八. ポラリスの下で(極東紛争)

 1941年5月10日、ノモンハン事件以来にらみ合いを続けていたモンゴル人民共和国(含む膨大なソ連義勇軍)は、突然の痛烈な満州政府への非難の後、満州帝国に対してのみ宣戦を布告。一気に国境線を突破した。
 また、この宣言と同時にソヴィエト連邦政府は、モンゴル政府に対して大規模な義勇軍の派遣を発表した。

 戦闘は、当初は満蒙国境付近で行われ、義勇軍の派兵を発表したソ連も、ソ連領内から攻撃は行わなかった。ソ連は西方にもより強大な敵国を抱えており、全面戦争などは欲してなく、日本人の目と手が太平洋に向いているうちに彼らの領域を幾らかでもかすめ取り、1939年の欧州での失点を少しでも取り返せればよかったのだ。
 それ故のモンゴル人民共和国による満州政府に対してのみの宣戦布告であり、これは日本政府に対する全面戦争はする気はないという、ソ連の独裁者スターリンなりの明確なメッセージだった。
 しかし事態は、二十四時間を待たずして急転する事となる。
 日本軍の一部好戦的な満州派遣高級参謀が、独断でソ連領内の空軍基地に対する攻撃許可を出し、これを本当の命令と誤認した現地部隊のかなりが、翌朝未明大挙してシベリア全域のソ連空軍に対して奇襲攻撃を敢行したからだ。尤も、現在では現地軍による計画的な独断専行だったと言われている。
 そしてこれは、現地日本軍の攻撃がもともとソ連に対する脅威を強く感じており、それ故以前から綿密な作戦を立て強い警戒配置についていただけに、東シベリアのチタ市より東を飛ぶソ連機が皆無になるほど完璧な奇襲攻撃となった。そして、ソ連側も日本軍の動きをスパイを通じてある程度掴み、それ故この時の奇襲攻撃は成功する運びとなった。
 なお、これは日本皇国がまだ完全なシビリアンコントロールを取り返していない事よりも、現地駐留軍にあまりにも裁量権を認めすぎていた事に起因しており、また日本独特の気風である、独断専行、既成事実容認の最たる現れであり、この事件以後さらに徹底した意識改革が日本全軍で行われるきっかけとなっている。

 そして、この現地日本軍の無定見な攻撃により、双方ノモンハンのリターンマッチ程度の限定戦争を行うつもりが、一人の人間のために全面戦争へと発展してしまうこととなった。
 これに慌てたのは日本政府で、事実上交戦国であるソ連政府に謝罪まで発表したが、在シベリア空軍の半数を撃破されるという大損害を受けたソ連(スターリン)が黙っている訳はなく、日本に対する激しい非難のあと、不当に占拠された領土を、いまだ帝政にしがみつく不当の叛徒から奪還するための内戦であると宣言して、北海道諸侯国領土に対しての攻撃を開始した。
 怒り狂いながらも、あくまで全面戦争ではないと言い切った所は、田舎泥棒的と言おうか、スターリンの保身の巧さによるものかは判然としていないが、北の大地の戦いを奇妙な戦争にしてしまったことには違いないだろう。
 これに日本政府はもとより、枢軸各国も混乱する事になる。実質はともかく、ソ連政府は内戦と一方的に決めつけ戦闘を開始しており、開戦は同盟条項に批准するかどうかで微妙だったからだ。しかも、欧州枢軸各国はフランス、イタリアとの戦争の真っ最中で、二正面戦争となるソ連との開戦など悪夢でしかなく、また日本も米国との対立が深刻化しているこの時期に、本気でソ連と戦う気はなかったからだ。
 こうした当時の特殊な政治的環境から、日本帝国の曖昧な国家構成をついた形になったスターリンの無茶苦茶な言い分は、世界的に受け入れられ、日本帝国もソ連政府に対して宣戦布告する事はなく、そのままシベリア、北海道、満州を舞台とした限定戦争、「シベリア事変」もしくは「極東紛争」と呼ばれる約2年間にもわたる戦いが始まる。

 戦闘は、ソ連軍の一方的な攻撃から始まったが、日本帝国側は以前から対立の続いている地域であり、しかも1941年春より大軍を集結させて示威行動を行っていたので、陸軍の主力を北海道、満州に集結させ十分な防御陣地を構築し待ちかまえており、泥縄式に押し寄せてきたソ連軍の勝手は許さず、それぞれ国境から百キロ程度後退した所まで後退こそしたが、そこで防戦につとめていた。
 また、日本が結果として航空奇襲を行って早々に制空権を獲得してしまったことも、ソ連軍の進撃を阻んでいた。
 このためソ連は、欧州での失敗を取り戻すため、他国をダシに使って短期間の限定戦争でいくらかの領土を得ようとしていたのが、ズルズルと長期戦に引きずり込まれる事になった。また、日本も不本意ながら東洋の盟主として、この田舎泥棒的な大陸国家ソ連の挑戦を適当にながす事もできないため、結局陸軍の全力を上げて抗戦を行うハメになっていた。特に、シベリア地域に多数居住していた新たな国民である、旧ロシア帝国の流れを汲む国民が多数をしめるようになっていた北海道は、ソ連憎しの感情で染め上げられており、この意志を無視することは内政的にも不可能だった。
 この時人口約800万人の人口しか持たない北海道が、義勇軍や様々な郷土防衛隊、果ては江戸時代の騎馬武者やかつての帝政ロシアの近衛騎兵の制服を着た旧ロシア貴族による騎兵部隊を含め100万人もの軍を編成して見せた事からも、この時の北の大地の怒りが分かるだろう。

 日ソ両者にとって不本意な戦争だったが、一年たっても解決の糸口はなかった。
 戦線そのものは、翌年の夏1942年6月から開始された日本軍主力を投入した機動的な反撃により、満州領内のソ連軍主力を包囲殲滅し、これにあわせて北海道に侵入していた部隊も撃退し、反対に日本軍がソ連領内に踏み込いんでいた。そしてその後、満州、北海道双方の有機的防衛のため、ソ連側最大の拠点となっていた国境から600kmも入り込んだチタ市を奪うほどの活発な攻勢を行ったが、これがソ連政府の態度を余計に意固地にしてしまい、再三の日本側からの停戦の提案が無視されていた。
 そればかりか、ソ連西側国境の向こうでは、フランスから東欧国境に戻りつつあるドイツ軍があるにも関わらず、スターリンはさらなる増援を欧露からシベリアに送り込み、日本帝国との全面対決の姿勢を強くしていた。
 一方停戦を打診している日本側も、北海道住民の戦争継続機運や、ソ連に対する脅威を感じている各国の手前戦争をなかなか手打ちにできないばかりか、自らの停戦の提案もソ連に対して不利なものが多く、停戦の道のりを遠くしていた。
 これを一人喜んでいたのは、すでに日本と開戦していたアメリカ連合だった。説明するまでもないだろうが、日本にとっては恐れていた二正面戦争となっていたのだ。
 このため、アメリカとの開戦後は日本政府内にこのままズルズルと消耗戦を続けるよりはマシという考えが大半を占め、少なくともシベリア戦線だけでも解決すべく大規模な作戦が実施される事となった。
 それが42年夏のチタ市攻略作戦を発生させたのだが、日本側の予想通りこの時の停戦は実現せず、戦いは次なるステップへと進んでいく。

 日本側の最終的な作戦目的は、この一世紀近くの日本陸軍にとっての悲願でもあった、バイカル湖までの完全制圧を目的とするもので、チタ近郊の平原で一大決戦を敢行しソ連野戦軍を撃破、爾後一気にイルクーツクを突き、ここに重爆撃機の拠点を設営、これと欧州枢軸国による圧力をもってソ連に対する交渉材料として停戦に持ち込もうというものだった。

 当然だが、まず強化されたのは戦略爆撃だった。
 日本陸海軍航空隊は、1942年春頃からソ連領内の戦略爆撃を本格化させ、初期は300機程度の機体をチタ方面に向け、チタ地方とモンゴル共和国が自らの軍門に下ってより後は、長駆イルクーツクにまで進撃、ソ連側に爆撃による損害と共に防空の為の多大な負担を強いて、シベリアに送り込まれるソ連側の兵站物資を著しく消耗させる事に成功している。
 なお、象徴的としてイルクーツクに対する1000機爆撃が行われたが、これはソ連側の想像を超えた攻撃となり、新型電波妨害機に守られた1000機の夜間爆撃機はソ連防空網を突破し、1943年夏の日本側の作戦に大きく貢献する戦果を残している。
 そして、爆撃効果と自軍の戦力拡充を踏まえて、日本陸軍による大規模な作戦が開始される。

 作戦開始は、海軍主導のハワイ奪還作戦とほぼ同時の1943年6月1日。
 作戦名は、『北斗(ポーラスター)』。
 動員される戦力は、日本軍を主力とした約60個師団を中核とした二個軍集団で、同盟国、後方要員まで含めれば二五〇万人にも及ぶ将兵が作戦に従事していた。
 また、去年より本格化した各方面よりの鉄道、工業地帯破壊を目的とした戦略爆撃により、シベリア方面のソ連軍は後方支援の面で去年に比べ著しく弱体化してしていた。このため、ソ連軍の全体の機動的運用に大きな支障が出ており、この大侵攻の前にソ連軍は、守勢防御的な迎撃を行う以外対応策はないと枢軸側は判断し、予定通りの西シベリア打通作戦が開始される。この作戦に何より求められたのはスピードであり、スターリンが慌てて欧州軍主力を極東に持ち込んでくる前にどこまで突進できるのかが鍵とされた。
 このため、2個軍集団の先鋒と占領地拡大を任された次鋒には、この当時の日本陸軍機甲戦力の殆ど全てが投入されており、北の大地を埋め尽くした装甲戦闘車両の数は1万の数を数え、数万両の輸送車両と20年前から拡張され続けていた鉄道により兵站を担当した参謀は、2個軍集団の補給線を維持する事がこの作戦の正否を握っていると断言する程だった。
 つまりは、現地ソ連赤軍の戦力は、自らと比較にならないほど低下していると日本軍は考えていたのだ。

 そして『北斗』作戦が開始されると、当初は重厚な砲兵とよく考えられた野戦防御陣地により頑強に抵抗したソ連前線部隊だったが、日本側の敵陣地を破壊するためだけの大規模な戦略爆撃機による絨毯爆撃や一昼夜続いた双方の砲撃戦が終了すると、次第にソ連側の反撃(砲撃)が弱体化し、3日未明にはソ連側機甲部隊による反撃(機動防御)が開始され、攻守逆転した戦車戦がチタ近郊の平原で展開される事になる。
 このため、この戦いを「チタ戦車戦」と呼ぶ事もある。
 事前の状況が覆された事で当初混乱した日本側だったが、この作戦のために精鋭が集められていた事と、制空権が日本側の手にあること、そして基本的に日本側の方が多数の装甲戦闘車両を持ち込んでいた事もあり、ソ連側の何度目かの突撃を粉砕すると彼らは一斉に後退を開始する。これを受けて日本側もようやくイルクーツクに向けての最初の一歩を踏み出し、追撃阻止を図る赤軍側砲兵部隊を空軍戦力により粉砕すると後退中のソ連軍部隊を蹂躙、もしくは包囲殲滅を開始し、以後はまさに豆腐に包丁をいれるかのごとく日本軍の重武装機甲部隊が彼らの陣地深くに切り込み、第一線陣地以外は思いの外弱体だったソ連野戦軍を撃破、事後後退するソ連軍を追いつつ、時には追い抜きながらの進撃が行われた。それはさながら、数百年前に展開された、騎馬蹂躙戦のようであったと言われている。

 ソ連赤軍は、1937年から続いた軍全体の粛正で、ただでさえ人的に弱体化しているのに加えて、1940年の北欧での失敗に影響した第二次粛正でさらに将校・士官勢力の減退をしており、これに加えてシベリアでの二年間の無理な侵攻作戦で、一線級戦力とベテラン兵士を多数喪失し、最初の無理な反撃が撃砕され第一線が突破されると、後方に陣取る多くは政治将校に無理矢理統制された素人衆団に過ぎず、各所で分断包囲、殲滅されていった。また、政治将校と直属部隊が砲爆撃で陣地ごと粉砕さた場所では、部隊ごと戦わずして降伏するものが相次ぐという現象も多く見られた。
 ちなみに、ソ連軍がこの時までに失った兵士の数は膨大な数の捕虜を含めると何と150万人に及んでおり、これまでに受けた損害と、シベリア鉄道づたいで送り込める戦争物資の量を考えると、到底許容できる損害ではなかった。
 これを時のドイツ第二帝国皇帝ヴィルヘルム三世はヒトラー宰相を通じて、『現在のソ連赤軍は腐った木製の扉のようなものである。東洋の友人たちのバイカル湖への道を遮るものなど何も無いだろう。』とコメントしている。もっともこのコメントは、政治的にまだロシアを蹂躙する事のできないドイツの言葉を語ったものとも言われている。
 しかし事実そのとおり、主力部隊の先鋒日本軍近衛機甲軍団は、チタ郊外でソ連軍主力を破って後は快調な進撃を続け、作戦開始六週間で六百キロもの道のりを進んでバイカル湖を望むまで進撃し、その後すぐにバイカル湖を南北双方から迂回して対岸のイルクーツクに達していた。
 他の部隊も同様の快進撃を続け、作戦開始から三ヶ月後には、さらなる西方に存在する都市クラスノヤルスク市を長駆包囲せんとしていた。
 そこはもう西シベリアだった。
 そしてさらに八月半ばには、大敗を喫したアメリカ連合が枢軸国との停戦に合意、欧州ではドイツ軍を中心とした欧州枢軸軍が、開戦準備が完了したとの噂が飛び交い(軍事的には事実だった。)、進撃を続ける日本軍の戦意は高揚し、ソ連軍の戦意は地に落ちた。
 しかもソ連軍内すべてに、欧州から協商陣営を駆逐した枢軸軍、特にドイツ軍の主力部隊が東欧に集結を完了し圧迫を加えており、クラスノヤルスク市陥落と共にうやむやになっていた全枢軸国による対ソ開戦が行われるという噂が飛び交っていた。
 十月十三日、ついにクラスノヤルスク市は陥落。
 これにショックを受けたソ連政府は大規模な政変の後、日本側が再三求めていた停戦に合意。ここに、第二次世界大戦は実質的に終息した。

 その後、この戦乱を総決算を行うため、ベルリン郊外のポツダムで講和会議が開催される事になった。
 「ポツダム講和会議」である。
 この会議には、久しぶりに世界中の首脳が集まった。
 ただしアメリカ大統領だけは、この会議は単なる帝国主義各国の調停の場だとしてこれを非難、国連を中心としたもっと全体的な会議が必要だと要請し、それが各国から断られると会議の不参加を宣言して、北米大陸に閉じこもってしまう。
 太平洋での講和が成立しているとは言え、大国のアメリカが来ないことは、いかにもこの会議を中途半端なものとしてしまったが、自分たちが近代国家である以上大戦争の総決算は必要であり、やむなく顔を出した各国だけで会議は行われることになった。
 会議は、先のベルサイユ会議の轍を踏まないように注意されたが、戦争には勝者と敗者が存在しており、結果として枢軸陣営の国際的地位は高まり、協商側の覇権は大きく縮小し、特に会議に参加しなかったアメリカの政治的地位は、地に落ちる事になる。

 なお会議の結果、イタリア・ムッソリーニ政権、フランス共産政権は解体され、イタリア王国、フランス共和国の再生が認められた。さらに、ソヴィエト連邦が一時期武力占領していたバルト三国が正式に独立復帰し、フランスより北アフリカの一部、ベトナム、ラオス、カンボジア、シリア、レバノン、マダガスカルが独立か国際連盟の委任統治領となり独立準備委員会が設立されるなどの方針が決定され、イタリアよりアルバニア、エチオピア王国が独立を回復し、リビアがイタリアの主権を認めつつも軍事的には国際連盟の委任統治領となった。
 なお、ソ連政府はこの会議で、今回の戦争を呼び込んだ最大の原因だとして最も強く批判され、ミュンヘン会談の取り決めを破り、不当な戦闘行為に及んだ事が厳しく非難され、また日本からの再三の停戦要求を蹴った事も強く問題視されてしまい、一方的侵略行為に及んだ賠償として東欧各国への戦時賠償に加えて、日本帝国へブラーツク市以西のシベリア割譲を受諾させられた。もっともこれは日本政府が、各国に明に暗に工作した結果だと言われている。だが、ソ連以外はだれも文句は言わない事だったので、特に問題なく決議され、軍事的、政治的四面楚歌状態だったソ連も、要求を蹴り全世界を相手に戦争を継続して滅びるよりはマシとしてこれを受け入れる事になる。
 なお、ソ連としては国連除名後の初めての国際会議がこの時の会議であり、どんな形であれ国際復帰できた事も新たなソ連政権にとっては大きな政治得点とされていた。

 そしてさらに新たな国際秩序を作るため国連の組織を大幅に改編し、常任理事国を新たに英連合王国、ドイツ帝国、フランス共和国、日本皇国、アイヌ王国、オーストラリア連邦共和国、インド連邦共和国とした。
 この決定は、国際秩序が明確に世界規模化した事の現れであり、これに関してはどの国も異を唱える事はなく、むしろ絶賛された。特に未だ欧州各国の植民地支配下にある地域からの期待は大きく、国連としてもこれにある程度応えざるをえないものとなっていく。もちろんこの流れを作ったのは、いまだ世界のオーナーを自認する英国とアジア・太平洋圏最大の大国の日本帝国だった。
 なお、今回の会議により国連の組織そのものの改変もおこなわれたが、これにより強い国際的な権限と紛争当事国や地域に武力行使が行えるようにする改訂が行われた。
 だがこの度もアメリカ連合は、自らの基本的外交方針を堅持し国連参加を否定した。
 またソヴィエト連邦は、実質的に全ての国に敗戦したスターリンの権威が著しく衰えることとなり停戦直前に失脚、事後ソ連国内で政治的混乱が発生し、フルシチョフが暫定書記長として講和会議に臨んでいた。
 その後、講和会議のさなかようやく新体制を成立させる。新たな体制は、ドイツに亡命していたトロッキーがソ連共産党に復帰し、臨時書記長となっていたフルシチョフが彼の復権を押し進めた事から彼を新書記長としてようやく安定しているが、この混乱の為に国連再加盟の機会を逸し、当面は参加復帰を見合わせオブザーバーの地位に留まる事になる。
 そして、政治的混乱に見舞われたソ連はともかく、今回のアメリカ国連不参加は、明らかに列強忌避からくるもので、次なる戦乱の予想を各国に感じさせるものがあった。



◆九. アメリカの混乱と増長