九. 大恐慌と中華大陸

 第一次世界大戦の惨禍が世界平和への機運を呼び、これに後押しされた各種国際条約により、列強間の軍拡などを原因とする世界規模の戦争の危険は当面去ったが、それだからこそ列強間の経済競走は激しくなり、その中でも、当時世界最後の巨大市場と言われた中華大陸での各国の利権争いが激化していた。
 また、これも第一次世界大戦の影響だが、この大戦争で著しく生産力、経済力を拡大した国々、つまり太平洋諸国は戦争中こそ未曾有の好景気に沸き返ったが、戦争が終われば欧州が勢力を巻き返すのは当然で、いかに戦中の経済的アドバンテージを持っていようと、いずれ振り子が揺り返されるのは道理だった。
 そして日本が帝都を襲った大地震を機に、大規模な内需拡大政策へと転換したのと対照的に、アメリカは大戦中と変わらぬ大量消費型景気拡大路線を維持し続け、これが実体のない株への投機熱を生み、一九二九年の株価大暴落という人災を発生させる。
 世界大恐慌と言われる大事件だ。
 この事象により、アメリカの最も繁栄したのが、彼らの祖国統一から大恐慌の間と歴史家は判断しており、もしこの恐慌での傷を小さなものとできたのなら、一世紀はアメリカは繁栄でき、パックス・アメリカーナの時代が訪れただろうと多くが結論している。
 
 そして大恐慌の原因は、未発達な経済観念と市場原理しか持たない資本主義社会の一つの末路と言える状態だったが、その影響はある意味戦争よりも大きな傷を列強各国に与える事になる。
 特に震源地だったアメリカのダメージは大きく、時の大統領フーバーは数年前の日本のような大規模公共投資でこれを乗り切ろうとしたが、恐慌の規模は彼らの想像を絶しており、短期的な景気回復に失敗したアメリカは、未曾有の不景気に突入する事になる。
 このため、祖国統一後急速に工業力を拡大し、世界の三分の一の生産力にまで達したと言われた数字は、その七十パーセントにまで下落する事になり、街は失業者で溢れ、銀行は倒産し、アメリカ全土が社会不安に襲われる程だった。当時の世界の識者は、この時アメリカで革命が起きなかったのは一つの奇蹟だとすら言った。
 一方、英国、フランス、日本など自らの勢力圏内に大規模な市場を持つ列強は、ブロック経済と呼ばれる自勢力圏を強大な関税障壁で押し囲み、不況の悪影響を自分たちだけは最小限に防ごうとし、さらに日本などは恐慌以前の大地震後の公共投資、政府主導経済、通称「護送船団方式」の経済発展路線を継続し、この恐慌の中にあってもこれを維持して見せ、北海道、満州開発などもありいち早く景気回復に成功している。
 また、日本と英国は互いに市場が重なっている事と深い同盟関係にある事が重なり、それぞれの関税の壁を少し下げることである程度連携し、第一次世界大戦後日本と結んだ貿易協定を維持していたドイツがこれにぶら下がり、不景気の大攻勢に立ち向かう形を作り上げていた。
 要するに不必要なまでに巨大な生産力を持つくせに未成熟な金融力と市場しかないアメリカを世界市場から締め出す事で、伝統的資本主義社会を再生しようとしたのだ。また、この形は後の日英独三国枢軸への大きな布石となっている。
 そして、大きな市場を持たない国の中でも、特にイタリア、アメリカは大きな社会不安に襲われ、イタリアはファシズムへと傾倒しムッソリーニ時代を迎え、アメリカはニューディールと呼ばれる全体主義的経済改革を旗印にしたルーズベルト時代(一九三二年〜一九四三年)を迎える。
 次なる混乱の始まりだった。
 そして、その混乱は世界最後の市場、中華大陸で激化する。

 二十世紀、特に日露戦争後、中華辺境の満州地方に大きな影響力を持っていた日本帝国は、一九一一年の『清』帝国滅亡後も同地域の影響力を強く保持するため、その頃から世界的に噴き出しつつあった民族自決主義をかかげ、満州地方に中華大陸とは別の自治組織として『清』王朝の末裔を首班とする中華中央から切り離された新国家の建設を進めていた。これは第一次世界大戦後には、英国などの後押しもあり国連でも認められ、一九二二年には、十年後をめどに正式に独立する所まで話が進んでいた。
 この時の日本の、旧大国である『清』帝国は事実上の多民族国家で、オーストリアやトルコ同様それぞれの地域に民族自決国家を樹立すべきだという意見がこれを後押しし、この理論に自らの利益を見いだした列強がこの流れを作り出したのだ。
 しかし、一九二〇年代後半に入ると、自国以外の市場を持たないが故に際限なく世界中に市場を求めるアメリカが同地域に露骨な経済的進出を行ってきており、さらに一九二九年の大恐慌以後その傾向を強め、ついにはアメリカ資産の保護を理由に軍の派遣にまで及んでいた。アメリカは国連には参加していないのだが、明らかな国連規定への違反だった。いや、国際常識を無視した行為と言ってよかった。そこは、既得権益的見方をするなら日本人達の縄張りであり、アメリカの行為がまかり通ればそれは欧州主導外交の崩壊を意味した。
 当然日本政府は、アメリカと政治的交渉を重ねたが、アメリカは自国の「万里の長城」と言われた関税障壁などを完全に棚に上げ、ダブルスタンダードな中華市場開放を表面的な美辞麗句で飾って言い放つばかりで、日本政府が譲歩案を出そうとも全く解決の糸口はなかった。
 当然、日系社会のアメリカ憎しの感情は、燃え上がりつつあった。
 しかも、一九二八年には、明らかにアメリカの影が見える満州自治政府要人に対する暗殺が行われた。
 政府はそれでも、話し合いによる解決を望もうとした。それこそがアジアに求められている筈、中華地域に安定をもたらす筈だったからだ。しかしアメリカの列強を無視するかのような強引な外交展開と、中華民族内部の国際条約全てを無視する行動が全てを無駄にしていた。
 これは、この時の日本の行動を欧州の過半の国が同情的に見ていた事からも、当時の日本がいかに当時の外交原則を守ろうとしたかが伺い知れる。
 しかし、日本政府のこうした態度は内に大きな火種を抱える事となった。
 アメリカの横暴と中華勢力の不作法、そして自国政府の弱腰(と彼らは見た)に業を煮した、戦略家を自認する軍人を中心とする現地日本陸軍と半世紀に渡る近代化の末日本追従こそが国是となっていた隣国の大韓帝国軍が策謀し、現地の軍閥、満州政界の重鎮張作霖と共謀しアメリカの影響が強くなった政府による完全独立直前に軍事クーデターを引き起こし、違った形での満州国家を作り上げた。
 満州事変の勃発と満州帝国の成立である。
 無茶を重ねていたアメリカは、自らの行いをこれ以上はないぐらいのしっぺ返しで報われてしまったのだ。

 国家そのものは、それまでの国家建設に則した形で、『清』帝国最後の皇帝溥儀を君主とする立憲君主制を布いており、ほぼ完成していた憲法と議会を持った形態として民族自決国家であって、クーデター政権もこれらを全て採用したが、対抗勢力放逐の為に事実上のクーデターによる軍事独裁国家として成立させてしまった事が国際的に問題となった。また、そうした事から法的には、まだ形式上は中華民国の領土内である事もまた大きな問題だった。
 少なくとも、アメリカはそう言い立てた。もちろん、全ての外国勢力が気に入らない中華中央政府もこれに倣った。それが彼らの伝統的内政戦略だからだ。
 しかし日本皇国は中華政府については、当時すでに中華ソヴィエト(中華共産党)と対立していた国民政府(国府軍)と取引して口を封じ、満州の武力政変とその後の満州帝国の建設を黙認させてしまう。これは、国民政府が日本より大量の武器援助を受けていた事が効いていた。当時、日本無くして彼らの中華地域での勢力拡大は、当時ありえなかった。
 それに中華民国政府は、他にも『清』帝国崩壊後、大英帝国やソヴィエト連邦など列強の後押しを受けて自治独立を積極的に押し進めているウイグルやチベットや、中華共産党への対応で手一杯だった為、日本側の強引な行動を黙認せざるを得ないと言うのが実状だったと言うのも日本の有利に働いていた。
 被害者が何も言わないし、国連を構成する主要国も積極的に動こうとしないので、国連、そして列強は何もする事なく、ただこの日本と韓国の暴挙を見守るしかなかった。だいいち国連は、この地域の国家の建設を既に認めていたし、国際的にも満州地域は日本の勢力圏だと認知されていたので、そのまま既成事実として黙認される事となる。また、英国はエジプトで、アメリカはパナマで似たような事をしており、他の列強も似たり寄ったりな政治的状況で、強大な軍事力と経済力を持つ日本だけを非難するという事など出来る筈もなかった。
 時代はまだ、帝国主義の影を引きずっていたのだ。
 なお、自分に都合の良い民族自決政府を作り上げるという政治的行動は、二十世紀初頭に英国が自国植民地で始めた事で、第一次世界大戦後各国が採用するようになっている。
 つまり、満州での日本の行いは、結果として当時の政治的スタンダード、欧州外交の延長でしかなく、これを完全に否定することなど誰もできなかったのだ。
 なお、満州帝国の建国は、帝国内ではアイヌ王国を始めとする各国が日本皇国と運命協同体であったのでこれを承認、歓迎し、同じく同盟状態にありチベットの分離独立を押し進めていた大英帝国もいくつか条件は付けたが承認、他も似たり寄ったりの列強外交を展開し、ただちに大使館や領事館を開設した。そして、全ての利権を失ったアメリカ連合だけが異を唱えたが、その声も国内の先に不景気を何とかしろという声にかき消され、アメリカ政府は暗い感情を溜めつつも、その矛を一旦収める事になる。

 しかし、日本皇国は、以後間違った方向に勢いのついた軍部、特に陸軍が中心となってその後も大陸進出を半ば独断で強化し、中華大陸、韓国、内蒙古、蒙古へとその影響力を強引に拡大していく事になる。そして、それは当然現地国家など他勢力との衝突を引き起こした。特に中華大陸各勢力、ソヴィエト連邦とは激しく衝突し、後に武力衝突という事態にまで発展する。
 また、アメリカを主とする列強も、一九三〇年代の日本の露骨な対中華政策に次第に警戒感を強め、日本政府に対する不審を強くした。これは同盟関係にある英国ですら例外ではなかった。
 そしてこの日本の動きは、中華中央の目を北に向けさせないという目的のため、この後中華大陸華南地域での中央からの離反運動を陽に陰に支援し、一九三〇年代には華南一帯を自治独立地帯へと育て、中華の完全分裂を演出していく事となる。
 ある意味本末転倒した行動だったが、その後百年の歴史に与えた影響は絶大だった。

 ちなみにこの時期、一九一〇年代から一九三〇年代にかけて日本とその構成国は、中華大陸とその周辺地域への多数の武器輸出により莫大な外貨を獲得しており、鉄鋼、機械産業を中心とする重工業基盤のさらなる拡大がなされ、この時の国富と生産設備の近代化・大規模化がアメリカ連合を圧倒していく国力の源泉の一部となっている。
 北海道や満州の発展も、中華大陸の混乱があってこそだったのだ。
 そして、この日本軍部を中心とした膨張政策は、日本陸軍の大粛正まで続くこととなる。


十  暗雲到来