一. ラテン的戦争計画

 10月24日、一時期は中止が決定された東洋で初めての人類の平和の祭典「第12回・東京オリンピック」は、無事東京国際陸上競技場で平和理に閉幕式を向かえた。その間、人々は二週間の夢の競演に驚喜・興奮したが、オリンピックが終わると、そのままエキゾチックな魅力に溢れた日本各地に観光に出かける者、日本に臨時寄港していた豪華客船に乗り直して次なる目的地へと旅立つ者など一部を除けば、急ぎ帰国していく者が圧倒的多数で、人々は祭りの終わりと共に以前の生活へと戻り始めていたのだ。
 そして、オリンピックの閉会と共に、最も忙しく動き回り始めた各国の組織と人々がいた。
 政治家と軍人達だ。
 そう、一時の平和は終わり、戦争の夏が世界に訪れようとしていたのだ。

 舞台の幕は、年が明けるが早いか西ヨーロッパから上がろうとしていた。
 脚本を書いたのは、協商側。
 なぜ彼らがそこまで心理的に追いつめられたのか、後世から見ると大いに疑問を感じ、ある種の滑稽さすら見えてくるところだが、当時の為政者にとって日英独による反共枢軸、フランス、イタリアの視点から見える「三帝同盟」の圧倒的国力と存在感こそが、彼らをして性急な戦争に駆り立てたと見るべきだろう。
 確かに全海洋の80%以上、世界の半分近い大地をその勢力圏におさめた三帝同盟の脅威は、そう感じさせるに十分だったのかも知れない。
 そして、三帝同盟に対抗するための切り札だったアメリカ連合を、消極的な形でしか自陣営に取り込めなかったフランス、イタリアを中心とする協商側の戦争計画は、枢軸側、正確にはイギリス、ドイツに対する基本的国力の差から短期決戦的なものとならざるをえなかった。いかに楽天的なラテン民族たちと言えど、日英独を主軸とする枢軸同盟との国力差は笑って済ませる訳にはいかなかったのだ。
 しかも、三国協商の中でも最大の国力を誇るヨシフ・スターリン率いるソヴィエト連邦は、先年の北欧に対する軍事的冒険の失敗以降、政府首班本来の姿と言える猜疑心に満ちた消極的政策を展開するようになっており、国内的な権力の維持の為にフィンランドで失敗した軍人達などにさらなる粛正を推進したり、対外的にも防衛的な政策取るばかりで、他の二国からの大きな失望を買うだけでなく枢軸同盟は祝杯すらあげたと言われた。
 また、スターリン率いるソ連が低調な理由の一つに、第一次世界大戦とその後の混乱により立憲国家として再スタートしていたドイツ立憲帝国があった。

 第一次世界大戦後、不用意な大戦争を引き込んだカイザーに全権を委ねることに不安を感じた民衆により、ヴィルヘルム2世は事実上の退位をさせられ、1922年にその息子のヴィルヘルム3世を君主とし、憲法の大幅改正により立憲君主国として再出発していたドイツ立憲帝国(これを第三帝国と言う史家もいる)は、英国、日本を始めとする海洋覇権国家との平和・協調外交と、独自の経済政策で大戦後多数の独立国が誕生した東欧地域を政治、経済的に取り込む事に成功し、このドイツの外交の成功と反共政策を採る世界の海洋の大半をコントロールする大英帝国と日本帝国の思惑により、彼らの影響圏から資源を比較的安価でかつ安定して供給を受けられるようになり、また日本の有する経済ブロックの一部となることでニューヨークを震源地とした世界恐慌も何とか耐え抜き、日本をパイプとして支那動乱につけ込む形で兵器輸出を行い、平行して自らの軍備の近代化も実現、1930年代後半には再び中欧の大国、世界の列強の一国として浮上しつつあった。
 つまり中欧の大国ドイツの国力が、工業力・経済力・軍事力を中心として日々増大(復活)しつつあり、元々国力で劣る協商側が欧州において日々不利になる事は明らかだったのだ。
 そして1936年に世界恐慌の後遺症がまだドイツ国内に色濃く残るさなか成立した、戦後から恐慌の混乱の中から急速に隆盛した国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)から選出された芸術家出身の宰相アドルフ・ヒトラーによる一種の挙国一致内閣は、戦後の混乱につけ込む形で勢力を大きく拡大しつつあったドイツ共産党を危惧する国民の大多数と民主政党各派を、その巧みな弁舌とカリスマ的政治力を持って大同団結させることに成功し、その強力な指導力の元いつくもの大規模な公共投資を実施し、経済と軍備を完全に立て直す事に成功していた。
 特にドイツに400万人いると言われた失業者を、たった数年で50万人にまで減少させた事は「ドイツの奇跡」として世界中から賞賛され、アドルフ・ヒトラーというそれまで全く脚光を浴びることの無かった政治家の存在を歴史に刻印する事になる。
 またヒトラーは積極的な外交も展開し、ドイツ生存権の防衛をスローガンに英国との防共協定を結ぶと、これを経済的結びつきが強く同じくソ連を強く警戒する日本を引き入れる事で拡大した。
 この時の枢軸同盟締結は、彼なくしてはなし得なかっただろうと言われ、彼の優れた外交手腕も世界に見せつける事になった。
 そしてヒトラー宰相は、公約通り3年でドイツ経済を立て直しドイツの国際的地位を高めると、国民から惜しまれつつ次の宰相に後を任せ勇退したが、ソ連がドイツから感じるプレッシャーは極めて大きいものとなっていた。
 ちなみに、この時ヒトラーが権力の座に固執しなかった事が、世界からの彼の評価をより高いものとしている。

 話が少し逸れたが、欧州でのドイツとソ連の動きによりその後の歴史的流れは大きく進路を変える事になる。これが如実に現れたのが、協商側の戦争計画だったのだ。
 フランスとイタリアが中心となった対枢軸戦争計画の基本は、開戦当初の奇襲攻撃で英独海軍及び空軍戦力を一時的にある程度無力化した後、自らの空軍と海軍のあらゆる洋上攻撃戦力を投入し、英国本土と英国大艦隊を牽制(世界最強のイギリス海軍を撃破できるとはさすがに考えていなかった)している間に、協商側陸軍の総力を挙げて、三方向からドイツ帝国になだれ込み、短期間でドイツを葬り去る事が最重要戦略とされていた。これは、仏伊とソ連がドイツと東欧により完全に分断されていた事から、なお一層重要と見られていた。当然だが、この方針にはスターリンも大いに賛同し、戦争準備を行う旨を仏伊首脳部に秘密裏に伝えてきていたと言われる。
 そして、次の段階として、対ドイツ戦終了で余剰となった戦力を順次転用し、イギリスの生命線である地中海、中東の英勢力圏に侵攻これを制圧し、最終的にはスエズ運河とペルシャ湾を押さえて欧州とインド洋、太平洋枢軸各国との連携を絶ち、同時に通商破壊と爆撃で英本土を疲弊させ、さらに資源供給ルートを絶たれたイギリスが疲弊しきった段階で、その間に十分に準備した上で、協商側の総力をあげてイギリス本土に侵攻、ロンドン占領によって講和を持ちかけ、戦争に幕を引こうと考えられていた。
 ここまでに要する時間は2年間。
 これなら、後込みするソ連も文句ないだろうという、ラテン的楽観主義が生み出した作戦計画と言えるかも知れない。

 ただし、統計数字などから算出されるフランスとイタリアの国家としての戦争遂行能力、正面戦力差を考えれば、無謀としか言いようのない戦争計画だった。
 つまりこれは、戦争で主戦力を担う事になるソ連を戦争の表舞台に引き出すための苦肉の策であり、枢軸側との外交関係が決定的に悪化していた二国にとって、これしか生き残る道はなかったと判断された事から選択されたものと言えるかも知れない。また、協商側、特に仏伊にとり、国力的に長期にわたる戦争を乗り切る国力はなかった事も、短期決戦を目指した無理な戦争計画を立案させたと言えよう。
 これを現すものとして、当時のフランス国防大臣の「1年や2年なら大いに暴れて見せよう」という言葉のがある。つまり、それ以上の長期戦は現場としては保証出来ないと言う事だ。
 なおこの計画では、枢軸国のもう一つの柱であり、実質的に枢軸側最大の国力を誇る日本帝国に対しては、何と協商に加盟すらしていないアメリカ連合に期待するという以外、ドイツ屈伏の後のソ連による局地的な極東侵攻が考えられていただけで、あまり具体化はしていなかった。
 この事からも、あまりにもずさんな戦争計画と言えるが、その理由は言うまでもなく、アジア・太平洋は欧州から介入するにはあまりにも遠い場所であり、仏伊程度の国力では到底日本本土に侵攻できるような力がなかった事が理由としてあげられるだろう。

 なお、協商側の行動開始は、ソ連陸軍の近代化が終了する1934年夏を予定しており、彼らの計画では戦争は2年程度で終了するはずだった。そして、この戦争計画で2年と言う戦争期間だけが、彼らの予定と合致したものとなる。
 なぜなら、この計画は殆ど実行に移される事はなく、それより早く枢軸国側が先に行動を開始したからだ。

◆二. 地中海戦線異常アリ