六. 大海戦(太平洋戦争2)

 1942年6月5日、アメリカ太平洋艦隊は、マリアナ諸島へと侵攻した。
 世界最大の環礁、つまり第一級の泊地であるトラック諸島を利用できたので、その艦隊編成は編成表の上では万全だった。いや、世界最大の工業力が実現した海軍力は、トラック環礁を埋め尽くす艦艇を見る限り圧倒的とすら表現できた。
 参加戦力は、日本軍が山のように持つ大型空母こそ4隻に過ぎなかったが、主力とされた戦艦の数は、新造戦艦10隻を含め25隻にも及んでいた。
 この異常なほどの戦艦数は、アメリカの亜細亜に対する恐怖が生み出したものだったが、当時の戦略兵器、決戦兵器と信じられていた戦艦がこれ程多数一カ所に集められた事に、世界中が驚愕したと言われている。事実、戦艦だけで100万トン近い排水量は、太平洋という広大な戦場を加味しても異常と判断して問題ない兵力集中度だろう。
 そして、米将兵をして敵地への侵攻となるので苦戦はするだろうが、必ず米軍に勝利がもたらされる。トラックから出撃する艦隊は、全ての参加将兵がそう感じさせる光景となった。
 また、後から続く大船団には、最低でも2個師団が待ちかまえると見れれたマリアナ諸島最大の拠点サイパン島攻略の為の陸兵も、海兵を含め5個師団、8万人にも及ぶ将兵が乗船していた。
 総戦闘艦艇数100隻以上、輸送船団の100隻を上回る船舶、正面投入兵力だけで200万トンに達する艦船の投入された、まさに当時のアメリカの海洋戦力の総力を挙げた作戦と言える光景だった。
 この情景は、アメリカだからこそ実現できたものだった。

 しかし、そこで行われた『マリアナ沖海戦』で、双方が求めて止まなかった筈の大規模艦隊戦(決戦)で、アメリカ海軍は待ちかまえていた日本軍の迎撃網に完全に捕まり、歴史的敗北を喫することとなる。
 日本海軍の視点から見れば、結果的にはるばる遠く遠征してくる艦隊を、万全の重厚な迎撃陣で迎え撃つという、日本海海戦と同種の戦闘となったのだから勝利して当然、しかも初動で致命的な遅れを取った彼らは、この機会を野に伏せるサムライのごとくずっと待っていたのだ。
 だが、戦闘は当時の海軍軍人なら誰でも思い至る、日本海海戦やジュットランド海戦のような派手やかな戦艦同士の砲火が応酬される戦いではなかった。つまりアメリカ海軍が考えていた、戦略兵器である戦艦同士の激しい砲撃戦により勝敗が決するというものとは全く違う形で、戦闘は開始される事となる。
 一方日本海軍は、その設立から今まで殆ど途切れることなく、ほぼ10年おきに海戦を行うという異常なほどの頻度で近代海戦を経験しており、自ら大鑑巨砲主義の絶頂を作り上げると共に、第一次世界大戦ではその限界も十分に理解するだけの経験を持っていた事から、新しい戦争に対してはアメリカとは異なるビジョンを持っていた。それがこのマリアナ沖で、新たな戦争への回答として示されたのだ。

 戦闘当初、実質戦力比二対一とすら言われた、満載5万トンを越える新鋭大型戦艦を全艦隊旗艦に据えた新鋭戦艦10隻を主力とする戦艦25隻をによる大艦隊で、威風堂々と侵攻するアメリカ大平洋艦隊に対し、日本帝国統合艦隊は、米軍が引き下がれない所まで侵攻した段階、彼らがマリアナ諸島の最重要島嶼のサイパン島にとりついた段階で本格的な迎撃を開始する。
 日本軍は、この迎撃を実現するため、あえてサイパンに中途半端な航空戦力を配置し、攻撃まで行わせ彼らの攻撃を即した程だった。
 そして、太平洋中から集めたありったけの空母機動部隊と付近に伏せていた膨大な数の戦術爆撃機群を結集した、洋上航空戦力よる圧倒的な飽和航空攻撃という新しい戦闘方法で、アメリカ艦隊の迎撃をおこなったのだ。
 これを行う為のマリアナ近海への兵力集中のため、日本軍はろくな迎撃を行わなかった、いやおこなえなかった。それ故、作戦に参加した航空機の数ははるばる本土から来援した超重爆撃機を含めると、2,000機をゆうに上回った。
 これは、米艦艇の見張り員の『黒が七分に青が三分』という、悲鳴とすら言える絶叫が全てを物語っていると言えるだろう。
 その戦闘内容は、日本軍にとり事前演習で何度も行われた兵棋演習の通りとなった。これは戦闘半ばに、『Z旗』は別になくてもよかったんじゃないか言う不謹慎な事を呟いた参謀がいたという逸話が象徴的なものとして後の記録によく引用されているのがよく知られていると思う。

 当日の戦闘は、当然米軍予期せぬ形で展開した。
 D-day3日目の6月7日未明、前日に上陸した米海兵隊がサイパン島で橋頭堡を確保した段階で、沖合の艦艇のレーダースコープに無数に光点がきらめいた。場所はグァム島とテニアン島。飛行場をある程度無力化した筈の場所、航空機を焼き払った場所からの敵機の大量出現だった。
 日本人は、両島のありとあらゆる場所に強固なブンカーを作り上げ航空機を温存し、多数の重機を持ち込み数時間で滑走路を復旧したのだ。
 それ以降も日本軍基地機の出現は続き、硫黄島方面双方からの長距離爆撃機による大規模な爆撃は、サイパンに取り付いていた上陸部隊とその沖合に展開する輸送船団に大きなダメージを与え、この守りについていた米空母部隊の戦闘機に消耗を強要した。特に輸送船団にとって問題だったのは、日本軍機が爆弾に紛れた多数の機雷を投下した事で、輸送船団の多くは短期的に身動きがとれなくなっていた。
 一方、長躯パラオ諸島から襲来した長距離爆撃部隊は、トラック諸島と改名された太平洋最大の環礁に駐留、もしくはマリアナ進出のため待機していた米陸軍航空隊の頭上に殺到し、彼らをマリアナの戦いに参加させないための牽制攻撃を実施していた。
 そして、その日の午前遅く遂に本命が、米艦隊主力の前に姿を現す。

 6月10日午前10時26分、真っ先に米艦隊の頭上に襲来したのは、日藍の装甲空母の群から放たれた空母艦載機の大群だった。
 彼らは米艦隊後方に位置する4隻の空母を、親の敵とばかりに執拗に狙い、横須賀を襲った5隻の空母たちは、ビック「E」ことエンタープライズを残して全て海の藻屑と消え去った。なお、日藍の3つの空母機動部隊から放たれた攻撃隊は、第一波攻撃だけで合計450機に及び、これだけで米空母部隊を完全に撃滅している事から、戦力集中による威力と空母部隊の練度の高さを見る事ができる。
 そしてこの瞬間、米艦隊は早々に航空機の傘を失う事となった。
 その日一日、マリアナ侵攻作戦に参加していた米軍艦隊と七曜諸島(トラック諸島)の基地部隊は、途切れることなく襲ってくる、のべ4,000機の日本機の攻撃にさらされ、第一波以降特に執拗に狙われた主力艦隊の損害は甚大で、空母部隊より4度、基地部隊より2度も100機単位という大規模な空襲に襲われ、午後のお茶を迎える頃には参加していた主力艦艇の3割が撃沈・もしくは大破戦闘不能となり、残りの三分の一も損害を受けるという、全く予想外の大損害を受けていた。
 これは、それまでの戦艦絶対論に基づいて航空機の洋上攻撃力を過小評価し、艦隊防空にあまり熱心でなかった米海軍自らが招いた損害でもあったが、これを実現した日本側の戦力集中は恐るべき物があると言えるだろう。
 なお、ここで日本海軍は、航空機による洋上での初めての戦艦単独撃沈を達成している。

 そして、その損害にたまりかね米艦隊が撤退しようとしたところを、自軍による空襲の間突進を続けた無傷の日本主力艦隊が斜め後背から襲いかかり、強引に米軍が待ち望んでいたはずの主力艦隊同士の砲雷撃戦へと持ち込んだ。
 時間は南洋の太陽が既に傾きかけた、その日の午後5時になろうかという時間だった。
 この時すでに大きな損害を受けていた米戦艦部隊は、損傷艦艇も多数抱えていた事などから、それらを切り捨てない限り撤退もままならず、またサイパン島でのたうち回っている輸送船団と攻略部隊の事を考えると米主力艦隊に日本艦隊の撃滅以外選択肢はなかった。
 傷だらけの米太平洋艦隊は、好むと好まざるとこの日本艦隊の挑戦を受けてたったが、まるでこの日のために用意されたとしか思われない新鋭巨大戦艦2隻を先頭にした日本海軍水上打撃艦隊は、アメリカ軍が望んだ筈の艦隊決戦においてアメリカ海軍の威信と自信を粉々に粉砕する事になる。
 この時米水上打撃艦隊は依然18隻の戦艦を有していたが、うち三分の一は何らかの損傷を受けており、また空襲で当初3つだったものが、さらにいくつかのグループに分散してしまっており、3つの任務群の位置も少し離れ、しかも満足に艦隊陣形を組めない任務部隊すら存在する有様だった。
 対して、日本海軍は持てる戦艦の全て、新旧合わせて17隻の戦艦(新型と呼びうるのは6隻だけ)を叩き付け、2匹の龍となった日本艦隊は、米艦隊に統制された砲弾の雨をたたき込んだ。
 そしてこの時日本艦隊の旗艦となっていた新鋭戦艦「大和」は、米海軍に大きな衝撃を与え、これが「ヤマト・ショック」と呼ばれる、恐竜の終末期に似た戦艦のさらなる巨大化を招く事になる。
 確かに、たった1発の砲弾で自らの新鋭戦艦が撃沈されれば、そのショックたるや想像を絶するものになるだろう。

 なお、夜間に入っても日本帝国軍の攻撃は続き、別行動をとってより大きな包囲網を作っていた戦艦4隻を中心とするアイヌ海軍の水上打撃艦隊は、米主力艦隊が身を以て稼いだ時間を利用して、急ぎ撤退しつつあった米攻略船団に対する攻撃を行い、これがこの戦いの最後の決め手となった。
 暗闇の中洋上遙かから飛来する電探射撃による正確無比な砲弾の雨は、まさに悪魔の鉄槌となり、米船団に降り注ぐこととなる。それは、ただただ一方的な虐殺だった。
 その後水雷艦隊による夜襲が行われ、日本帝国全体の電子装備の優秀性を見せているが、ここでの戦いは双方入り乱れての文字通りの乱戦となり、圧倒的優位にあった日本側にも多くの教訓を与えている。

 そして翌朝から再開された空母部隊による空襲、そして包囲の輪を閉じて待ちかまえていた潜水艦群の群狼攻撃、アメリカ側の拠点となっていたトラック環礁への間断ない空襲と続き、最終的に米軍は主力艦と輸送船団の70%を失うという大敗北を喫する事となる。
 もちろん、サイパンに上陸した8万人の部隊の損害も甚大で、陸上と輸送船と共に失われた兵の損害も多いが、逃げ遅れた数万の兵が捕虜になっている。
 それはまさに日本海海戦再現、その現代版の現出だった。
 特に米海軍ご自慢の戦艦群に至っては、威風堂々とトラック環礁を出撃した25隻のうち、なんとかトラック基地に生還できたのは6隻にすぎなかった。しかも、それ以外の艦艇の損害も甚大で、向こう半年は海軍の大規模な作戦行動は不可能と、自ら判断しなければならない程の艦艇を失う事になる。
 なお、最終的な米軍の戦死者、行方不明者、捕虜は7万人にも上り、数字の上でも米軍の歴史的な敗北となり、対する日本海軍が受けた損害は、航空機の損失数をのぞくと米軍の一割程度に過ぎなかった。
 マリアナ沖海戦は、日本近代海戦史上二度目の歴史的勝利となったのだ。
 そして時代に取り残されそうになりながらも海洋帝国を目指していた筈のアメリカは、同じく海洋底国として先に隆盛しつつあった日本に、新たなロジェストヴェンスキーの艦隊をプレゼントし、自分たちが莫迦にしていたロシアの田舎者と同じであることを世界、そして歴史に刻印する事となった。
 これは、英蘭戦争に状況的に似て無くもないが、これ程一方的な戦闘を海洋国家同士が行ったという点は、歴史的に見ても異例と言えるだろう。

◆七. 反撃(太平洋戦争3)