二. 地中海戦線異常アリ

 オリンピック前後からの協商国側の性急な動きを、大英帝国の誇る情報部(本来はそんな言い方はしないが)により正確に察知していた大英帝国政府は、極秘にドイツ帝国と日本帝国に連絡を取り、早急に対策を立てることとした。
 しかし、答えは簡単だった。
 これまでは、世界規模でお互いが相手の背後を狙えるという地理的条件を利用して適度に軍備を増減しつつ睨み合い、いわゆる『三竦み』の状態を作り上げることで均衡を保ってきたのを、協商側が先に崩そうと云うのだ。
 『やられる前にやるしかない』。彼等の結論はそれだった。
 幸い軍備の方は、海軍休日終了と共に開始した各国の軍備拡張の初期計画が達成されつつあり、また工業力の圧倒的な優位もあり先制できる程度には戦力を揃えられそうだった。それにフィンランド方面での本格的戦いに備えてオリンピック休戦の前から行っていた準動員体制を、実質的に解除していなかった事も軍事的優位をある程度は保証していた。
 特に、オフレコで進めていた各種兵器・弾薬の製造状況、工場の拡張工事完成の報告は、枢軸各国の政府を強気にさせていた。
 さらに、協商側で最も巨大な軍事力を有しているソヴィエト連邦は、巨大であるがゆえに少なくとも一九四二年夏まで能動的行動ができる状態にないはずだったし、スターリンの恐怖政治と軍部に対する徹底した血の粛清で、ソ連赤軍は全面戦争どころでないと分析されていた。また、協商の準構成国であるアメリカ連合は、全体主義的なニューディール政策により景気が上向いたと言われていたが、折からの孤立外交主義と自らが呼び込んだ未曾有の不景気、枢軸各国による世界(武器)市場からの締め出しが影響して、依然として不景気の中でのたうち回っており、武器製造分野などにおいて戦時体制への移行は列強の中で最も遅れていると見られた。
 もっとも、戦時体制の移行の遅延は、オリンピックに全力を投入していた日本帝国にも当てはまる事だったが、アメリカ同様当面の戦場でない事、日本の国力と正面戦力が基本的に大きい事から憂慮はする必要はないと判断された。また、日本の当時の常備戦力は、国力と人口の多さから列強でもトップクラスであり、防衛戦争ならどうとでもなると考えられていたのだ。
 こうした事から、枢軸同盟が欧州正面だけでも事態を収拾しておいたほうが楽だと考えられたのは当然の結論だろう。しかも、この場合英独の相手は、フランスとイタリアとなる。国力的、工業力的に見ても英独の単独であっても圧倒できる相手であり、現有戦力でもそれ程苦労せずに勝利が掴めるであろうから、彼らに先に手を出させて戦争の正義を確保した後、それを口実に米ソが介入出来ない程の短時間で撃破して欧州全土を安定させ、その後自分達も体制を整え米ソの行動を抑止する、もしくは反撃に備える、さらに状況が許すならばこちらから打って出ようという大方針が決定された。
 国際的責任感の全くない経済大国や、独裁者の支配する共産主義に対しては、消極策こそが自らの不利に働くからだ。

 この方針に基づき枢軸国が先に行動を開始した。
 まず、米ソの目を欧州正面から逸らすために、日本帝国を主体とする亜細亜諸国が太平洋、シベリア方面に難癖を付けて兵力を著しく増強し彼らを牽制している間に、英独がラテン連合を粉砕する為の準備が入念に行われた。このための準備はオリンピック中に極秘に行われ、協商側が動き出す兆候を見せたとたんに実働させる予定になっていた。
 また、開戦には最も挑発に乗りやすいであろうファシズム国家イタリアを、彼らのテリトリーの近くの北アフリカかバルカン半島に手を出させる事とされた。もちろん、彼らを故意に追いつめるため、エチオピア戦争やスペイン内乱などでの彼らの行動に難癖をつけて貿易の凍結などの政策が次々に実行された。特に、東京オリンピック閉会後一ヶ月頃から、その強硬外交は激化した。
 さらに、イギリスはギリシアに対し、イタリアのアルバニア併合の影響波及を阻止するためという理由をかざし軍事援助を開始した。しかも最も相手を刺激することとなる陸軍の派遣もあえて表だって行い、その兵力をこれ見よがしにイギリス本土から派遣した。さらに英連邦構成国最大の工業力と軍事力を持つオーストラリア連邦からの艦隊を含めた軍事力の派遣も要請し、インド洋・地中海方面の戦力を増強した。すべてはイタリアを刺激して先に手を出させる為だった。
 そして、絵に描いたようにこれにいたく刺激されたムッソリーニー総統率いるイタリアは、フランス、ソ連の援助の約束を取り付けてから地中海、北アフリカ方面で予防戦争を行なう決心をする。
 このイギリスの一連の行動に、フランス、ソ連も枢軸国の戦略がまず地中海の制海権と勢力圏の確保と自分たちの完全な分断であると判断し、同方面に兵力を向ける準備を始め、イタリアの援助要請にもとづいて一部兵力の派遣を決定した。
 さらに遅蒔きながら動き出したアメリカ連合も、日本の挑発的動きに対応して太平洋方面に戦力を増強しつつ、枢軸側の好戦的な動きを激しく非難し、英国のギリシャ派兵を明らかな戦争行為だとして(協商側の動きは全く非難されなかった)、枢軸同盟から共和主義を守るためとして協商各国を物的に援助する法案「海外物資援助法(レンド・リース法)」を可決した。
 そして、物資援助とは明確な軍事行動であり、これに気付いていないのはお目出度いアメリカ市民諸君だけで、このアメリカ政府の法案可決は事実上の協商正式参加表明であり、軍事的に首を突っ込む事を宣言したに等しかった。

 この協商側の反応に枢軸国陣営は、それぞれの司令部で祝杯を挙げた。彼らはまんまと我々のワナにひっかかったと。確かに地中海方面の勢力圏の確保も重要な作戦だがそれは二次的なもので、本命は西ヨーロッパ正面にあったのだ。
 『ケース・イエロー』。ドイツ参謀本部が立てた対フランス侵攻作戦である。
 この作戦に基づいてドイツは、この一連の枢軸各国の謀略的行動の間、対ソ連の為軍隊を東方国境付近に集中しているという欺瞞を行いつつ、対フランス侵攻の準備を行なっていたのだ。
 しかし、彼等に与えられた時間は、ソ連がドイツ・東欧侵攻のための即応体制を整える最低限の時間であるたったの二ヵ月。それだけの短時間でフランスを征服しなければならなかった。いかに決定的瞬間にイギリス本土からの援軍が、大挙してドーバーを押し渡ってくるとは言え、この作戦は当初無謀と思われた。
 だがこの作戦は、この作戦を支持する今は名目的な君主となってしまったカイザーに変わって政府を主導するようになった宰相、当時、戦時挙国一致内閣の首班として再び宰相に就任したアドルフ・ヒトラーと、この作戦の主役たる機甲軍団の関係者たちが強く推し進めた。
 余談だが、このヒトラー宰相は、ビスマルクの「鉄血宰相」になぞらえ、その熱狂的な演説スタイルから日本では「熱血宰相」と言われた。

 そしてついに一九四一年四月、英独の挑発的な動きに痺れを切らしたイタリア・フランス連合軍が、エジプト、ギリシア侵攻を開始した。
 当然、このイタリア、フランスの暴挙を枢軸国陣営は激しく非難し、イギリス、ドイツ、日本などは、二十四時間以内に撤退が行なわれないならば宣戦を布告すると宣言した。
 第二次世界大戦の勃発である。
 エジプト戦線は、双方の戦前の予測を裏切り、機動力に優れた少数のイギリス軍が、歩兵主体の旧態依然とした大軍だったイタリア・フランス連合軍のダラダラした平押し攻撃を後目に大規模な包囲殲滅戦を展開し打ち破り、伊仏北アフリカ軍団主力は何もしないまま30万人もの捕虜を出して壊滅、事後若干の援軍を受け取った英エジプト軍団は、防衛戦力すら失った伊仏軍を圧倒しつつリビアへと雪崩れ込んだ。
 また、シリアにあったフランス軍は、戦前から英国軍による事実上の海上封鎖にあっていたため、開戦後も物資の不足と補給の途絶から行動を起こすことが出来ず、しかもイラク、アラビア半島、トルコなど四方を敵に囲まれている状況から防衛体制を敷いたまま積極的に動くことは遂になく、後に枢軸各国の軍が侵攻するとすぐに降伏する体たらくを見せていた。

 この予想外の戦況に協商側は、慌てて各地に援軍を派遣し、その護衛のための積極的な海上での活動も開始する。しかもその戦力は、本来は対ドイツ戦に使われるべき機動力に優れた戦力であり、これは遅ればせながら仏伊が砂漠で必要な兵科がなんであるかを理解した証拠だったが、あまりにも泥縄的な状況でもあった。
 そしてこの事から協商側はまだ楽観していたと見られている。つまりは、仏伊の海軍主力の展開している地中海、少なくとも自国近辺海域は自分たちの海だから、まだまだ増援を送り込めば巻き返しは可能だとし、まずは尻に火がついているのを消さなければ、対ドイツ戦など思いもよらなかったという事だろう。
 だが、協商側が楽観していた彼らの制海権は、既にイタリア全海軍に匹敵する規模で、エジプトのアレキサンドリアを中心に展開していたイギリスの闘将カニンガム提督率いる地中海艦隊と、新たに編成された知将ソマーヴィル提督のジブラルタル部隊、通称「H部隊」の積極的な作戦展開により大きく阻害される事になる。
 これは、開戦間もない頃、新兵器であるレーダーの積極使用によりイタリアの巡洋艦隊が、英国海軍の前に一方的に粉砕された事に象徴されており、英国海軍が他の欧州海軍とは明らかに格が違うことを世界に印象づけた。
 さらに開戦からすぐ後に、海上交通破壊のエキスパート集団であるドイツ潜水艦隊が、地中海枢軸空軍全軍の支援のもと作戦を開始する。
 当初投入された戦力は、英国の潜水艦隊も含めても、数個戦隊に過ぎなかったが、協商側の稚拙な対潜戦術の前に大きな戦果を上げ、協商側の北アフリカを結ぶ水上交通線は完全に封鎖された状態となり、平行して行われた水上艦によるシーレーン破壊も重なって、協商側は短期間で地中海でのシーレーンを完全に喪失し、何度かの小規模・中規模海戦の敗退を境に協商側海軍は枢軸側海軍に全く手も足もでない状態となり、フランスとイタリアは、早期に自らの植民地の過半との連絡まで絶たれる事となり、英連邦軍主導によるマダガスカル攻略を指をくわえて見るしかなく、またエチオピア王国を征服した筈のイタリア軍も終戦までには全てが降伏し、戦後亡命していた王族によりエチオピア王国も再興される事になる。

 そして、協商側の船舶が比較的安心して航行できる海域が、それぞれの空軍の支援が受けられる本国近海のみとなるまでに要した時間は、開戦からたったの五ヶ月にも満たなかった。
 それでも伊仏海軍は、北アフリカの友軍を維持するための輸送船団を繰り出し、増援部隊を運び、制海権を奪回するため、機会を見て海で空で果敢に枢軸軍に戦闘をしかけた。
 だが、この一連の戦闘でイタリア海軍は、潜水艦や駆逐艦までも無理な補給作戦に使用する事で自滅するように消耗を重ね、開戦時世界5指だった海軍は、その半数が枢軸海軍の前に海の藻屑と消えることになり、フランス海軍もブレスト軍港を海上封鎖され、地中海の艦隊主力は嫌がらせのような枢軸側の空襲の前に小さな損害を蓄積し短期的作戦能力を喪失、その代価として枢軸海軍が払った犠牲を考えると納得のいく損害ではなった。
 特に中部地中海最大の要衝マルタ島を巡る攻防では、不利な筈の英国軍が統制の取れない攻撃を繰り出す仏伊軍の攻撃をくい止め、英本国からの増援が来るまで持ちこたえた事は、この戦線に大きな影響を与えた。なぜなら、マルタを枢軸側が保持し続けた事により、ついに仏伊軍は地中海の制海権、制空権を握る事ができなかったからだ。

 その間、エーゲ海や東地中海の制海権確保のため、遠くオーストラリア連邦からアッテンボロー提督率いる大型戦艦や空母を含む強力な遣欧艦隊が来援し、ボスポラス海峡を突破し協商側の勢力圏に居座るソ連義勇艦隊を牽制しつつ、枢軸軍の地中海東側面を固め、英地中海艦隊と共同で作戦行動を行い枢軸海軍の一翼を担っていた。
 そして、そうした海上の戦況を反映するかのように、協商側地上軍も枢軸軍に輸送線を破壊されたため、思うようにアフリカに援軍が送れないばかりか、現地の兵力、物資ともに欠乏するようになり、徐々にじり貧となっていた。
 だが、これは枢軸軍もフランス戦線が片づくまで本格的な、増援が送れない事から、陸上では小康状態がしばらく続くこととなる。
 また、後にモロッコのカサブランカへとやって来たアメリカの義勇船団が来援するようになっても、投入された米義勇軍自体の規模が大きくなった事から、補給物資に関する事態はあまり改善しなかった。なぜなら、その後続いた米義勇船団多くも、まず北大西洋でドイツの誇るUボートを始めとする枢軸軍の豊富な通商破壊部隊との対決を余儀なくされ、その多くが餌食となったからだ。
 ちなみに、アメリカ義勇船団というのは、一度アメリカ軍籍を離れ、個人の契約でフランス、イタリアに軍艦や装備ごと雇われた傭兵であり、アメリカ本国とは関係ないものとされた、事実上国際法を無視した米国の政策により誕生した組織である。米国との全面戦争を恐れた枢軸側もこれを黙認する事となった。もっとも、容赦もしなかったが。
 そして海の狼の昔の好敵手、イギリス本国艦隊とドイツ大海艦隊が対フランス侵攻部隊の上陸作戦から開放されて地中海に派遣され、それまで地中海の守護者として活躍していた英豪地中海艦隊と共同で本格的な攻勢を開始すると、それまで何とか戦線を維持していた現地フランス、イタリア海軍は一瞬で崩壊した。特に逃げ遅れた、否逃げる場所のないイタリア海軍はこの一連の海戦で多数の艦艇を失い、実質的に実働艦艇の大半を失う大敗を喫した事が、祖国の降伏を早めたのは間違いないだろう。
 さらに、この仏伊の窮状を援護する為、アメリカの技術援助で再建なったソヴィエト黒海艦隊が、アメリカ同様、義勇艦隊として地中海戦線にようやく参加したが、戦力、練度で遙かにまさる枢軸海軍の敵ではなく、米国の援助で建造されたスターリン御自慢の新鋭戦艦も、枢軸海軍がくり出したそれまでの海の支配者である十二使徒を中核とする海空の立体的攻撃を主軸として繰り返される波状攻撃の前には、ただの生け贄に過ぎなかった。だが、宗教を否定した国の戦艦を使徒の名を冠された戦艦が撃沈するとは何とも皮肉と言えよう。
 ちなみに、枢軸側の補給線遮断のため東地中海をかけずり回って枢軸海軍を一時的に翻弄した、ソ連義勇艦隊旗艦ソビエツキー・ソユーズを最終的に撃沈したのは、ドイツの「ビスマルク」とイギリスの「フッド」、「インヴィンシブル」だった。また、ここで航空機がソ連戦艦に有効な打撃を与えることに成功し、日本帝国が推進しつつあった航空主兵主義を裏付けるものとなり、日本の海軍関係者の自信を深くさせる事にもなっている。

◆三. ケース・イエロー