五. スニーキー・アタック(太平洋戦争1)

 日本本土空襲。それによって太平洋戦争の幕は、強引に切って落とされた。
 日本政府の思惑通り一方的に戦争へと追いつめられていたアメリカ連合は、一九四一年一二月八日、米国大統領による一方的な対日宣戦布告の声明の最中、米大使館が日本帝国代表に文書を渡しているさなか、突如、日本帝国本土の首都圏にあり最重要の軍港の一つである横須賀鎮守府(軍港)を5隻の空母から繰り出された、のべ300機の空母艦載機による大規模な空襲が行なわれた。
 太平洋戦争と呼ばれる、世界最大規模の海洋戦争の勃発だった。
 欧州大戦は、ついに世界大戦となったのだ。
 後世の史家たちは、これをもって第二次世界大戦が本当の意味で勃発したとしている。
 それはこの二国の国力、日本とアメリカの国力が世界の半分以上を占めていたからに他ならない。

 この奇襲攻撃で、国防の要である日本海軍は大きなダメージを受けたが、幸運と言うべきか不幸と言うべきか、対米戦争に備えての訓練のため戦闘艦艇の大半が出払っていた時に奇襲攻撃が発生したため(この頃の日本海軍は、よく知られている軍歌のように休日返上で訓練が行われたいとされる)、主要戦闘艦艇の損害は皆無で、横須賀鎮守府とその近辺で発生した損害は、留守番状態だった一部艦艇と潜水艦、そして軍港施設、支援艦艇に集中した。
 また、日本軍にとって大きな打撃だったのは、中部太平洋の増強のための物資を満載した大船団が東京湾各地から出航し、丁度三浦半島沖合で船団を組んでいた途中で、これも米機動部隊の餌食となった事だった。
 この二つ攻撃により撃沈された大型戦闘艦艇は、いくらかの駆逐艦と潜水艦だけだったが、商船や戦闘支援艦艇の損害は膨大で、合計で30万トン近くにも上っていた。未だ戦争体勢にない日本統合海軍にとり、初動での致命的な損害だった。特に高速タンカーの損害が多かった事がこの後の日本海軍の活動を大きく制約する事になる。
 また、鎮守府そのものに対する損害は、ドッグを中心とした海軍工廠の多くが再建に最低三ヶ月、完全稼働状態に戻るまで半年はかかるだろうとされる損害を受けた。なお、日本にとって幸いだったのは、2000ポンド爆弾を想定して建設されたタンク群とブンカーが破壊されなかった事と、工廠関係者の人的損害が最低限で済んだことだろう。
 しかし、アメリカ軍の奇想天外な奇襲攻撃が、日本海軍に大きなダメージを与えた事には間違いなく、初戦でのアメリカ軍は最も求めていた「時間」という戦果をつかむ事になる。
 そしてこのある種奇妙な損害から、日本が米軍の奇襲を知っていたとする史家もいるが、一連の損害によりその後の海軍全体の行動に大きな支障が出ており、何より船団の壊滅により南洋諸侯国の防衛は事実上不可能となっている。この事から信憑性は低いと言えよう。

 しかし、軍部が最も衝撃を受けたのは、そうした物理的な事でなく敵軍の兵力の運用方法だった。
 自分たちがようやく具現化しつつある航空主兵を、見るも鮮やかに実現されてしまったからだ。このため一時軍首脳はパニック状態に陥ったが、その後米海軍が空母機動部隊を解体し、以前のような戦艦を中心とした任務群にバラバラに再配備したと判明した事で一息つくこととなる。
 米軍にとっては、単に追いつめられた上での奇策でしかなかったのかと。
 ただこれは、米軍の攻撃で日本海軍の大型艦艇(戦艦、空母)が一隻も撃沈できなかった事が大きく影響していると言われる。
 事実この奇襲作戦は、米海軍の一提督の発案を時の海軍部長が採用した特例的な兵力運用と攻撃方法だった。そして、これは米機動部隊関係者にとってチャンスだった事は確かで、何としても主力艦(戦艦)を撃沈する事が、率いていた提督により厳命されていたと言われる。このため米機動部隊は、比較的長時間日本近海に留まる事となり、輸送船団の悲劇を生むこととなったのだ。
 また、この奇襲の後、米機動部隊は別に解体された訳でなく、結局の所、各所に展開した艦隊に防空力が必要な事や、島々の攻略に航空戦力が必要な事からやむなく分散しただけで、空母の数が揃うようになると再び集中運用されるようになる。
 これは、何より対岸の日本が異常に空母を重視し、集中運用していたからに他ならない。いつの時代も、軍備とは相手に合わせて揃えられるという典型的例と言えるだろう。

 ちなみに、政府首脳はこの奇襲報告を受けたとき様々な反応を示し、外相は「これで、負けずに済む」とため息を付き、国防相は「勝ったな」と自室で薄く笑い、「よく、先に手を出してくれたもんだ」と首相が官邸で喜び小躍りした、という逸話が伝わっている。
 それを象徴するのが、攻撃当日の日本帝国宰相の宣戦布告演説であり、全世界に向けて放送されたこの演説で、正義が誰にあるかをこれ以上ない程印象付けた。
「日本時間1941年12月8日」という日付から始まる演説の事だ。

 そして、この奇襲攻撃より引き起こされた日本軍の混乱をついて、間を置かずして堂々たる大艦隊と攻略船団を押し立てたアメリカ大平洋艦隊が、ハワイ諸島対するに侵攻が行なわれた。
 その戦力は、大西洋の制海権を一時的失うことを前提にして太平洋方面に集められたアメリカ海軍の総力を挙げたものと言ってもよく、増援されていたとは言え、現地の日本海軍遣布艦隊や、布哇王国海軍に太刀打ちできる戦力ではなかった。
 現地軍は日本本土の日本帝国軍から、布哇王室と政府が脱出するまでの時間稼ぎの戦闘以外が厳禁され、可能な限り兵力を温存し、後退するよう指示された。
 この二つの攻撃により、既定の迎撃作戦が完全に崩壊した日本帝国は、今までの作戦方針をかなぐり捨て、大胆な戦略の変更を決定したのだ。
 その新たな戦術の根幹は極めて単純だった。太平洋そのものを史上最大の縦深陣地として、米軍を日本帝国の懐まで引き付けてから一撃で撃滅すると言うものだった。その為、前線の各軍には戦略的な撤退が極秘のうちに指示された。これは、アイヌひいてはモンゴルの騎兵による囮戦法の常套手段をモチーフにしていると言われており、実際の作戦案もアイヌ軍部より即座に提出、協議の上採用されたと言われている。
 ともかくこの方針に従い、布哇王国は捲土重来を誓い艦隊の護衛のもと王室、政府などのエグゾダスが実施された。
 ちなみに帝国海軍の規定の作戦とは、ハワイ方面にある前衛戦力がアメリカの侵攻艦隊を拘束している間に、全艦隊を中部太平洋に進出させ、軍将(マーシャル)諸島沖合で一撃でアメリカ太平洋艦隊を撃滅するというものだった。これは日露戦争以後培われてきた、日本的艦隊決戦主義の最たる物と言えよう。

 自分達がしかけた作戦による影響とは言え、迎撃にあまり積極的でない日本艦隊に危惧を抱きつつもアメリカ太平洋艦隊による進撃が続いた。
 ハワイ王国では、時間稼ぎのため絶望的な抵抗を行った現地地上軍を粉砕するまでに年内を要し、その後一月ほど現地でのゲリラ活動と潜水艦による通商破壊に苦しみつつも補給と拠点設営が進められ、それが整うとハワイを策源地として中部太平洋を無人の野を駆けるごとく進軍した。
 ハワイ領カメハメハ島(米名:ジョンストン島)、日本帝国領中道島(米名:ミッドウェー島)、日本帝国領大波島(米名:ウェーク島)、同軍将(マーシャル)諸島(侯国)、同七曜(トラック)諸島(侯国)と破竹の進撃を続けた。
 その間、一度だけ友軍の撤退援護のために姿を見せた日本海軍空母機動部隊との突発的な戦闘があったが、それ以外は一部の基地航空隊が、嫌がらせのような攻撃をしてくる以外、米軍にとっては全く拍子抜けするものだった。
 だが、一般には横須賀での戦果が大きく報道され過ぎ、それは指揮官クラスにまで波及しており、これに一部疑問を感じる者もいたが、アメリカ全軍に慢心と油断が醸成されつつあった。
 多くの戦史家は言う。この段階で日本に停戦を持ちかければ、アメリカ連合の勝利で終わっていたかもしれない、と。
 ただし、日本軍がしかけた潜水艦を多用した通商破壊戦は、開戦当初から米海運、海軍に大きなダメージを与え続けており、この損害は時を経るごとに無視できないレベルになりつつあった。
 もちろん月50〜60万トンという船舶の損害は、日本より海運と造船力に劣るアメリカにとって小さな数字ではない。
 だが米軍はその歩みを止めるつもりはなく、規定の方針に従い第二段階である日豪分断作戦の為に南太平洋方面にも乱入した。オーストラリアは今のところアメリカに対しては中立を維持していたが、その戦力は中東に戦力を派遣しているとは言え、既に侮りがたい力を持つようになっており、早期に手を打つことが軍事的には重要と判断されたからだ。
 もちろん、日本帝国の構成国の一つのニタインクル公国を孤立させる為の作戦でもあった。
 そして1942年4月までに英領キリバス諸島、英領ギルバート諸島、日本帝国領入武諸島(侯国)(米名:東パプア諸島)、日本帝国領新豊島(侯国)(米名:パプア島)の北東部が米軍の軍門に下る。
 しかし、あまりにも積極的な日豪分断作戦の為の南西部太平洋進撃作戦が、大戦略において(政治的)裏目に出る。

 翌二月に、それまでの中華問題から日本帝国と関係悪化していたため中立を保っていたオーストラリア連邦が、「今後連邦の艦船の航行を妨害したものはいかなるものであろうとも攻撃する。」と発表し、ついに三月八日のアメリカ潜水艦によるソロモン海域での民間船の攻撃を理由に、日本帝国側に立って参戦することを全世界に表明した。この行動は米国側にとっては全く予想外の出来事だった。欧州に大軍を派遣し、戦力の半減している豪州が対米参戦する可能性は極めて低いと判断されていたからだ。
 これを皮切りに、これまで傍観の姿勢を貫いていた東南アジア諸国が順次宣戦布告に踏み切り、中東戦線の影響で身動きができなかった大インド連邦ですら、日本とは運命共同体であると宣言し、日本の側に立って参戦することを表明した。
 さらに、欧州の枢軸各国は同盟条項に従い開戦と共に直ちに米国への宣戦を表明していたが、その後あまり動きがなかったのが、各国の動きに刺激されるように苦しい中から艦隊を初めとする兵力の派遣を発表した。まさにドミノ現象の現出だった。
 いや、米軍主力を自分の懐に突進させるため、日本政府がこのタイミングを図っていたのだろう。
 しかも、アメリカと直接向き合っている諸部族連合とアズトラン連合王国は改めて局外中立を宣言し、各国もこれを認めアメリカ大陸を戦場としない、あくまでアジア、太平洋の防衛戦争だとあわせて表明された。この声明によりアメリカ連合に正義のない事が改めて全世界に表明される事となった。
 そして、このドミノ式の大平洋戦線での枢軸国側参戦により、戦争は膠着状態を迎えるかに見えたが、主に内政的理由(戦時経済が回転しある程度国内経済が活況を示す事もアメリカの戦争理由である)により引き下がる事のできないアメリカ連合は、この状態を逆転すべくさらに攻勢を強化し、大平洋・東南アジアの各地に軍を進める事を決定する。
 しかも米軍は、まだ日本軍の正面戦力から決定的な勝利をもぎ取っていなかったため、その動きは性急かつ刹那的なものとなる。
 戦争そのものには勝利しているのだから、大戦略的には構わないようにも思われるかもしれないが、アメリカは日本の戦力そのものにも大きな脅威を感じているので、これを撃破する事も大きな戦争目的と考えられていた。だからこそ、開戦時のような敵本土攻撃が行われたのだ。
 アメリカ側、特に海軍の焦りは大変なものだった。何しろ全日本帝国、アジア連合の正面軍事力は自分たちよりも強大なのだ。
 事実戦艦4隻を擁するインドネシア連合海軍が活発に活動した事で、同方面の侵攻は中止されるなどしている。

 そして1942年5月、アメリカの恐怖心を具現化したような作戦が開始される。
 アメリカ軍は、日本軍との雌雄を決する為と一気に戦争の勝敗を決するため、日系国家群を最終的に琉球で南北に分断する決め手となる侵攻作戦『カート・ホイール』を発動させたのだ。
 しかしこれらの作戦は、艦隊の集結を終え迎撃のタイミングを計っていた日本帝国の知るところとなり、初動であり枝作戦である米軍の呂宗牽制作戦に対して有力な機動部隊を出撃させ、その前面のパラオ沖で世界初の空母同士による海戦を行った。
 米軍は輸送船50隻に分乗した1個海兵師団を護衛する戦艦4隻、空母2隻を中心とした大艦隊で、これに対して日本軍は、大型装甲空母4隻を中核とした強力な空母機動部隊をパラオ基地群に常駐させており、これに全力を挙げての迎撃を指令。
 戦闘初日、日本軍は地の利を生かした綿密な索敵情報に従い、何の躊躇もなく敵輸送船団に全力で殴りかかった。これにより、米攻略船団は一瞬で壊滅、輸送船に分乗していた1個海兵師団の半数が犠牲となった。
 その後これに怒り狂った米機動部隊が日本艦隊に航空戦をしかけたが、これをアメリカより技術的に優れた電探により早期に探知した日本艦隊は、徹底した防空戦を行いこれを撃退、爾後送り狼をおこない、米機動部隊に痛打を与えた。
 そして、もともと航空戦力で勝る日本側に戦術的な勝利ももたらされ、全てのカードを失ったアメリカ軍は作戦の中止を命令する。
 この戦闘で米軍は1個海兵師団の過半と空母1隻を喪失し、空母1隻を大破させられた。対する日本軍は小破した空母が2隻でただけで大きな損害を受けることなくその任務を達成している。この戦闘は日本海軍が取り入れつつあった新たな戦術ドクトリンが正しかった事を証明する事にもなった。
 そして、何よりも大きかったのは、日本帝国が初めての目に見える勝利を得た事だった。
 アメリカは、もともと戦争にあまり積極的でない一般国民を納得させる為には目に見える勝利こそが必要であり、この敗北により米政府は焦り、貴下の軍に対して、準備不十分にも関わらず強引に本作戦の第一段階だったマリアナ侵攻を発動を指示する事になる。
 そしてそれは、日本軍が待ちに待った瞬間でもあり、ここに太平洋での戦いは一つのクライマックスを迎える。



◆六. 大海戦(太平洋戦争2)