十二. 環太平洋条約機構

 日本帝国の再編に連動する形で、アジア・太平洋地域の再編成も進められていた。
 理由は大きく二つある。
 第一の理由は第二次世界大戦の結果、様々な理由によりアジア圏に多数の独立国が誕生したからで、第二の理由は「那覇条約」が対抗者に対する軍事同盟としては、効果が低かったからだ。
 順に見ていこう。

 アジア・太平洋圏での新国家の成立。この動きは、日露戦争にまで遡る事になる。
 日本が成し遂げた白人国家に対する歴史的勝利により、それまでの白人絶対信仰とでも言うべき感情的気分が吹き飛ばされ、それまで植民地として虐げられていた地域での独立気運が急速に高まり、この流れに逆らう事の愚かさを考え至った大英帝国が、自らの帝国の国家連合化を始めたのがその発端と言って良いだろう。
 この流れにより第一次世界大戦までに、インド帝国全域が「大インド連邦共和国」という一大国家連邦としての自治化、再編が決まり、マレー(馬来)とエジプトが自治権を得ると言う形で器が作られていく。
 そしてこれが、列強の勢いが著しく衰えた第一次世界大戦後加速、旧トルコ帝国の解体により中東での混乱も始まったが、多くの独立国、自治国が誕生する。また、中華大陸全土での動乱と日英の動きにより、旧帝国である清帝国領域の民族自決が図られ、同地域の分離独立も進んでいく。
 そしてこれに第二次世界大戦による結果が、アジア・太平洋圏の完全独立を達成し、合わせて多くの独立国を生む事になる。

 そして1944年夏までに、南アジア連邦共和国(南亜)(旧英領・インド帝国全域)、ベトナム共和国、カンボジア王国、ラオス共和国、マレー王国が正式に成立し国連へ名を連ねることになる。もっとも、インドシナ諸地域はフランス連邦によるテロや武力紛争などがあり、不安定な状況が続くこととなり、世界最大の人口を抱える事になった南亜は、宗教問題を国家の連邦化で何とか凌ぎきり、半世紀後には世界のスーパーパワーとして隆盛して、これがアラブ社会の連邦化にも強く影響を与える流れを作り上げている。
 そして、中華大陸動乱終結により、さらに多くの独立国が誕生し、アジアの新たな枠組みが作られていく事になる。
 また、第二次世界大戦でその存在を大きく誇示し、また太平洋の兵器廠としてその国力を大きくする事に成功した英連邦自治国の一つだったオーストラリア連邦共和国は、1945年8月に制式に英国より完全独立する事となり英連邦より離脱、自らの領域内にいる最も位の高い貴族(江戸時代の旧大侯(大公爵))と英王室の間に姻戚関係を結びて自らの君主に戴き、「オーストラリア連合王国」として南半球最大の大国として再出発していた。これに併せて軍備の拡充などを進め、日本帝国ともどもアジア・太平洋地域の重鎮としての地位を占めていくことになる。なお、オーストラリアが大統領制による民主主義国家として独立せず、旧宗主国から王族を迎え立憲君主国となった背景には、国内の大統領制に対する不審も大きな理由だったが、国内の日系、英国系による貴族社会の存在が完全共和制を否定しており、日系、英国系、アイヌ系、インドネシア系と4つの貴族社会を内包した世界にも希な存在のままの独立を達成している点も興味深いだろう。
 だが豪州の完全独立は、豪州が日系勢力圏への復帰を物語るものであり、ここにもパックス・ニッポニアの影響を見る事ができる。

 そしてこの頃、一つ珍事が日本皇国の隣の大韓国で起こっていた。
 もともと大韓国は、日本に引きずられる形で開国、日清戦争の結果一旦は日本の保護国となり、以後日本主導による改革、日露戦争への参戦、日本経済ブロック内での近代化と歩んでいた立憲君主国家だったのだが、その半世紀に渡る日本追従が前時代的な雰囲気のまま民衆レベルで深く浸透してしまい、これが日本帝国再編成の際に『我が韓国も日本帝国の構成国として参加すべきだ』との声となってしまったのだ。
 開国当初は、前時代的な小中華思想を抱いて日本を蔑んでいた筈の朝鮮民族達が、新たな東洋の覇者の登場(正確には再登場)に、伝統的事大主義の対象を中華帝国から日本帝国にしてしまい、自ら進んで「日本化」を進め、その果てにこのような声となったと言えるだろう。そう言う視点から見れば、彼らは伝統に忠実だったのだ。
 一方困惑したのは日本政府で、確かに韓国王室は天皇家、アイヌ王族双方との姻戚関係もあるので、形式的には帝国に参加しても問題はないのだが、それは太平洋各地に点在する他国でも同様だったし、自国の親日傾向とそれを理由とされても困ると言うものだった。
 また、日本側の意識としては、今まではロシア、支那に対する日本本土のための防波堤、そしてその必要がなくなって以後も、市場にして近隣友好国程度にしか考えていなかった国から、突然そんな声が上がったのだからその驚きは非常に大きなものだった。そこには、日本人はいないのだからその困惑は大きなものだった。
 その声は時が経つに従って大きくなったが、幸いにして韓国政府の声となる事はなく、当然韓国政府は民衆の「日本化」に対して朝鮮文化保護に奔走するという滑稽な状況が見られる事となった。もちろん日本政府も、韓国人を日本帝国の移民として受け入れる以外は、適当なリップサービス以上のコメントを発表する以外対応しなかった。これは別に日本人達は、世界帝国にのし上がる気はあっても、新たな中華帝国になる気など全くなかったからに他ならない。日本帝国とは、あくまで日本人(日本民族だけではない)を存続、繁栄させるためのシステムに過ぎず、世界を目指すのも究極的には日本人の繁栄のためだったのだ。

 ともかく、様々な問題をクリアしつつ各国、地域の再編成を終了させたアジア・太平洋各国は1948年1月、再び琉球王国首邑那覇に参集した。
 そして集まった各国代表は、『今後のアジア・大平洋地域の平和と繁栄のため』と錦の御旗を立てて『環太平洋条約機構(RPTO)』の成立を宣言。
 この条約は、それまでの『那覇条約』が規模はともかく、組織として中途半端だった事の反省を受けて、双務的な安全保障条約としても機能するよう明文化され、この条約に加盟する一国でも攻撃されれば、ただちに会議を開催、決議ののち条約参加国の全てが参戦義務を負うという攻撃的な攻守同盟とされた。
 参加国はアジア・オセアニア圏全域に及び、日本帝国、オーストラリア連合王国、大インド連邦共和国、諸部族連合、インドネシア連合王国、中華連邦共和国、大韓国、満州国、蒙古共和国、内蒙古王国、チベット法国、雲南王国、タイ王国、ベトナム共和国、カンボジア王国、ラオス共和国、マレー王国、ハワイ王国からなっており、これに太平洋に植民地を持つ英国とフランス、ポルトガル、そして南米にある幾つかの親日国家がオブザーバーとして名を連ねている。
 これらを合計するとこの機構には、アジア・大平洋地域の大半の国々が参加し、参加域内の総人口9億に達する、当時の世界人口の45%を内包する世界最大規模の大連合となっていた。
 また、アジア・太平洋全域の経済発展のためという別目的に従い、「アジア・太平洋経済開発会議」後の『アジア・太平洋共同体(APC)』が安全保障問題とは別に設立され、この『環太平洋条約機構』と合わせた二つの機構は、最終的に『太平洋連合(PU)』という一大国家連合を作り上げていく事になる。
 そしてこれは日本にとって、日本列島と言う天守閣を中心とした、「日本帝国」、「環太平洋条約機構」という内堀と外堀の完成であり、これ以後1世紀以上にわたり世界を主導していく事になる世界帝国の完成となった。

 だが設立当初の1940年代末期において、これらの国際条約、国際機構は、それまでの枢軸同盟に連携した共産主義の封じ込め組織であると同時に、明らかにアメリカ連合の膨張外交を牽制するための組織でもあり、アメリカもこれを意識し、この条約の成立にいたく不快感を表明し、以後の対立姿勢をより強くしていく事になる。
 また、この那覇会議において日本帝国政府は、自ら核分裂兵器を開発した事を発表し、この破滅的な兵器の性能を一般にも分かるレベルで説明を行い、これと同様の兵器をアメリカ連合も保持している事を知らし、この対抗措置としてやむなく開発した事を説明して、次なる対立の号砲ともしていた。

◆十三.近代日本経済略史