九. アメリカの混乱と増長

 太平洋戦争で敗戦が続く中、アメリカ連合国内は混乱の坩堝と化していた。
 それは、西海岸一帯に深く根を下ろす日系移民「ニッポーニーズ」が原因だった。
 彼らは日本帝国との戦争中、ニッポーニーズは全体としてはアメリカ国民として政府を支持していたが(二度目のアメリカ南北戦争に自分たちが協力したからこそ南部連合が勝ったとして、それにに強い自負心を持っていた)、中には戦争に必ずしも協力的とは言えないものや、明らかに日本帝国、日本人勢力を支持する者もいた。特に『日僑』と呼ばれる、国際的に活躍する日系アメリカ商人達からすれば、自分たちは単に国籍がアメリカに属しているだけで、アメリカ連合を支持する理由はあまりなかった。民族的帰属意識からすれば、彼れはアメリカ人でなく日本人だったからだ。しかも彼らは大抵の日系市民と違い、19世紀半ばの合衆国による強引な西海岸併合を恨んでもいた。ついでに言えば、ユダヤ民族的なアメリカ的拝金主義社会も日系商人との相性は悪く、これが西海岸経済をアメリカの中にあって独自の地位を継続させ、アズトランの流れを汲み似たような性質を持つテキサス地域と共にアメリカ国内での二大商業圏を作り上げ、この力の背景があったからこそ、アメリカ国内外で『日僑』が活躍できたとも言えよう。

 また、アメリカに併合されるずっと以前から強固な日系社会を維持し、東洋的伝統に根ざした近代社会を持っていたニッポニーズからすれば、最近の政府の方針は明らかに間違っていた。
 彼らに言わせれば、目先の利益だけを求めた安易な戦争でなく、外交と経済で日本帝国に対抗するのが当然で、できうるなら協調して欲しいというのが偽らざる本音だった。また、アメリカの建国理念がまだ生きているのなら、なおそうするのが当然だと考えられていた。だからこそ、自分たちも日本の旗を捨ててこの地に止まったのだと。
 しかし他のアメリカ市民、特に白人層は、彼らのそうした言動や一部の強硬な行動を、同族意識から来るものとして大いに不審に思い、それは戦時という特殊な事情と当時の白人種特有の差別主義から容易に迫害、暴力へと発展していた。
 そしてその迫害は、当初日系もしくは日系と間違われたアジア系住民だけが対象だったが、これを契機として根強い人種偏見が吹き出し、有色人種全体に広がるのに時間はかからなかった。それは太平洋戦争が米軍不利となった1942年夏以降激しくなり、その年の冬には大規模な内政的問題へと発展していた。
 これに焦ったのは政府であった。日系社会は西海岸全土を覆っており、彼らと仲の良いネイティブ系を含めればその人口は総人口の四分の一に達し、経済力はステイツの三分の一にも及び、特に西海岸諸州は歴史的経緯から実質的には州と言うよりは、彼らだけの自治国とすら言えるからだった。これは、第一次、第二次双方の南北戦争時に果たした彼らの役割と、連合の緩やかな団結、自由貿易主義という政治風土がそれを許していた。
 このまま国内の混乱が発展すれば、戦争の継続すら困難になるのではないか? ヘタをすれば再び内戦が発生するのでは? それに乗じて、諸部族連合などが侵攻してくるのではないか? いや、本当に彼らが日本帝国を領土内に手引きするのではないか? など白人種達の間でマイナスな考えばかりが彼らの脳裏を駆けめぐった。
 このため政府は、戦争中に様々な対策をとり、大統領宣言として何度か混乱を鎮めるための政治的行動が取らざるをえなかった。
 第一に、日系の心をこれ以上アメリカから離さない為に、日本帝国から西海岸を絶対に守ると言う態度を見せる事だった。このため、現地部隊にはかなり無理を強いることとなり、これは結果として早期に米軍が敗北する原因ともなるが、内政的にはある程度の成功を収め、日系を含め全てのアメリカ国民も政府の対応を支持した。
 次に、迫害、暴力が発生している諸州、特に両者が混在している中西部諸州の混乱を収拾するために、あえて日系を始めとする有色人種系住民を保護し、白人でも理不尽な暴力を行ったものを厳しく罰した。
 これは、西海岸の好意を得るため有色人種解放を唱い上げた、彼らの力で南北戦争に勝利したと言ってもよい南部連合政府としては当然の対応とも言えたが、根強く残る白人至上主義者からは非常に大きな不満を買うこととなり、混乱が一時的に沈黙した代わりに、より根深いところで有色人種と白人との間に溝を作ることとなった。

 それは、戦争中にも吹き出すことになる。1943年6月末のハワイ陥落がその引き金となった。
 ハワイ奪還を宣言した枢軸軍は、その後も大艦隊をハワイ近海に止め、そればかりか西海岸への侵攻を伺わせるそぶりすら見せていた。もちろんこれは、枢軸側の政治的な動きと連動しており、実際侵攻する気は皆無だったのだが、それを眺めていた米国民は違う解釈をし過剰に反応する事となった。いや、この反応こそ枢軸側が望んだ結果とも言えた。
 その動きは、大きなところでは米政府を講話の席へと着かせる原動力ともなったのだが、国民の中の一部、急進的なニッポニーズと白人至上主義者たちはそれぞれ違った解釈をした。
 急進的なニッポニーズは、自分たちの宗主国が遂にアメリカ大陸での反撃の狼煙を上げるのだと考え騒ぎ立て、西海岸の一部では大規模なデモ行進などにも発展しつつあり、中には「大日本帝国万歳!」と叫び、逮捕される市民も出していた。
 一方白人至上主義者たちは、国内の黄色人種たちが日本帝国を手引きして西海岸に招き入れ、自分たちの理想郷を蹂躙するのではと一方的に疑い、それを北部を中心に喧伝して回り、休戦が成立する43年夏には、反ニッポニーズと言う形で一つの大きな流れを旧北軍各州を中心に作りつつあった。
 いっぽう、州全体として冷静だったのは、意外な事に南部の諸州だった。
 南部人は南北戦争以後、国家を統一するまでに有色人種がいかに国の為に尽くしたか、また分裂時代に隷属、使役から双方の協調の歴史を歩まざるをえなかった事から、北部人などよりよっぽどよく有色人の事を知っており、彼らの現実感覚からくる民意からすれば当然とも言える感情でもあった。
 この冷静な市民の動きは、白人至上主義者の心理を刺激することになる。特に北部のWASP(白人優先協会)などは同じ白人なのに有色人種をかばうのか、と。
 だが、これに冷静なアメリカ市民達は反論した。今は全ての国民を揚げて国をもり立て、戦況を立て直す時であり、そのような偏狭な視野に基づいた混乱を引き起こしている場合ではない、と。まさに正論だったが、それだけに双方の一部の過激派は激しく反発し、さらに極端な行動を起こすようになる。
 一部では人間の最も浅ましいとされる暴力、略奪、暴行、私刑が横行していた。もしこの流れがもう半年続いていれば、アメリカという理想がどうなるかを十分に感じさせるものがあった。
 この流れに一時的に冷や水を浴びせることになったのは、皮肉にも日米休戦成立だった。
 アメリカの敗北とその後の日本政府の寛容により、太平洋全域で行われた大戦争が本当に国内に及ぶことなく、そして多くのアメリカ人にとって本当の意味での関わりになることなく終了した。
 この事実の前に双方の極端な活動は、取りあえず事が終わったことにより沈静化したが、白人達はこの休戦により自らのプライドの傷を深くする事になる。黄色人種に敗北し情けまでかけられたと。
 彼らのプライドからすれば、全く許容できる事ではなかった。彼らは日本人から、自分たちがナンバー1でないと宣告を受けたと解釈したのだ。
 だが、当面の怒りは戦争に勝った日本帝国や、その眷属であるニッポニーズに向かうことなく、政府に向けられる事になる。
 そして、これに国内問題には冷静だったその他大勢のアメリカ市民も同調した。

 そうアメリカ世論は、無定見な戦争を起こした政府と軍の弱体を激しく非難したのだ。
 そして、その後の欧州列強による一方的な新たな世界秩序再構築(講和会議と国連の改訂など)と政府の無策により、自分達が完全に孤立したと感じた民衆の不安と不満は頂点に達する。
 そして、これを機会と見た元陸軍軍人ダグラス・マッカーサーはこうした民衆の不安を代弁し、政府を激しく非難、自分ならこの苦境を脱するばかりかアメリカを世界のリーダーにしてみせると高らかに宣言し、民主党よりアメリカ連合大統領選挙に出馬、そして東部全体の圧倒的支持のもと1945年第三十四代アメリカ大統領に就任した。副大統領には同じ民主党のジョセフ・ケネディが就任した。これを民主党による独裁体勢の確立、新たなルーズベルト時代、ネオ・ニューディール時代の幕開けだと共和党は非難したが、日頃の弱腰を民衆とマスコミに非難され、この発言はすぐに沈静化した。
 しかし独裁ではなかったが、アメリカ連合の新政権が以前のルーズベルト以上、ついに世界の主流になることがなかった全体主義的であったのは間違いなく、新たな大統領の誕生に旧枢軸各国は警戒感を強くした。

 大統領に就任したマッカーサーは、まず戦中の反動で急速な軍縮傾向にあった軍備の回復・増強を図った。そして直接的な通常戦力の回復と新兵器の開発、これらを含めた総合的な軍備増強計画『V(ヴィクトリー)計画』の始動を命じた。
 新たな大統領は、軍事力の再建こそが、アメリカを再び世界の舞台に押し上げるだろうと断言した。
 この政策は、戦争の突然の終結で経営が傾きかけていた国内の軍需産業と、敗戦による不景気到来で失業を懸念していた国民の圧倒的な支持を受け推進される事となる。
 後の戦争で判明した事だが、『V計画』の中核となる新兵器とは当時各国で盛んに行われていた、次期主力戦略兵器である核分裂兵器、そして発展型である核融合兵器とその運搬手段の開発計画を中心とした巨大な軍備拡張計画であった。
 ちなみに核兵器の開発は、1940年頃より列強各国でも行われ、それぞれ計画名はドイツでは『フリードリヒ計画』、日本では『D計画』、イギリスでは『G計画』と呼ばれ、アメリカでのそれは『マンハッタン計画』だった。この他、ソ連、フランス、オーストラリアなども研究を始めていた。
 そしてマッカーサー大統領が精力的に進めるアメリカの計画が、最も大規模で先進的だった。
 一方同程度の国力を持つ日本帝国は、当時国力の過半を別の方向に力を注いでいることと、戦後という事情もあり核分裂技術開発については比較的低調だった。
 また、実弾の研究・開発以外にも、その運搬手段の開発も急がれた。
 それは戦略爆撃機だった。これは他国でも同様だったが、アメリカでは遠く本国から直接相手の首都を爆撃できる巨大なものが開発された。アメリカの国情がそうした兵器の登場を要求し、また基礎工業力に優れるアメリカだからこそできる事と言えるだろう。もっとも日本では同様の兵器が既に登場(『連山』重陸上攻撃機、もしくは最新の『富嶽』重陸上攻撃機)していたので、これを恐れたアメリカがさらにこれを超えるものを目指して開発したというのが一般的な見解だった。日本がこの種の兵器の開発に熱心だったのは、航空決戦主義に従い外洋遙かに敵を捕捉撃滅するために過ぎず、事実当時の軍主力爆撃機の『連山』は低空での絨毯爆撃や対艦攻撃を重視していた。
 ちなみにドイツでは、軍部の航空機育成方針と国土的な問題を主因として長距離爆撃機分野で他国に遅れていたため、長距離大型爆撃機の開発は短期的にはあきらめ、もっぱら民間レベルで大きく進展していたロケット式の運搬手段の開発に専念していた。これは日本でもアメリカ大陸偵察の為の人工衛星打ち上げという、より気宇壮大な別目的で研究開発が進んでいたが、ドイツ帝国の方は実にドイツらしいやり方で成功をおさめ、1945年の時点で世界初の準中距離弾道弾の配備を開始していた。これもアメリカの行動を促進させる要素の一つとなり、技術の確立とその奪取に躍起になることになる。なお、日本が長距離ロケットで大きな成果をおさめるようになるのは、第三次世界大戦を待たねばならない。
 もちろんこれら超兵器の開発だけでなく、先に挙げた通常兵器の開発、製造も急ピッチで行われた。中でも太平洋戦争で壊滅した海軍の再建は急務で、多数の艦艇が当時の戦時計画をリファインして建造され、その多くがまずは大平洋へと配備された。

 そして軍備の増強にともない、外交も基本的に武力を背景とした膨張外交を中心にしたものとなる。
 その主な内容は、第二次世界大戦で発生したフランス亡命政権を支持し、枢軸国各国にこれらの政府の再興と利権の返還を求める事と、もう一つは各国が所有している植民地の独立を訴え、戦後の経済復興のためにとかく閉鎖傾向になりがちな各国の貿易体勢を批判する事に終始した。
 フランス政策では、この強引な動きと、戦後の非戦ムードの流れにうまく乗り、アフリカ西部の旧フランス植民地の大部分を参加させる事に成功した。
 これによりフランス亡命政権、自由フランス政府などと呼ばれていた存在は、フランス連邦共和国としてダカールを仮首都として発足する事に成功する。これには、フランスの大半の植民地が従う事となり、その後各地で戦乱の火種をばらまくこととなった。
 しかし植民地の独立については、日本が国家再編成と環太平洋条約機構と言う違った回答でこれに応え、最大の植民地を持つ大英帝国も一部地域の自治独立を以前より積極的に押し進めていた事から、あまりうまくいかず、アメリカの主張は空回りする事になる。
 また、軍事力による膨張外交方針にのっとり、隣国の諸部族連合、アズトラン連合王国に対する軍事的圧力も強め、両国との関係は悪化の一途を辿っていた。そして当然だが、国連からも永世中立国として認められているアズトラン連合王国への圧力増大は、太平洋諸国、欧州諸国双方からの反感を買い、再び対立を深くする原因ともなっていた。

 こうした膨張外交の中、マッカーサー大統領は1946年1月の定期的な遊説中の席でこう語った。『世界は未だ国連と言う名の皮をかぶった旧植民地帝国郡の支配するところにあります。これらを構成する主要な国々は、過去の歴史を見るまでもなく自らの利権のみを考える誠に悲しむべき傾向を持っています。これは、彼らがいまだ帝国という言葉を国名に冠していることからも明らかでしょう。
 つまり、彼等の支配する世界に全ての人々の幸福はありえないのです。
 私はここに、列強と呼ばれる国々に提案します。国連を人類すべてが参加できるよう再編成し、各国の軍備を大幅に削減し、全ての占領地、植民地を独立させ新たな世界秩序を築くことを。そして全て人々が豊かな生活が享受できる社会を作るための努力をすることを。これこそが来るべき未来の最上の方策だと私は一人のアメリカ市民として提案します。そして、そのためならば私を始めとするアメリカ国民はその努力をおしまないでしょう』と。
 これは明らかにアメリカが、太平洋戦争以前と何ら変わりない膨張主義的傾向を持っている事を自ら明確に発言した瞬間でもあった。そして、この発言は旧枢軸国側を再び警戒と団結の予備交渉へと走らせる事となる。
 そして、この強気の発言は米国が核分裂兵器の開発を完了した印しに他ならなかった。


◆十. 中華分裂