十三.近代日本経済略史

 東京オリンピックの開幕した1940年10月10日は、日本経済にとって一つの到達点と見られていた。
 少なくとも欧米世界はそう見ていた。
 だが、当の日本人達はこれを一つの通過点としか見ておらず、第二次世界大戦を挟んでさらなる努力を重ねていく。
 だが、この10年ほどの経済的な動きを見る前に、ここに至るまでの概略をおさらいして次へと進もう。

 日本列島は、1595年の「文禄の役」と1620年の江戸幕府成立により、世界史レベルでの近世国家にして世界経済に影響を与える交易国家としての歩みを始め、16世紀半ばにオスマントルコのスレイマン大帝と握手し、17世紀初頭に北米の大地にスペイン人を追い立て、アズトランの国を再興したアイヌの世界的影響力は、この江戸開府の時極めて大きなものとなっていた。
 そして17世紀から19世紀にかけての日藍双方の影響力は、その金貨の存在によりこれ以上ないぐらい見る事ができる。
 それは、貨幣の存在、流通規模こそが、その帝国の覇権の大きさを示すバロメーターに他ならないからだ。軍事力など帝国の力を示す一端に過ぎない。
 日本の江戸幕府は「小判(クーバン)」と呼ばれる金貨を、当時国内に多数存在した金山を利用して大量に鋳造し、アイヌも「リムカ(輪貨)」と呼ばれる金貨を、こちらも北海道(東シベリア)に存在する多数の金を使い鋳造し、巨大な経済圏を維持していた。
 そして、その後全太平洋地域に日系の勢力が広がるのと平行して経済的影響力も広げ、「クーバン」と「リムカ」はその後200年、イングランドがアジアに押し入ってくるまでに、アジア・太平洋地域の基軸通貨として通用するまでの勢力を確立していた。
 その勢いは、事実上の鎖国をしている筈の清帝国にまで及び、封冊外交以外での密貿易により中華地域の通貨が減少するような現象すら出現し、清帝国の日系国家に対する態度硬化を招き、英国人が中華地域を求めて押し入ってきた時、日本人たちに中華地域を売り渡す行為をさせるに至ったと言われている。

 そして、日系国家は19世紀前半から主に英国による乱入で混乱が始まるのだが、アジア・太平洋地域での基軸通貨がポンドやドル、フランに代わることはなかった。
 これは、17世紀から19世紀にかけて日系国家が浸透させた二つの通貨「クーバン」と「リムカ」があまりにも膨大な量であり、しかも日本の政治的勢力が衰退したからと言っても、半世紀程度では日系商人の勢力全てが減退したわけではなく、明治革命が発生し「クーバン」と「リムカ」が通貨統合により「円(yen)」に変化しても、大きな変化は訪れていなかった。
 なおこれは、19世紀の日系国家の太平洋での経済覇権の大きさは、日本、アイヌ双方の純金保有率とその運用方法により見ることができる。
 19世紀当時、日系国家の全ては実際に貨幣をやり取りする交易態勢を取ることはなくなっており、彼らが取り扱う膨大な貿易の多くは、現在の銀行制度と同じ両替商を仲介にした証文により取引が成される態勢が作られ、日系の各大商人と国家そのものが保有する膨大な純金、純銀の存在が政治的に混乱する日系社会そのものを支え続ける事になる。
 また、200年の間にため込まれたアジア・太平洋圏全域の純金の威力は極めて大きく、欧州白人社会を席巻しているはずのユダヤ系商人達ですら牙城を崩すには至っていない。
 そしてそれは、日本が革命により新たな国家体制を築き、世界が帝国主義の最盛期を迎えようとしていた時にも明確に機能していた。

 近代に入った日本は、大日本帝国という巨大な連合国家を建設して以来、自らの内戦を含めると10年から15年に一度は国家規模での大きな戦乱を経験しているという、世界史的に見るなら異常な国際環境にありながら、それを容易く可能とさせたのが自らの持つ「金」を基礎とする経済力だった。
 そして1904年には、世界一の陸軍大国ロシアとの全面戦争すら経験し、白人種達の誰もが想像もしなかった巨大な国力により戦争を回転させ、日本軍の圧倒的勝利の原動力となっていた。
 そして、その巨大な資本力は、第一次世界大戦で大きな効力を発揮する。
 第一次世界大戦において、日本とアメリカは共に戦争地域から遠い文明国として巨大な生産力を発揮し、特に日本は自らも戦争に首を突っ込んだ事から、連合国各国からの受けも良いため商売も良好で、ドイツの海外領土を占領するなどして自らの市場を広げ、表面的な外貨を稼いだだけにおわったアメリカ連合に比べて、長期的な利益を得る事に成功している。
 また、第一次世界大戦後は、その豊富な資金力を用いて戦後経済の停滞した欧州各国への借款などを含んだへの進出を進め、影響力の拡大を図った。
 そして大戦景気が完全に傾きかける直前に発生した大規模な天災を契機として、国内経済を大規模な内需拡大に転換し、自勢力圏内での経済力の維持拡大に努め、そして大恐慌によりアメリカ経済の凋落が始まった時、ついに世界一の経済力と工業力を持つ国家として浮上、以後は軍国主義的政策を含んだシベリア、満州開発に伴い巨大な建設景気を起爆剤に大恐慌を乗り切り、その勢いのまま東京オリンピックに至る好景気を現出させ、第二次世界大戦での巨大な生産体制の確立と言う流れを作り出した。

 第二次世界大戦後も日本の隆盛は続いた。
 全ては国家戦略に則った外交方針と経済政策が、必然と偶然により極めて良性な方向に傾いた結果だった。
 そして、日本政府もその流れを見誤ることはなく、第二次世界大戦の戦勝と経済の好調を背景に日系社会と太平洋国家関係の抜本的な再構築を実施し、そこで発生する様々な投資によりさらに巨大な経済発展へと自国と自国影響圏を誘っていった。
 これを一言で要約するなら、世界帝国への階段を上る国家とはすべからくそうしたものである、という事になるだろう。

 以上が、17世紀から第三次世界大戦を迎えるまでの極めて乱暴な概略になる。
 そしてこの時日本帝国は、金融力と工業力双方において、世界の三分の一以上を占めるほど繁栄しており、その数字は年々増大傾向にあり、これに実質的な衛星国である太平洋各地に点在する準日系国家を含めると世界の半分近くの経済を支配していると言っても過言ではなかった。
 その象徴が『八大財閥』と言われた日系の巨大財閥の存在であり、明治革命時に「YEN」、と改名された通貨の影響範囲の広さで現す事ができるだろう。
 『八大財閥』もしくは単に『八家』と呼ばれた存在とは、18世紀以降日本経済を牽引していた豪商(巨大財閥)を中心としており、日本皇国の「鴻池」、「三菱」、「三井」、「住友」、アイヌの「麗分」、「南部」、豪州の「今井(Imai)」、北米の「飛鳥(Asuka)」がそれにあたる。
 その経済覇権は、20世紀を迎えた頃日系社会全体の70%に達すると言われており、世界規模で見てもユダヤ資本に唯一対抗できる巨大勢力だった。
 そしてその状態は、1940年代当時も継続しており、そればかりかアジア・太平洋圏の発展に伴い拡大中で、国際日系資本の拠点である大坂、堺、横浜、博多、ウソリケシ、那覇、札幌、ティノティティラント、ブリズベーン(新浜)などの国際都市の経済価値は、大西洋・ヨーロッパ圏の同様の都市を年々凌駕しつつあった。特にこれは、欧州が戦火に覆われた第一次世界大戦以降顕著になっており、第二次世界大戦後世界秩序が再構築された時には決定的となっていた。
 それを端的に見せているのが、その通貨になる。
 もっとも、日系社会全てが「YEN」を使用していたわけではない。
 もともと豊臣幕府の流れを汲む日本系国家が「クーバン」を使い、アイヌ系国家が「リムカ」を使用していた。これが、アズトラン連合王国、諸部族連合でそのまま「RIM」という形で使用されており、宗主国で未使用にも関わらず使い続けられているという、世界的に見ても珍しい通貨になっていた。
 また、「YEN」の方は、「帝国円」とも呼ばれた「(日本)円」以外に、「豪州円」、「満州円」、「朝鮮円」、「香港円」、「馬来円」、「カダログ円(インドネシア円)」というそれぞれの国家名を関した通貨とそれぞれのレートにより使われており、この事例が日系社会の大きさを物語っていると言えるだろう。特にオーストラリアは、英国の自治国であった間もポンドが基軸通貨になる事はなく、「クーバン」がなくなって後も「豪州円」に即座に変えられ、この国の経済と民意の方向を端的に示していた。

 また、巨大な資本力と金融力を背景にした日経産業の存在も、明治革命以後、日本の発展に比例するように巨大なものになっていた。
 明治革命当時、ドイツと同程度の産業革命の進行速度で、これは日露戦争前の政府主導の社会資本への投資により著しく基礎体力が大きくされ、これが第一次世界大戦で花開き、以後「護送船団方式」と言われた経済政策により1930年代半ばまで至り、以後オリンピック景気、第二次世界大戦、復興景気という形で肥大化を続けていた。
 また、日系社会もしくは日本の衛星国といえるオーストラリアと満州は、自らの地下に多くの鉱産資源を有している事と、現地に進出した企業の力により経済発展と産業開発が続けられており、20世紀から半世紀が過ぎようとしていた時、その工業力と経済力は、欧州列強に比肩するまでに成長し、反共もしくは反米という日本帝国の政策に乗っかる形で、日系社会で大きな位置を占めるに至っている。
 また、19世紀半ば以後永世中立国として存在するアズトラン連合王国(メキシコ)は、南北アメリカ大陸での日系資本最大の牙城として存在し、王都ティノティティラントは国際金融都市として繁栄し、国家そのものも、鉱業、農業を中心に豊かな社会を築き上げており、これも欧州列強に比肩する経済力を持ち、日本社会の隆盛(復活)に従い、インドネシア連合王国などの準日系国家的色彩の強い国々が続いていた。

 そして、これら強大な日系社会を支えているもう一つの原動力が、それぞれの国家の人口にある。
 まずはこの数字を見ていただこう。

 各国の人口(1950年統計・GNP順)
 日系国家(百万人)
日本帝国 189.5
オーストラリア 40.2
アズトラン 52.3
満州 45.2
インドネシア 53.6
諸部族連合 48.6
韓国 32.9

 その他
アメリカ 151.2
ソ連 136.3
ドイツ 82.4
英国(本国) 42.5

 これを見れば、産業国家として成功した日系各国の経済力がなぜ大きなものになるのか、イヤでも分かるだろう。人口格差から、日系国家と他の国々の人々が個々のレベルで同じだけの生産力を発揮していれば、必然的に日系国家の国力の方が大きくなるのは自明の理で、中核たる日本帝国に至っては、一部を除いて単一の民族意識と言語により統一された国家であり、人口の増加の多くを移民に頼っているアメリカや、革命や飢饉、粛正の度に人口が大きく変動するロシア地域と比べると、人材面での優位は明らかだろう。
 しかも、日系国家の多くは、新興の産業国か、長い歴史の中でゆったりと繁栄している国のどちらかであり、この後四半世紀はアジア・太平洋圏全体の隆盛に従いさらなる発展が可能であり、その潜在的な恐怖が、半包囲された形のアメリカを戦争へと誘っていったと言えるかもしれない。
 そして、アメリカを包囲する形は、1940年代末の欧州での混乱により決定的なものとなる。

◆十四. 欧州三国志(英独ソの対立)