十一. 日本帝国の再編成

 Jシスターズの再編成、それは再編というよりも新たな国家体制の建設、識者によっては第二の近代化革命という意味を込めて「昭和革命」だとすら定義している。

 第二次世界大戦後、1944年春より開始された日本の政治的、国家的再編は、まずは最大の仮想敵であるアメリカに対して主に国家体制の集中性という点で劣っている事から、外骨格となる日本帝国そのものの政治的結束強化が図られる事となる。
 これは、戦前からアイヌ王国を中心として水面下で実働していた事だったが、もともと明治の頃から一部識者と政府組織の一部で長らく研究が続けられていたため、比較的スムーズに運ぶ事となった。

 日本帝国の一番の懸案は、その政治形態にあった。
 明治革命以来これまでは、日本皇国政府とアイヌ王国政府という二つの異なる政府組織を中心として、大日本帝国憲法という一つの憲法のもと日本帝国政府とアイヌ政府に二分した二重国家のような形で存在し、他にも多数の邦国が帝国を構成するという、成立当初から21世紀に一般的になる、ゆるやかな連邦国家、国家連合としての体裁を持っていた。
 だが当時は、これでよく今まで致命的な問題に発展しなかったと、国際的には日本の奇跡として知られていたことだが、これは時代が世界規模の戦乱の世に進むにつれて、さすがに対応しきれない事態が発生するようになった事が主な原因となり、戦争が終わったとこの時にとばかりに徹底的に改訂される事になったのがこの時の国家改変の流れになる。
 これほど大きな政治体制の変革を日本人達に決意させたのは、太平洋戦争とその少し前の政治的混乱と外交の不味さが原因だった。
 特に日本圏全体の権力重心が、東京とオタルナイによる楕円状だった事は致命傷とされた。もちろん、新たに誕生する政府は、日本皇国やアイヌ王国を母体としてはならないのは分かり切っていた。
 そこで新たな中央政府は、それまでの日本皇国政府でもアイヌ王国政府でもなく、それとは全く別に日本帝国単体として、各国の全ての上位組織となる「日本帝国府」と「日本帝国議会」が設置され、そこに強大な権限を持たせ、日本帝国が保有する全ての権力が集中される事となった。
 ちなみに、なぜ帝国府と言う名称とされたかだが、先にも述べた通り「日本帝国(Empire Japanese)」と言う国家は、多数の異なる統治方法を持つ国の集まりである実質的な連邦国家だったが(天皇制、王国制、公国制、連合侯国制など各種立憲君主制と直接統治、一部共和制)、天皇という王族を立て「帝国」の名を冠している以上、連邦政府、帝国連合政府などの呼び方を選択する事は、民族のアイデンティティーと言う点で許容できる事ではなく、あえて古い呼び方が選択されたと言う経緯があり、太平洋各地に存在する日系国家が依然として辺境伯領のような精神的状態で存在している点も深く影響していた。
 言い換えれば、これから誕生する「日本帝国」は、日本人全体とっての「本領」として統合された国家中枢であり、移民比率や歴史的背景から日系の影響の強いオーストラリアやアズトラン、文化的影響圏と言ってよい諸部族連合、インドネシア、満州、韓国などが「辺境伯領」にあたる事になり、日本の影響の尺度はその地域にどれだけ桜の木が植えられている測られると揶揄されていた。
 つまり、日本帝国そのものが、「連邦国家」としてさらに膨張したが故の今回の大改革、と考えてもよいかも知れない。そしてこれは、「帝国」と言う文字を冠していながら、実質的にはこれより後に世界中で誕生する国家連合の最初の例であり、結果的に同種の国家建設に失敗したアメリカの正統なる後継者という大きな皮肉にもなっている。
 なお、統一政府原案を作ったのがアイヌ人であった事から、各政府組織の名称は当初はもっと抽象的なもだったと言われている。それはアイヌの政治家、官僚たちが、前時代的な「元老院」や「大議会」などと言った時代がかった言い方に非常に不満を持っており、20世紀の近代国家ならそれに相応しい名称が必要だと考えていたからだった。これは、議会の「上院」と「下院」という呼び方にその名残と留めている。

 帝国府は、帝国の象徴君主たる天皇を元首としつつも、あらゆる政治的最終的決定権を持ち、また直接的に全ての軍隊をコントロールし、各国政府よりも強い政治的権利が与えられたものだった。
 つまり、国家の主権は天皇にはなく、完全な立憲君主態勢がこの時憲法の上でも形作られたと言える。
 そして国家の長たる帝国府主席は、『帝国府主席は天皇を補弼する』という憲法条文のもと、共和国家の大統領に匹敵する強い権限が与えられており、権力の代行者としてほとんど全ての政治的、軍事的な決定権を持っていた。
 帝国府主席の任期は4年で、国全体の直接選挙と天皇の任命によって選出される事になり、アメリカが慣例でしかない二期以上の連続選出は憲法上で否定されていた。そして、主席を頂点としてその下に長官という名の新たな大臣が設けられ、主席の要請に従うという形をとって選出される事になっていた。
 そして、政治改革の影響は軍にも及び、従来の海軍だけでなく各国陸軍もこの帝国府の政治的統制の元統一され、日本帝国を構成していた全ての国の軍隊は、統一された軍事組織として再編成される事となる。これにあわせて、いままで陸軍省、海軍省、軍需省と分かれていたものが、国防長官と国防省、実戦部隊の長となる統合幕僚本部に一元化、全てはその下部組織とされ、唯一各国の近衛隊と海軍(アイヌ系国家では、海軍は全て国王の持ち物で近衛軍とされていた)の実戦部隊だけが、東洋的政治的抜け道を残すという内政的目的に従い、特例として各国に従属する形がとられていた。
 もっともこれは、対外的に日本軍の正規軍が派遣できない時に、自由に使える兵力を保持しておこうという目的と、海軍のシステムがアイヌ系と日本系が、似て非なるもので、すぐの統一が難しかったからという理由も存在する。

 話が少し逸れたが、長官の統べる事になる行政機関だが、帝国府として省庁も新たに帝国政府のものとして設置され、大きく内務、財務、法務、国防、厚生、産業(商工、農林水産)、国土(土木、国土開発、運輸)、文部(文部、科学)、情報(情報、通信)の9つとされ、本来国家に最も不可欠とされる外務に関しては、他の小さな政府機関同様、主席直属機関として外務長官がおかれ全ての組織はその下部組織にされ、他の諸外国とは一線を画した。
 これは、中央がより強く外交を制御するためであり、主席の権限をより強くすると同時に、歴史に学んだものだと発表時に居合わせた記者達には説明された。
 また、主席と長官には補佐官制度が布かれ、官僚でない個人的なブレーン組織を持つ制度が導入され、意志決定速度の迅速化を計ると同時に、官僚と長官の違いを明確にした。
 一方、三権分立の要となる日本帝国議会は上院と下院に別れ、それぞれ200議席、400議席を定数として各地域の人口により相対的に割り振られ選出される事になった。なお、任期はそれぞれ4年で、2年ごとに上と下で交互に選挙があり、4年ごとにに選挙区決定のための人口調査が行われ、それにより選挙区などが告知される事になっており、また、いかなる理由があろうとも決して議席の数は増えないと明記されていた。
 ただし、議員はそれまで各国で分離したような形だった政界大再編がうまくいかず、次の大戦後ようやく落ち着きを見せる事になる。
 なお、これに併せて三権分立のもう一つの頂点にあたる司法機関の統一も図られ、帝国裁判院が設立、帝国全土の法務機関の頂点として再編成され、日本帝国としての三権分立の統一が初めて実現する事になる。
 また、この時統一されたものに警察機構も含まれ、各国警察の上位組織として「帝国警察(帝警)」が作られ、帝国領内の広域犯罪に対処できる態勢がこの時初めて作られている。

 そしてこれらの大改革により、地方政治体としてあまりに巨大な日本皇国は、それまでの中央政府でなく単なる地方政府的組織に格下げされ、新たに再編成された地方政治組織を他国同様天皇が名目的に支配する立憲君主制の形が取られる事になった。
 こうして旧日本帝国政府は日本皇国政府として再編成され、さらに後の時代には「道」を単位とする分権が図られ他国とのバランスを取りながら、立憲君主を旨とする地方組織に簡易改変されている。つまり、この時日本皇国と日本帝国が、ようやく一つにおさまったとも言えるだろう。
 同様にアイヌ王国でも、それまでの国王による直接統治制度が改められる事になり、かつてのドイツ程度の国王が間接的に支配する立憲君主制を取る方式に変更され、そればかりか国家システム上の問題から、形式的ではあったが天皇家の下に立つ事にもなり、これにより日本帝国全体の象徴が誰であるかを明確にする事とされた。もっとも、アイヌ系国家では中央政治家を王族や貴族以外から選出するには、人材面とそれまでの組織的に難しい事から、混乱を避けるためにその後しばらくは、王族や貴族から有能な人物を選出していたに過ぎなかった。つまりは、日本帝国としてまずは体裁を重視したのだ。
 なお天皇は、象徴的立憲君主として日本帝国全体を間接統治する形となるが、アイヌ王国以外の独自の王家を持つ国内国家は、以前同様王家や公家による直接統治に当面変化はなかった。

 そして、これら国家中枢の再編成を受けて、日本帝国各地域も政治的に再編成される事になる。
 その結果構成国家は従来よりも細分化され、『日本皇国(順次いくつかの「道」に分立予定)』、『アイヌ王国』、『琉球王国』、『台湾公国』、『呂宗共和国』、『明多首長国』(呂宗共和国から分離)、『ニタインクル公国』、『レプン公国』、『北海道諸侯国』、『アムール侯国』(北海道諸侯国より分離)、『ザバイカル侯国』(新たに成立)、『南洋諸侯国』、『豊南侯国』(南洋諸侯国より分離)、『入武侯国』(南洋諸侯国より分離)、『苅間侯国』(南洋諸侯国より分離)、『新奄美侯国』(ニタインクルより分離)、『フィジー侯国』(ニタインクルより分離)の17カ国とされた(後に元日本皇国の各地が「〜道」となり6つに分立する)。
 また、今まで日本皇国と日本帝国双方の首邑を兼ねていた帝都東京は、当面は日本皇国のみの首邑とされたが、新たな帝国の首邑は旧都である「京都」に戻す事が決まり、帝国府の特別区として日本帝国の決意を内外に示していた。また、危険分散の為に副首邑としてアイヌ王国のモショリ島の中心にあたりアイヌの聖地と言っても良い「チプカニ」が指定され、同時に軍部も組織の大幅改変に伴い各地に本拠地を構え直し、国防総省は旧大阪砲兵工廠跡に建設された。
 そして、これに前後して巨大な予算が組まれ、新たな都市計画のもと新行政区画(+大型飛行場)の建設が行われることになった。ちなみに、二つ都市が首都に選ばれ本当の理由は、内陸にあり防衛に向いているという現実的な考えからに過ぎなかった。
 ちなみに、新たな都の建設や旧日本皇国内の分立は、これによる新たな内需拡大政策の一環と受け取る事もでき、事実戦争を挟んで長らく続いた建設ブームを中心とした好景気の大きな原動力となっている。

 なお、この日本帝国の再編成は、一見帝国主義時代以前の大諸侯連合帝国、もしくはドイツ第二帝国のような国家制度的にやや遅れた政府(国家)の誕生のようにも見えるが、全ての上に君臨するとされた天皇は、何度も言うように「君臨すれど統治せず」と言う言葉を全く具現化する存在にされ、実際は帝国府を頂点とする連合国家となり、新生日本帝国が真に近代的な立憲君主国である事を内外に知らしめていた。
 そしてこの帝国再編は、以前にもまして強大な一大連邦国家(連合帝国)の出現であり、人口約二億を有する(ほぼ)単一言語と国民意識で統一された近代国家の誕生でもあった。
 地方政府組織が以前よりも多くなったのは、各地の微妙に違う民族感情の対立回避を狙ったもので、その構想が正しかった事は以後の歴史が証明していると思う。そう言う意味では、帝国政府そのものが地方に対して連邦政府としての性格を持っているとも言えるだろう。

 新たな日本帝国は1947年4月1日を以て発足し、元号も全て日本皇国に倣うなど細かな点においても一元化される事となった。
 ちなみに、この帝国改変後しばらくは、帝国構成国家全域に自分たちが「日本帝国」の国民である事を自覚させる為にと、やたらと国旗である日の丸がへんぽんと翻るようになり、構成各国から『役所的』との非難をあび、第三次世界大戦以後は節度ある程度におさまっている。
 要するに、日本人にとって多少民族意識の違いはあっても、「日本語」、「日本人」と、あとできれば「皇室(天皇家)」にさえ帰属意識を持っていればそれでよかったのだ。
 ただ、統一するに際して問題とされたのが、各国に存在する王族、公族、貴族、士族の存在だった。これを、皇室(天皇家)のもと制度上統一するかどうかが問題とされた。
 だが、貴族、士族を市民階級と同等にするかは、帝国全土に強固な土地税と累進課税制度を導入する事を控えたのと同様最初から論外とされた。これは制度的に貴族、士族だけに常時徴兵制度を布いているアイヌ王国系の国家は、突然の制度改変が不可能だった事も影響している。
 またこの当時、アイヌ王国系の王族、公族、貴族、士族は、それまでの伝統に従い国家の根幹として政治、軍事に深く関わっており、さらに、資産を持ってアムール地域など旧ロシア帝国領域に亡命、居住していた旧ロシア帝国系亡命貴族にとりこれをどうするかは死活問題でもあった。
 さらに、アイヌ王国を支配しているアイヌ王家やニタインクル大公家、レプン大公家の扱いは、国際的にも認知された主権国家の主権者だっただけに、国内問題だけでなく国際問題でもあった。特にアイヌ王国は、国連常任理事国として加盟しているとあっては、これをどうするかは、新たな日本帝国の信用問題にも関わることになる。
 しかし、それぞれ微妙に違う王族、貴族を一つにまとめる事は、大きな流血を伴った革命でも起こさない限りできるはずもなく、結局その爵位や位を名誉的に統一しただけでそのままとされた。もちろん、アイヌ各王家とニタインクル大公家、レプン大公家は王家としては主権者から帝国内の地方勢力に落ちるが、そのままそれぞれの国の元首として君臨し、旧来の制度、しきたりが大きく変化する事もなかった。
 なお、アイヌ貴族、旧ロシア系貴族が残った理由の一つに、日本帝国以外の日本・アイヌの影響の強い国家に、同じ幹から派生した王族を持つ国家が、太平洋中に存在していたからという理由もある。事実、諸部族連合、アズトラン王国、オーストラリア、その他友邦国家の王族、貴族などからの親書や抗議、陳述が多数寄せられている。
 また、当時国連常任理事国であったアイヌ王国の存在は、国際関係と国力的な問題から暫定的にそのままとされ、5年以内に次の常任理事国を国連会議で取り決める事が採択された。

 こうして日本帝国は、この一連の国家の再編成で明治から引きずっていた分立状態だった近代的中央集権国家の建設をようやく完成させたと言える。
 だが、この成立を他の地域、特にアメリカの一部識者は、「日本連合帝国(Japan United Empire)」や「日本人による太平洋帝国(Pacific Empire by Japanese)」などと呼び、新たな覇権国家の成立として警鐘を鳴らし続けた。

◆十二. 環太平洋条約機構