三. ケース・イエロー

 本来主戦線であるべきと思われた独仏国境にあたる西部戦線は、開戦当初は双方の偵察機が時折領空侵犯、その迎撃に戦闘機が出撃する程度で、とても交戦国同士が国境を接しているとは思えないものだった。一部では『ポニー・ウォー(偽りの戦争)』と言う声すら聞こえていたぐらいだったのだから、当時の状況が推し量れると言えるだろう。
 それは、第一次世界大戦の惨禍を知る人々にとっては全く拍子抜けするものだった。
 確かに、フランス側は「マジノ線」、ドイツ側は「ジークフリート線」と呼ばれる要塞地帯を双方の国境一帯に建設し、その双方が不完全なものながら、これこそが両者の本格的戦争を阻んでいると、世界中の誰もが見ていた。

 しかし、一九四一年五月一〇日午前三時十五分、ひそかにドイツ国境を越えベルギーとの秘密協定によりベルギー国内の森林を通過したドイツ軍の大機甲部隊が、フランスが思い描いていた通りの進撃経路を使ってフランス国境を突派する事で、唐突に戦争の舞台の幕は上がる。
 始まりは、第一次世界大戦のドイツ軍の作戦計画「シュリーフェン・プラン」と全く同じだった。ただ、その進撃速度はフランスから見てのベルギーの裏切りにより極端に違っていた。何しろドイツ人達は、ベルギーをベルギー人の案内を受けながら素通りしてきたのだ。
 いや、ベルギー軍もベネルクス三国共々ドイツ軍と共にフランスの国境を越え、フランス領内に砲弾を撃ちかけてきた。
 ちなみに、この度のこのベネルクス三国との密約はドイツ一国では到底不可能なため、イギリスが調整を行っており、このフランス戦よりベネルクス三国も枢軸側に立って参戦し、パリ包囲戦の頃には、オランダやベルギー軍も前線に参加していた。西欧の多くが、フランス共産党政権に正義無しと見ていた、もしくは為政者達が協商側の、資本主義社会にあるまじき不可思議な政治形態を恐れていたと言えるだろう。

 なお、ドイツ側の作戦立案当初、マンシュタイン将軍が私的に提出していたアンデンヌ地方の森突破作戦が、奇襲という軍事作戦で最も重要な要因から有効と参謀本部では考えられていたが、ベネルクス三国との協定によりベルギー、ルクセンブルグ王国領内を安易に戦場しかねない作戦を採用する事はできなくなり、この影響もあって雪辱戦とばかりにあえて前大戦と同じ進撃経路が取られることとなった。
 そして、作戦を前大戦と同じとしてなお、ドイツ軍に自信を与えていたのは、彼らの持つ新たな力、戦車を中心とした大規模な機械化装甲部隊と空軍の存在だった。
 一方フランス軍は、先の大戦と同様ドイツがまた同じ手を使うの可能性が高いと見ており、陸軍の主力をベルギー国境付近に待機させ、急造の防衛線(要塞線ではない)の構築は行っていたが、ベネルクスの裏切り(フランスは当初ベネルクスは中立を保つものとタカをくくっていた。)で、ドイツ軍がそれこそ瞬く間に無防備とも言えるフランス国境に殺到して来たため、その後の防衛計画は、またも後手後手に回ったものとなる。
 しかも、ドイツ軍の進撃を全く止められないばかりか、その進撃速度の速さの前に後方の司令部は、前線が今いったいどこにあるのかさえ掴めていない始末だった。
 そしてここに、この時期のフランス陸軍の弱体を見る事が出来る。
 フランスは第一次世界大戦後、総力戦による膨大な数の戦死者発生という後遺症から男性人口が不足し労働力が確保出来ず、また国土の東部一帯が主戦場となった事から国土の一部も荒廃しており、さらに第一次世界大戦そのものがドローとなった事から、これを補う筈のドイツからの賠償金もないため、その後この時点に至るまで不景気と国家としての停滞を続けていた。
 これこそが、フランス共産政権を作り上げる最大の温床となったのだが、政治同様に軍備においてもフランスに大きな影響を与えていた。
 つまり当然フランス軍の近代化は、列強の間ではイタリアに次いで最も遅れたものになり、しかもなけなしの軍事予算もドイツへの恐怖、第一次世界大戦への恐怖が生み出した常軌を逸した要塞線の構築に投入されてしまい、それすらもスペイン内戦に深入りした事から軍事費がそちらに吸い取られ達せず、とロクな状態ではなかった。
 これは、あまり情勢に左右されなかったフランス海軍以外の陸軍と空軍に強く影響し、第一次世界大戦時ドイツ軍を押し止めた軍事先進国だったフランス軍は、そこからほとんど進歩していない旧態依然たる軍事集団となっていたのだ。
 当然、英独が持つような強力な機械化部隊も空軍も、彼らが運用する優れた機材もなく、あったとしてもその数は非常に少ないものでしかなく、たとえ真っ正面からドイツと殴り合ったとしても勝負は見えていたとする軍事研究家も多い。
 さらに、なけなしの機動戦力の主力を、敗退著しい北フランスに英機甲部隊への対抗上派遣してしまっており、またこの奇襲攻撃を前にしても、ドイツ軍の侵攻発見後も第一次世界大戦の教訓を元に作成された規定の作戦に基づいて行動したフランス軍前線防衛部隊は、ドイツ軍の戦車・戦術航空機の集中機動運用による「電撃作戦」という新戦術の前になす術もなく崩れ去る事となった。
 つまりフランス軍は、最近発生した北アフリカの戦訓が、砂漠だけでなくほとんどの戦場で適用されると言うことを理解出来ないほど硬直化していたと見て良いだろう。

 だが、それでもフランス大陸軍は、軍主力を地の利のあるフランス国内のドイツ軍の前面に集結させ、自慢の砲兵を中心とした万全とは行かないまでも可能な限りの防衛体制の立て直しを計ろうとした。フランス軍は第一次世界大戦のように、そこでただ耐えればいいはずだった。初秋まで頑張れば、後背から準備の整ったソ連軍がドイツに襲いかかり、戦争の主導権は自分たちに移るはずだったからだ。
 しかし、これこそが枢軸国軍がフランスにしかけた最大の罠だった。
 フランス軍主力の移動・集結を知ったドイツ軍、そしてそれまで鳴りを潜めていた英国本国軍が、突如大規模な作戦行動を開始したのだ。空から。
 先陣を切ったのは、フランス空軍と前線陣地の破壊に忙しいため行動の若干遅れたドイツ空軍でなく、それまで地中海、北アフリカにしか姿を見せていなかったRAF(英国空軍)だった。
 彼らは、それまで温存していたご自慢の新鋭戦闘機を露払いとしてドーバーを越え(日本との技術提携から、航続距離の短い戦術航空機も使い捨て増槽を装備していた)、大挙して北東フランスに集結しつつあったフランス陸軍の頭上に現れた。
 その数は1,000機以上。
 それは、ドイツ空軍によって細切れに解体されつつあるフランス空軍にとって、対抗できる戦力ではなかった。当然、フランス空軍は瞬時に瓦解し、英国参戦1週間を待たずしてフランス全土の制空権は枢軸国軍のものとなっていた。
 また、空からの脅威を排除した英独空軍合計3,000機の前に、フランス大陸軍はその空からの脅威に全く為すすべはなく、たた散開し、高射砲による防御陣形を組み、急造のため十分とは言えない壕に深くもぐり耐えるしかなかった。
 そこを今度は、フランス領内に押し入り体勢を整えたドイツ軍大機甲部隊が、フランス軍主力に対する大規模な包囲行動を開始した。反撃に動こうとしたフランス軍は、容赦なく空からの攻撃にさらされ、殆ど反撃らしい反撃をする事はできず、渡河を許し、陣地を蹂躙され、町や村が次々と包囲陥落し、徐々に追いつめられつつあった。
 そうして空と鉄の軍団の脅威の嵐にさらされた数日が経過し、遅ればせながらも司令部がパリ前面に退却しようと決断したが、全ては遅かった。
 北アフリカに増援として向かう為、イギリス本土から大西洋を南下したいた筈のイギリス軍の大船団が、忽然とドーバー海峡に姿を現し、大上陸部隊を吐き出したのだ。
 突然第二の戦線を抱えることになったフランス軍主力は、海岸方面からの攻撃に全く対応する事ができず、英軍の強襲上陸に呼応してさらにスピードを上げたドイツ機甲部隊は驚異的な速度で進撃を継続し、遂にソンムの町近くでイギリス軍と握手した。
 立体的にも包囲されたと言っていいフランス軍主力に、白旗を用意する以外できる事はなかった。
 海陸双方からの壮大な包囲殲滅作戦により、フランス大陸軍はその主力が壊滅する事となったのだ。
 戦史ではこれを「ソンム包囲線(ポケット)」と呼ぶことになるが、ドイツ軍にとってまさに前大戦の雪辱戦であった。
 なお、ここでフランス軍は70万人が降伏する事になり、それまで用意されていた現役兵の過半を失う事になる。

 その後フランス軍は、首都パリを死守するすべく坑戦を続けたが、陸軍主力が壊滅し、残存しているのは戦時動員により数こそ多いものの旧式装備を装備した二線級の機動力を持たない歩兵部隊ばかりで、巨大な工業力を背景に圧倒的な機動性、集中性を持つドイツ・イギリス連合軍に対抗できようはずもなく、また、よしんば陸で動けたとしても、フランス全土の制空権は完全に枢軸側のものとなっており、昼間の地上での移動すらままならなかったのだから結果は同じ事だっただろう。
 首都パリは、ドイツが攻撃を開始してから六週間で無血開城し、その後すぐフランス政府そのものも降伏した。
 ナポレオン以来の伝統を誇る大陸軍国であったはずのフランスが、二ヶ月足らずで降伏したことに世界は驚愕した。特に驚いたのは、当事者たるフランスではなくソ連の独裁者ヨシフ・スターリンだったと言われ、このドイツ軍の電撃戦により彼の西欧に対する侵略的行動が完全に停止したと言われる。
 そして、装甲戦力と航空機を集中運用するという、新たな砲兵と騎兵である火力と機動力を大々的に利用した新戦術による、あまりにも鮮やかな勝利は、戦争が新たな段階へと進んだ事を示すものであるが、それをいち早く実現した枢軸軍部の作戦指導は高く評価する事ができよう。
 しかし、フランス本土から脱出できる戦力などは、その後フランス本国降伏後も北イタリアで戦っていた部隊と合流し、さらにイタリアや北アフリカ領を伝ってアメリカ連合へと亡命、自由フランス政府を立てることとなり、これが後に新たな火種を呼び込む事になる。

 一方その頃、協商のもう一つの要であるヨシフ・スターリン率いるソヴィエト連邦は何をしていたのか? それは、歴史でもよく知られている通り全く動かなかった。少なくとも欧州正面では。
 協商条約が明確な軍事同盟でないのをいいことに、お茶を濁すかのような義勇軍こそ地中海方面に派遣していたが、それは艦隊の一部と戦技習得を目的とした軍事顧問団程度のものであり、ソ連が軍事力として最初からフランス、イタリアをアテにしていなかったのではないかと現在では推察されている。
 事実、フランス本国降伏の後、あまりにも不甲斐なく敗れた同盟国に戦争を任せる事と、その勝利を実現した枢軸側に対して大きな不安を持ち、ソ連の独裁者スターリンは、その後、欧州正面で沈黙を保つようになったことからも明らかであろう。
 また、東地中海方面では、ソ連海軍の地中海派遣義勇艦隊が甚大な損害を受けた後、黒海に後退して艦隊保全を行うようになった事を一つの機会として、同方面からの陸上兵力も完全に引き上げてしまい、欧州のごたごたの間に火事場泥棒のように行った極東での局地戦以外、一切外向的リアクションを取らなくなってしまう。
 ソ連動かずの状態を、ソ連政府の言うような高度な政治的判断や外交的選択などでなく、スターリン個人による得意の保身工作とする説が有力で、そちらの方が納得できるとされた。

 このソ連のある種奇妙な動きをいぶかしみつつも、フランス解体をしつつ枢軸側の地中海方面での攻勢は続き、一九四二年夏までにリビアからイタリアを駆逐し、義勇アメリカ軍の援助で増強されつつある自由フランス軍とチュニジア国境辺りで激しい戦いを繰り広げていた。
 この当時の自由フランス軍の指揮官は、当時北アフリカ戦線で一人気を吐いていたフランス第四機甲師団長であったシャルル・ド・ゴール将軍で、彼はフランス本国が降伏するまでにその活躍(と言うよりは戦線の火消し、イタリア軍の尻拭いと言う方が適当だろう)により協商側の全ての機甲軍団を任され、事実上の北アフリカ軍の司令官となりその階級も中将に昇進していた。
 フランス本国降伏後は、アメリカ連合の支援のもと自由フランスを結成して、国民に枢軸側との徹底抗戦を訴え、自分が北イタリアで踏ん張っている間に、全ての残存戦力を捲土重来を期して、フランス植民地や米国へ亡命するよう同胞に指導していた。
 その間北アフリカ戦線は、アメリカのレンドリースによる物資で体勢を立て直したド・ゴール将軍率いる自由フランス軍の活躍により、一時協商軍は再度トリポリを奪回したが、四二年一月、フランスを征したドイツ軍の精鋭部隊が北アフリカ戦線に加入する事で再び敗退を喫し、チェニスにまで撤退する事となった。
 しかし、ここで既に対枢軸開戦を行っていた米軍が、本格的陸上戦力(名目は、戦況の変化から義勇軍から正規軍になっている)を派遣してくることで、再び北イタリア戦線は動くこととなる。(アメリカ参戦に関しては後述)
 この動きに、英独もさらなる増援を北アフリカに派遣し、イタリア攻略の出発点ともなるチュニジアで大規模な戦闘が発生する事となった。
 もっとも、イタリア自体は四二年春から始まった枢軸軍による攻勢で、あっさりシシリー島、北イタリアを明け渡し、それを機会としてムッソリーニも自分たちの手で失脚させ、枢軸側に降伏している。
 その上、自由イタリアという組織は遂に出現する事はなく、降伏後のイタリア自体も枢軸陣営として再出発し、北アフリカ戦の終末期には軍事力すら派遣していた。
 この為、いささか戦闘の目的を失っていた協商軍だったが、欧州の喉元に反撃のための橋頭堡となる勢力圏を維持することが重要には違いはなく、降伏したイタリア軍を除いた形でチュニジアで決戦が行われる事となった。
 この戦闘は、近代の陸戦では珍しく各軍の将軍の個性がよく出たものとなった。
 各国の指揮官は、英軍がバーナド・モンゴメリー、独軍がエーリッヒ・フォン・マンシュタイン、仏軍がシャルル・ド・ゴール、米軍がジョージ・パットンだった。後世の戦史家から見れば涎のでそうな程のキャスティングと言えるが、戦闘そのものは迅速な進撃を旨とするパットン率いる米軍主導で、得意の物量戦を以て強引に機動戦に持ち込もうとする協商側を、枢軸側がモンゴメリーの粘り強い指揮のもと防戦で防いでいる間に、マンシュタインの大胆な戦術運動で協商の後方を襲うことであっけなく勝負がつく事となった。ド・ゴールの役目はまたも友軍の火消しであった。なお、マンシュタイン将軍は、フランスで出来なかった事の一部をここで実現したのだ。
 そして、この戦闘で大敗を喫した協商軍は、枢軸側の妨害による補給の滞りもあり、それ後北アフリカで体勢を立て直すことが出来ず、ずるずる後退を続け、四三年を待たずして仏領モロッコからすら叩き出される事となった。この時、パットンは一つの言葉を残した。有名な『アイ・シャル・リターン』がそれだ。これは、時を経て現実のものとなったことは皆様ご存じの通りだろう。

 しかし、これにより枢軸国側は悟った。自ら戦争準備を行うだけでなく、戦時はその地理的環境を活かして巨大な兵器廠と化すアメリカを何とかしなければならないと。
 もっとも、『アメリカが本腰を入れる前に戦争に決着をつける。』それは枢軸側が本戦争にあたり、巨大な工業力を誇るアメリカ連合の本格的な戦時体制への移行を恐れたための基本方針だった。しかも、アメリカ連合は、当初予想していたより遥かに大きな生産力を早くも発揮し始めていた。現に北大西洋でアメリカ義勇艦隊が枢軸海空軍と激戦を繰り広げつつ行なっている対協商支援のお陰で、欧州枢軸軍の戦力の多くが拘束され、協商軍の戦力が予想異常に強力になり、これは時を経るごとに強化され、さらに一九四三年以降アメリカの正面戦力も両面作戦を可能とする程強化されると予想されていた。
 幸いにして、北アフリカ戦線および欧州戦線は、協商側を早期に降伏・撃滅することに成功したが、この考えを枢軸陣営はその後も強く持つ事になり、これが戦後の米国政策に現れる事になる。しかしこの事は、結果として欧州人にとっては、次の戦争へ向けての事となった。

 だが事態は、より加速して進むこととなる。
 大平洋諸国が苦境に立つ英独支援の為、ヨーロッパ・シベリア戦線へと戦力を振り向けたのを見たアメリカが、準備もロクにせずに太平洋での火事場泥棒を考えたからだ。

◆四. 太平洋戦争前夜