ、関東大震災復興事業は完全に失敗し、その後の内需主導・大規模公共投資型の経済発展はなく、その前後に本格化した北海道の資源開発を目的とした公共投資、社会資本の整備もどうなったか分からないと言われている。
 特に、北海道開発に大規模な機械力導入による、国を挙げての開発、大陸重視の政策は海軍軍縮無くては不可能だったと後世の評価も一致している。
 そしてロシア革命後著しく規模の拡大した北海道開発は、ソヴィエト連邦に対抗するために、是非とも同地域の国力拡充と社会資本整備を早急にする必要性があったからだが、同地域のロシア人住民の日本政府に対する評価を好意的なものとした点は、日本帝国というシステムのうえから見ると無視できない内政的成功と見るべきだろう。
 また大規模な北海道開発は、日本人たちがシベリアを大規模に開発していると聞き付けた、ソヴィエトよりのロシア難民、中華中央からの移民が多数北海道へと移住してくることで労働力を得、同地域がさらに発展するという好循環をもたらしていた。
 ただし、この時北海道に亡命ロシア中産階級以上の資産が大量に同地域に投下された事が、後に大きな国際問題を引き起こしている点は、忘れてはいけない。

 そしてベルサイユ体制と各種平和条約、軍縮条約などによる列強による国際的な平和ムード、非戦ムードを利用して帝国は、帝国全体の結束の強化図り、近隣諸国にも相互安全条約締結による平和の維持に尽力する行動に出る。
 帝国政府は、これを国連に強引に盛り込ませた民族自決主義を旗印に、亜細亜勢力が不当な圧力から解放され、民族ごとの独立を達成させることが目的だと世界各国に説明した。欧州各国からは、新たなブロック化や違った形の帝国主義だと大なり小なり非難されたが、それ以外の地域ではおおむね好評で、世界世論的に日本の株を上げる事となった。特に、日本帝国にとって、貿易帝国へとシフトし植民地各地の自治独立を概ね達成していた英国からの支援をこぎ着けることが出来た事が、この動きを助けていた。
 そうして締結された条約の中の最大のものが「那覇条約」である。これは、今までの東南亜細亜間の各条約を統括した協商条約で、後の環太平洋条約機構の母体となるものでありそれだけに巨大な規模だった。
 もっとも、軍事的な条約としてはあまり有効でなく、この亜細亜的中途半端さが米国の増長の原因とされる。
 成立は一九二七年で、参加国は太平洋戦争勃発直前で、日本帝国(日本皇国、アイヌ王国、琉球王国など帝国構成国全て)、タイ王国、ハワイ王国、インドネシア連合王国、諸部族連合、満州帝国、チベット法国、イラン王国に及んでおり、さらに英連邦だったオーストラリア連邦共和国、大インド連邦自治国、マレー自治共和国もオブザーバーとして名を列ねていた。そしてオーストラリアの動きは、オーストラリアで国民の大多数を占める日系人主導の政権による対アジア重視政策の結果だった。


九  大恐慌と中華大陸