十. 中華分裂

 太平洋戦争と二度目の欧州大戦という二つの戦乱を総称して「第二次世界大戦」と呼称された戦乱の終息により、世界は取りあえず平静を取り戻す事となった。
 だが、総じて第二次世界大戦は中途半端な結末であると言われる通り、世界平和が実現したのでなければ、戦争の火種が消えたワケでもなく、むしろ欧州中央以外での戦争の危険度は高まったとすら言えた。
 そして近代世界の理論とは違った理屈で動く中華大陸では、戦後世界中であまった余剰兵器の安価売却により、30年以上続いていた内戦がますます激しさを増しつつあった。
 また、旧フランス植民地では、ダカールに仮本拠を構えるフランス連邦派によるゲリラ的な紛争が、北アフリカ、インドシナ、南太平洋の各地で発生していた。
 これを憂慮したアジア・大平洋各国だったが、国連による暗黙の取り決めによりフランス問題はとりあえず欧州諸国に任せられ、自分たちはまずは支那問題の解決を図る事とし、内乱で荒れ狂う支那に対して国連よる軍隊の派遣を含める調停を提案した。
 これこそが、19世紀末から欧州が日本に求めた続けていた、国際的な警察官としての活動だった。
 そしてこれを受けて国連は、組織改定後の最初の軍事力の派遣を決定する。もちろん主力となるのは近隣で最も巨大な軍事力を誇る日本帝国で、日本が世界的覇権国家、責任ある覇権国家つまり「世界帝国」として行う、大規模な警察官的海外展開となる。
 また、オーストラリアもこれに大規模な参加を表明しており、豪州政府の基本外交方針が、宗主国の英国重視からアジア・太平洋重視に明らかに転換した事と、自らも列強の仲間入りした事を明確に示した。
 一方、この資本主義列強による動きに、新たな指導者のもと混乱から立ち直りつつあるソヴィエト連邦も、自陣営に属する中華ソヴィエトの支援という目的のもと独自に介入する方針を決め、国連や国際秩序を無視してその行動を起こしていた。
 そして当然、膨張主義の道へと再び戻ったアメリカ連合も、蒋介石率いる国府軍との関係を理由に支那問題に関わっていくことになる。
 つまりは、第二次世界大戦後の世界観系の縮図が、数年を経ずして中華大陸に現出したのだ。

 介入当初国連軍は、この列強各国の軍事介入に対して、支那混乱の元凶を中華共産党にあるとして、この殲滅に力をいれ、中華民国政府を正式な統一政権として支持、調停しようとしていた。
 これは、世界の多数を占める資本主義列強にとって、無軌道な共産主義こそが一番の邪魔だったからだ。
 しかし、当然と言うべきか方向性の違う列強各国が深く関わったこの軍事介入は、かえって支那内戦を激化させる事となり、国連軍による中華中央部沿岸地帯の安定化と各地方勢力の自衛行動の結果、現地支那政府からすれば惨憺たる結果を数年後に導き出していた。
 そう、各地で中央からの支配を離れた、それぞれのイデオロギーを代表する独立政権が誕生する運びとなったのだ。
 またこの時、近隣で最大の国力を誇る日本帝国は、1930年代に混乱の中自らの手びきにより誕生させた広東政府も、選挙の実施など既成事実として華南地域の独自政権として存在している事と、華南地方は歴史的に華北地域とは民心的に同一でないとして、国連の民族自決主義を拡大解釈して、この存続を主張していた。これは、この地域に大きな利権を持つ西欧各国も自らの利権を保持しやすいとして支持にまわり、半ばうやむやの内に国連の意志として承認される事となる。
 さらに日本帝国は、国連の方針が民族自決にあるとして、旧覇権国家であった清朝と同様の版図を全て中華民国として承認してはこの精神に反するとして、支那地域内にある多数の異民族居住地域は、分離独立させる方向で調整される方針も決定させた。これに、当時植民地を解体し、自らを中心とした一種の連邦国家を作りつつあった欧州列強を始めとする世界世論は、国連の席上で日本の主張を絶賛し、新たな支那の展望をほぼ満場一致で承諾、初期の案、もう一つの案であった中華連邦化構想が採択される事はなかった。
 全ては、日本帝国の思うつぼだった。
 この方針を世界標準とするために、日本政府は半世紀も前から世界中で宣伝工作を駆使してきたのだ。
 また、自らの世界規模での覇権維持に執念を燃やす英国外交も、ここで大きな役割を果たした点も無視できないだろう。
 こうした太平洋諸国を中心とした列強の一部の偏った勢力への軍事支援と狡猾な政治的動きに、外国勢力を利用する事を中華世界の覇権確立の重要要素として考える支那国内の各派は反対に利用される事になり、列強から見ると無定見に武力闘争に明け暮れているとしか見えない支那国内の各派は踊らされ、支那各派の中で唯一強固な思想的統一を見せる共産中華を支持しテコ入れした筈のソ連政府も、この人の海の混沌に流され翻弄さる事となる。これは利権保持、獲得のため強く中華民国支援に回ったアメリカ連合についても同様だった。特に中華民国に20億ドルもの無償援助したアメリカの傷は深く、彼らの援助は一部の軍備以外は中華民国支配層の懐に入るだけで、内乱に大きな役割を果たすことはなかった。
 そして内乱は、この混沌とした中華世界で最も統率が取れ、華南勢力と結託した国連軍主導のもと勢力境界が決められる事になり、これに日本、英国などがチベット、雲南、満州、蒙古など中華外郭勢力と強く結びついた事が重なり、一九四八年に一応の成果を見た国連軍主力の撤退をもって終息する。

 そして中華世界は、国連が議題提出当初目標とした統一とはほど遠く、四五分裂の状態となった。
 内訳は、華北・華中沿岸部を中心とする中華民国(北支那)、西安を新たな中心として内陸部を実行支配する中華人民共和国(紅華)を最大組織として、東北部で近代国家として最も成功している満州国(1945年に帝国の文字をはずしたが立憲君主国は変わり無い)、共産主義のくびきから逃れたばかりの蒙古共和国、内蒙古王国、なし崩しにソ連の衛星国となったウイグル民主主義人民共和国、念願の独立を果たしたチベット法国、何とか生き残りに成功した雲南王国、そして戦前より混乱を避ける為に自治を宣言していた広東省を中心とした華南地域一帯が、正式に中華連邦共和国(南支那)として国連より認められた。
 つまり、当初一つにまとまる筈が、9つもの国に分裂した事になる。これに漢民族が中華世界の一角と考えるインドシナや朝鮮半島などを含めれば、春秋戦国もかくやという事態とも言える。
 当然、この分裂状態を中華民国政府はもとより支那各国は国連を強く非難したが、国連や列強の干渉や後ろ盾により自分達の政権も安定させたのだから、国際的にあまり大きな事は言えずしだいに沈黙し、最大勢力の中華民国がアメリカの支援を受けながら中華共産党など近隣同胞との冷戦状態へと突入した。また、同じような政治形態を選択しているはずの中華連邦共和国(南支那)と中華民国の仲は、歴史的な南北対立と国の成り立ち、そしてそれぞれ背後についている勢力の影響もあり極めて険悪で、これ以後、中華人民共和国と合わせて、中華大陸中央部で三竦みのにらみ合いを演じていくことになる。そしてこの状態こそが、それ以外の中華地域の分離独立を容易にしたのだ。
 また満州国は、完全に独立国として国際的に認知されると、ことさら満州の文化保護と拡大を促進するようになり、その反動から今まで清朝の支配下にあり、その伝統的風俗に汚染されていたとした中華各国で満州文化の排斥運動が盛んになり、その当時の葬式の際の正装や、「チャイナドレス」で有名なドレスなどが北支那と紅華の双方で人為的に消滅させられ、苦労して明朝当時の中華文化の再興が盛んになることになる。一方、資本主義的思想が欧州や日本からの伝搬と指導で浸透しつつあった南支那では、現実的な考え方からそのような不毛な事態に発展せず、清朝時代の文物もそのまま定着している。
 ちなみに日本帝国は、西欧列強と共に満州国、蒙古、内蒙古、南支那、雲南との協力関係を結んで、中華中央の封じ込め態勢を作り上げている。
 こうして支那問題は、国連から見れば民族自立を前面に押し立てた事になるので、この結果に大いに満足した。事情を詳しく知らない西欧人たちは、この度の中華分裂を第一次大戦直後のオーストリア帝国やトルコ帝国の解体と同列、中華大陸の真の近代化の象徴と見ていたのだ。
 そして本来の目的通りに支那の潜在的力を著しく削ぎ、さらに彼らの目の多くを海から離すことに成功した日本政府の喜びは大きなものだった。この喜びは、馬厩皇子のあまりにも有名な中華帝国への親書を出して以来感じ続けていた中華コンプレックスと呼んでよいものを完全に克服した瞬間でもあった。
 それだけ、日本人達は大人口をかかえる中華の潜在的力を恐れていたとも言えるだろう。

 そして、大陸問題を片づけた日本人たちは、次なるステップへと急速に方向転換を行う。
 大陸支那は片づいた。これで後顧の愁いはなくなり、あとは先の大戦であえて棚上げとしたアメリカとの大平洋をかけた覇権を争うだけ。それにより、日本人の百年の繁栄は保証されるはずで、日本は真の覇権国家、世界帝国となれる筈だ、というワケだ。
 この伝統的日本第一主義と反米観念に後押しされた日系国家群(この頃には世界的に「Jシスターズ」の名前が定着していた)は、対アメリカ包囲網の形成に力を入れる動きを加速させる事となる。
 新たな帝国の胎動の始まりだった。


◆十一. 日本帝国の再編成