七. 反撃(太平洋戦争3)

 「マリアナ沖海戦」の後、洋上機動戦力である艦隊戦力の全てを失った米軍は、枢軸軍の攻勢の前に総崩れとなる。
 当然、東太平洋以外の全ての制海権、制空権を失い、枢軸側による通商破壊活動はパナマの機能維持すら危ういものとしていた。
 その間、枢軸側の圧倒的な航空戦力に苦戦をしつつも、米軍はまだ健在な基地航空隊によりなんとか戦線を膠着状態に持ち込もうとしたが、枢軸側の航空殲滅戦と通商破壊戦の前に航空隊は善戦むなしく壊滅し、潜水艦や贅沢に空母や戦艦すら投入された通商破壊艦艇の前に補給線はズタズタに寸断され、各島礁に陣取っていた部隊は孤立し、それを救出するために出撃したなけなしの水上艦隊と日本側の待ち伏せ部隊との間で小規模海戦が頻発、そして再び次の拠点での航空殲滅戦が行われという、米軍にとって消耗戦と言う名の悪循環が南太平洋と中部太平洋の各地で繰り返された。
 その損害は、主にパイロットの消耗という点で致命的で、二直制を戦前から導入し、消耗戦にあってなお高い練度を維持している日本のパイロットに対抗することは不可能とすら言える状況だった。
 なお、同年8月に開始されたトラック環礁奪回こそ、無血撤退で何とかしのいだが、上記したように間髪入れず日本軍を始めとする枢軸軍が押し寄せた中部太平洋と南太平洋各地では、現地守備隊の勇戦敢闘の後に降伏という形が続き、翌年の春までには約1,000機の航空機と50万トンの優秀船舶と多数の艦艇、そして5万人もの兵を様々な理由で失い、建て直しのきかないままハワイ諸島まで後退を余儀なくされていた。

 そうして1943年春、米軍はついに最後の牙城にして敵戦術航空機が手の出せないハワイ諸島へと後退、ようやく戦時生産が稼働し始めた本国からの増援もあり体勢を立て直せる状態になりつつあった。
 一方、とりあえず作戦を一段落させた日本軍を中核とする枢軸国軍は、約半年間続けられてきた進撃と消耗作戦を兼ねた作戦行動を一部小艦隊と航空隊に任せ、主力はそれまでの海戦により損傷した艦隊の再編成を行っていた。
 そして日本列島各地で就役した新鋭艦艇の就役や損傷艦艇の復帰でさらに戦力を拡充し、徐々に奪回した七曜諸島や軍将(マーシャル)諸島各地の臨時泊地へと艦隊を集結させつつあった。
 しかし、ここに至って日本軍は、攻勢をハワイ前面まできた時点で鈍化させた。米軍はいぶかしんだが、これを枢軸側の長く伸びた補給線の再編成のためと判断、これ幸いとハワイ防衛の準備と自軍の戦力の再編成を急いでいた。
 だが、これには理由があった。枢軸軍はこの次のハワイ攻略作戦を単なる戦術的な奪回作戦では無く、極めて政治的な、アメリカを講和に追い込む程の決定的な効果を持つものにするための準備を行っていた。それは先のマリアナ沖海戦ではアメリカの政府、軍部に大きな衝撃を与えることはできたが、しょせんは反抗を跳ね返しただけだったため、それほど民衆には効果はなかったという事実に起因している。もちろんこれは、米側の情報操作もあった。
 この教訓を踏まえて、米軍の想像を遥かに超える程の戦力を集めて見せ、この大戦力をもって彼等が頼みとする軍事力を徹底的に叩き潰し、ハワイ奪還により現地政権を回復し、彼等に正義が無いことを改めて知らしめ、さらにその巨大な戦力が次はアメリカ本土を狙うと思わせるのが目的とされた。つまり、アメリカ政府ではなく、国民に『負けた』『この戦争に意味はない』と思わせることが目的なのだった。

 そのため戦力の出し惜しみもしていられなかった。
 英独は、今まで出し渋っていた有力な艦隊の太平洋派遣を決定し、ようやく片づいた欧州・北アフリカ戦線から開放された艦隊を使い、大西洋からの圧力もかけ始めた。また、アジア各国の海軍もその総力を挙げてハワイ奪還作戦部隊に参加した。さらに日本各地の工廠は新造艦艇がこの作戦に間に合うよう工事のペースをさらに上げていた。
 これにより、1943年以後前線に到来する枢軸国艦隊は、「毎日のように戦隊が到着し、毎週のように分艦隊が編成もしくは到着している」と従軍記者に報告させる程となっていた。
 また、報道、宣伝の方も本来情報を秘匿すべきところが、普通では考えられない程おおやけにして行われ、七曜諸島に続々と集結するハワイ奪還艦隊の模様が全世界に向けて大量に発信された。古い世代の方の中には、世界初の軍隊を対象とした広域テレビジョン放送、アイヌ王族の姫君の前線視察や、枢軸全軍による作戦会議が、兵員輸送船として戦時徴用された豪華客船『橿原丸』(七万二千トン)で行われる様子を報じたテレビ、ラジオ、新聞、ニュース映画を覚えている方もいるのではないだろうか。
 また、参加艦艇も実に多彩で、日本帝国統合艦隊を構成する日本皇国、アイヌ王国、ニタインクル公国の艦隊に加えて、英王立海軍、ドイツ帝国海軍、オーストラリア連邦海軍、インドネシア海軍、ハワイ王立海軍、大韓国海軍、タイ王立海軍、インド海軍と実に多種多彩な国々の国旗を掲げる艦艇で構成されていた。
 このため、折からの宣伝もあり七曜諸島はまるで艦船による万博のようだったと、人々に回想させる事にすらなる。

 こうして編成されたハワイ奪還艦隊は、アメリカのマリアナ諸島侵攻艦隊の規模をはるかに上回る規模となった。
 もしここにその時の艦隊編成表を掲載するなら、それだけで小さな冊子が一つ必要になるだろう膨大な規模と編成で、戦艦、高速空母各40隻以上を基幹とした500隻の戦闘艦艇、1,000隻を上回る艦船、4,000機に達する航空機により編成され、そしてその参加戦力は前線だけで50万人達していた。
 対ソ・シベリア戦のための夏期攻勢の準備をしている枢軸軍(日本軍)としては絞り出せる総力を挙げた戦力といえ、海洋帝国の底力を見せつける情景と言えるだろう。
 なお、作戦名は『捷一号(V1)』。日本の報道官は、「『捷』は、勝利の『捷』。我々は必ずビクトリーするだろう。」と決して十分とは言えない発音の英語で熱弁を振るった。
 作戦開始は1943年6月1日。翌々日の満潮時にハワイ諸島上陸が予定されていた。
 ちなみにこれは、もちろん史上最大規模の渡洋侵攻作戦でもあり、史上最も多い多国籍編成の艦隊ともなった。

 こうして万全の体制で侵攻を行った枢軸軍の前に、再建途上のアメリカ太平洋艦隊は、背水の陣であるため、国家態勢の維持のため戦う前から敗北を認めるわけにはいけないという内政的理由を主因として、果敢にハワイ前面で戦闘を挑む事となった。
 ただしこの時のアメリカ太平洋艦隊は、再建されたとは言え往年の勢力ほどはなく、ようやく回転し始めた戦時生産による大量の新造艦艇を受け取っても、その戦力は枢軸側のハワイ奪還艦隊の三分の一程度で、ミッドウェーやジョンストン、そしてハワイ各地の基地航空部隊を含めても半分にも満たず、攻者三倍の原則が適応されにくくランチェスター理論が反映されやすい海空戦においては、自らの損害を無視して全力で迎撃したとしても、その勝利は難しいと思われた。
 そして実際の戦闘もその予測を如実に再現し、ハワイ外郭を構成する、ミッドウェー、ジョンストン、パルミラの各島々は、小さな環礁でしかない島々を思えばオーバーキルでしかない枢軸側の支艦隊(と言ってもどれも100隻規模の大艦隊)により押しつぶされ、それをかき分けるように出現した圧倒的戦力を誇る枢軸軍主力艦隊(BB:21、CV:17基幹)の前に、ハワイ近海の基地航空隊からの支援があったにも関わらず、太平洋艦隊は押し潰され、ランチェスターモデル通り壊滅的打撃を受け、後退を余儀なくされた。
 なお、この作戦で枢軸艦隊は、あまりにも膨大な数の艦艇が参加していたため、10〜30隻程度の日本帝国の言う「分艦隊」を多数編成し、それらを幾つかずつ集合させて機動部隊、打撃艦隊、前衛艦隊、中道島(米名ミッドウエー島)攻略艦隊、パルミラ島攻略艦隊、カメハメハ(米名ジョンストン)島攻略艦隊、そして本隊のハワイ奪還艦隊に別け進撃していた。分かりやすく言えば、枢軸艦隊はハワイ奪還艦隊という本隊を軸とした大きなトライデント(三叉槍)の陣形をとって、ハワイ王国全土の一挙奪還を計ったのだ。
 この枢軸側のある種の兵力分散陣形を、通信傍受、暗号解読などから看破した米軍は、その大艦隊の間隙を突く形で懐深くに入り込み、奪還艦隊の力の根元である装甲空母部隊に果敢に戦闘を挑む。
 それは、この装甲空母部隊こそが、枢軸艦隊の力の根元であり、これを撃破さえできれば侵攻をとん挫させる事ができるばかりか、戦争をひっくり返す事すら可能だからだ。
 しかし、物量の差はいかんともしがたく、一部艦艇を後退に追い込む戦果を挙げただけで相手空母を1隻も撃沈する事は出来ず、圧倒的多数を誇る航空戦力の前に、再建されたばかりの米空母部隊は再度壊滅する事になった。
 もう少し米航空隊に練度と数量があれば事態は違った物になったと言われいるが、海上においてはよりランチェスター理論が適用されるというのを冷酷に証明したものとなった。
 その後、ハワイ諸島に撤退する米艦隊と、前衛艦隊として先にハワイ諸島近海に到着していた枢軸海軍の間に、激しいが半ば無意味な夜間戦闘が行われたが、枢軸艦隊の圧倒的圧力の前に米艦隊はハワイに戻ることはできず、傷つきながらの西海岸への撤退を余儀なくされた。枢軸艦隊は、その全ての部隊に高速戦艦と空母を多数随伴させており、これが如実にこの時の先頭に現れていた。

 そしてハワイ諸島に展開していた米軍部隊には、さらに過酷な運命が待ちかまえていた。
 これは、戦略的には無理な防戦を画策した米政府の決定がもたらしたものだったが、戦術的には孤立した拠点防衛が如何に難しくという事も現していた。
 早々に制海権を失い退路を断たれ、頼みの綱のハワイ上空の制空権も海戦の翌日、ハワイ諸島攻略一日目(D-day4日目)に殺到した枢軸軍空母艦載機の暴力的な空襲により奪われ、さらに地上では日本軍や亡命ハワイ政府の工作によりゲリラ活動が活発化し、その弾圧の為にさらに住民からの反感を買い、結果として現地米陸軍は周りの全てを敵として悲惨な防衛戦を行うこととなり、枢軸軍上陸1日目に早くも防衛線は崩壊、事後オワフ島守備隊だけは山間部に後退し、その後の一ヶ月余りの山岳地帯での細々とした組織的抵抗の後、全軍降伏という戦術的に余りにも教科書通りの展開となった。
 そして枢軸国の目論んだとおり、戦死、捕虜など二十万人とも言われるアメリカ軍の大敗北と、ハワイ奪還後のハワイ王国帰還の際の国王による演説によりアメリカ世論は一気に厭戦気運が高まることとなる。
 また、ハワイ沖の東太平洋で遊弋する枢軸軍大艦隊が、無言の圧力となったことは間違いないだろう。
 そして世論の影響により、喧々囂々の議会の中、大統領は一方的にしかけた戦争の、その敗戦の責任を取り辞任が議会で可決、ルーズベルトは歴史に悪名を残して舞台から退場する事になった。

 ハワイの完全陥落から約一ヶ月後の八月十五日、副大統領から昇格した新たなアメリカ連合共和国大統領となったハリー・S・トルーマンは、枢軸国に停戦を申し込み、その後サンフランシスコで講和会議が開かれるが、これにより太平洋戦争はようやく終息する。
 もっとも、この講和会議において枢軸側(日本帝国)がアメリカに望んだ講和条件は「旧に復す事」、この一つにつきており、この穏便な和平提案を前にしてアメリカも飲まざるをえなかった。これに逆らえば、本当にアメリカは世界の悪になってしまうからだ。
 しかし、この講和条件と戦中の国内での混乱は、その後米国国内で大きな波紋を呼ぶこととなり、すぐにも新たな戦乱を呼ぶこととなる。それは、日本政府の望んだ通りの展開だった。


◆八. ポラリスの下で(極東紛争)