十四. 欧州三国志(英独ソの対立)

 アジア・大平洋地域が混乱の中からしだいにその新たな姿を表しつつある頃、ヨーロッパでも様々な動きがあった。

 第二次世界大戦の終息と共に何度目かの三国協商も崩壊し、それぞれの構成国も新たな形に再編成さ、前述の通りフランス共産政権、イタリアファシズム政権も打破された。
 しかし、欧州に平和が訪れた訳ではなかった。
 そしてその多くは、これからの混乱を予兆するようなものばかりでもあった。
 英独とソヴィエト連邦との戦いなきにらみ合いが続き(英国のチャーチル首相は、首相退陣表明の折り「鉄のカーテン」と表現し一躍これが有名になった)、一時的な共通の敵の消滅と共に西欧の二大国、ドイツ、イギリスの利権対立が始まり、また東欧では、ユーゴスラビアで民族問題から徐々に内紛、分裂の気運が高まりつつあった。
 だがその中でも問題だったのが、フランス問題だった。旧政権支持派の多くが第二次世界大戦で敗北した際にアメリカへと亡命し、彼の地で自由フランス政府、後のフランス連邦共和国を作りあげ、反英傾向の強いフランス植民地の多くがこれに従っていたからだ。中でも両者の勢力が混在する北アフリカでは戦後も武力紛争・テロが絶えず、不穏な空気をつくり出していた。
 何度か中立国の仲介の元、双方の代表により協議が行われたが、同じ国の名前を冠した異なる体制の国が二つもあると言う事実自体はどうしようもなく、二つのフランス政府は、たびたび開かれた会談で世界一美しい言葉を用いた聞くに耐えない罵詈雑言の応酬に終始するだけだった。

 一方、その混乱を後目に徐々に体制を立て直しつつあるのが、新たにトロッキーによって率いられるようになったソヴィエト連邦だった。
 新たに書記長に就任したトロッキーは、以前のスターリンの効果的だがあまりにも極端な強権政治を取る事なく、またバランス感覚に優れた政治指導を実践していた。
 国内においては、新たなチェーカー(秘密警察)となりつつあったNKVD(内務人民委員部)の権限を国民に見えるレベルで縮小させ、明らかにえん罪とわかった政治犯を釈放し、軍隊への必要以上の干渉を控え(だが親衛隊(レッド・ガーズ)が設立され軍隊そのものの党への忠誠心を高める努力がされているている。)、スターリンの政策と戦争により偏っていた経済と産業の再編成を第一に押し進めた。さらに、ロシア正教、イスラム教などの宗教に関する規制も緩められ、要約すれば「極めて限定された民衆レベルでなら」と言う条件で復活した(教会は復活したが修道院は認められなかった。)。しかし、全てはトロッキーのドグマである、真の世界革命を成し遂げるための準備であった。
 この内政的な融和政策はてきめんの効果を現し、ソヴィエト連邦は政権交代後これといった混乱もなく政権運営を行うことに成功し、さらに彼の指導による産業政策の成功もあり、数年を待たずしてソ連経済は戦後の混乱から持ち直し、世界から再び社会主義の奇跡として注目を集めるようになる。
 なお、あまり知られていないが、1940年代前半のソヴィエト連邦の活動が低調だった原因は、ロシア革命時にあった。それは、一時的にドイツがロシア帝国を再建したり、日本がシベリアを席巻し多数のロシア人を亡命させていたからだった。この影響で粛正・搾取される筈だった多数の貴族、商人、富農がロシア領内から多数の資産を持って脱出する事に成功しており、資本階級から搾取し損ねたソヴィエト連邦政府では、国内資金と税収が不足し、さらに無理な統制経済もありソヴィエト経済は早々に破錠、対外的には成功とされた五カ年計画にも大きな挫折を余儀なくされていたからだった。一説には1932-33年に発生した人災・天災が重なった飢饉の餓死者の数は、1000万人を上回るとされている。
 ひるがえって、多数の臨時資金を得る事となったドイツと日本の北海道地域は戦後の復興、開発の資金により大いに発展し、その対照をなしていた。
 それがようやくトロッキーの政策により、経済の建て直しに成功したと言うのが真相で、実はソヴィエト連邦は、西欧に本格的侵攻をしたくても、経済的にとてもそこまでできなかったのだ。なし崩しに行われたシベリアでの限定戦争ですら、気息奄々というのが実状だったと言うのが最近の調査で判明している。

 少し話が逸れたが、ともかくトロッキーは国内を立て直した。これは彼の自信を大きくさせ、外交においても積極政策が採られるようになる。
 トロッキーは、ソヴィエト連邦の基本政策である革命の輸出を、強引な進出でなく民衆の思想的洗脳という面をより重視させ、それを世界中で押し進めた。
 これは、特に成熟した市民社会を持っており、王制などの立憲政体を持っていない、そして何より革命当時から社会主義の理想に共感する市民の多いとされるアメリカ連合において効果を現し、民族対立で混乱するアメリカ市民社会、とくに労働者層と一部のインテリ層に深く浸透していた。これがアメリカ共産党として急速に勢力を拡大し、当時のアメリカに混乱をもたらす事になる。
 もう一つの経済大国日本帝国への思想浸透は、日本の社会主義的思想や共産主義運動が第二次大戦までに政府の指導により実質的に滅んでいた事もあり、ある種アメリカよりも全中流市民化していた日本社会には全くと言っていいほど効果はなく、トロッキーをして「私に世界を革命する力を!」と嘆かせたと言われている。これにもし日本の会社員が正直に答えたとしたら、「革命よりも年末の金一封が気になるよ。」と答えた事だろう。それに、旧ロシア帝国系の市民が多数移民、亡命して、活発なロビー活動がされている国で反対勢力の思想が浸透するはずもなかった。
 この為もあり、東洋においてはソヴィエト近隣の支那で勢力拡大を図っている中華共産党、ウイグル地区そしてアフガニスタンに対する実質を伴った革命輸出がより積極的に推進され、戦後の枢軸側の混乱と融和外交を付く形でいくらかの成功を収めていた。またウイグルにおいては、皮肉なことに日本が声高に唱える民族自決主義により支那中央より離反独立に成功、ウイグル民主主義人民共和国を建国させ、スターリンとは違う外交手腕を見せ、その政治基盤をより確かなものとしていた。
 また、スターリンが失敗したシベリア問題は当面は棚上げされ、対西欧外交に重点をおくこととなる。これは、ロシアとしてなら当然の政治的行動であり、国民、党、政治委員などからも支持された。
 特に重点をおいた外交相手は、当時まだ世界帝国と言えた英国だった。

 チャーチル勇退後の英国は、第一次世界大戦後のように、彼らの理論に従った世界管理を行うためにまたも「二枚舌外交」と時には非難される融和外交を展開しており、どういう経緯を辿ってその実権を握ったのか不思議だと言われたフランコ率いる新生スペイン政権を明に暗に支援したり、旧敵国だったイタリア王国、フランス共和国にも援助をする事しきりだった。
 また、大英連邦各国の独立、自治独立を押し進め、自ら植民地帝国を解体し、貿易帝国、金融帝国への完全な脱皮を急いでいた。これは、植民地に対して影響力を保持したまま実質を残そうと言う明確な政策でもあったが、全てはパックス・ブリタニカを存続(延命)させるための方策だった。
 世界の警察官として世界の安全保障を管理しなければいけない(と信じている)大英帝国としては、それまでのように軍事力を誇示できないのだから、味方を増やすための融和外交を押し進める事こそが当然と言いたげな行動だった。
 これをトロッキーが目を付けたのだ。
 トロッキーは、対外向けに徹底したスターリン批判をおこなう事で、自らの率いるソ連は以前の膨張外交ばかり行うソ連とは違う事を強調し、スターリンが起こした紛争の責任を全て彼と彼の取り巻きにかぶせ、さらに真の共産主義は必ずしも自由民主主義と敵対するものでない事を主張した。
 ちなみに、トロッキーの元で残ったスターリン時代の重臣は、驚くべき事にNKVD(秘密警察)を率いるベリアただ一人だった。だが軍においては、彼と同じくドイツに亡命していたトハチェフスキー元帥を呼び戻し、収容所からシベリアで敗北したジェーコブ将軍など有能な軍人たちを復権させ、若手軍人の手による軍事政権的色合いを強くしていた。
 さすがにこの政策はソ連国内からも一部反発が出たが、穏健派が主流となっていた英国、ソ連双方で好意的に受け入れられ、1946年を迎える頃には双方で融和ムードが広がりつつあった。
 こうした中、英国アトリー政権は、ソ連の国連復帰を推薦する。これは、ソ連がいつまでも国際的に孤立していては、また先年のような膨張外交を取るのは国家の生存を考えれば当たり前であり、彼らを国際社会に暖かく迎え入れる事により、国際平和が実現できるだろうと言う主張によるものだった。
 この流れの中、英ソの間で一部貿易の再開や資源共同開発などが行われるようになった。
 これに当然激しく反発したのが、ソ連を宿敵と考えているドイツ帝国と日本帝国だった。国境線を西に押しやり圧力が減った事と国家再編中と言う事もあり日本帝国の声はそれ程大きくなかったが、この英国の裏切りとも言える行動は、ドイツ帝国にとって死活問題だった。

 時のドイツ首相は、戦争終結と共にヒトラー宰相が勇退し、戦後の経済の建て直しを期待された与党ナチス党で経済問題を担当していたシュペーアが周囲から推薦されて、大抜擢の形で宰相となっていたが、外交政策においては穏健とされたシュペーア宰相ですら、ソ連問題に対しては英国に厳しい発言をいくつも送ることになる。
 ドイツにとってソ連、遡ってロシアは歴史的な宿敵であり、ましてやソ連は共産政権だった。それに対して友好的に振る舞う英国の存在は、先の大戦で同盟国として共に戦ったというにも関わらずと言う、裏切り感情を国民全体に持たせ、シュペーアの発言はそれを代弁したに過ぎなかった。
 また、トロッキーやトハチェフスキーは、スターリン政権に対する外交カードとして、ドイツ共産党の全面的支援を受けて亡命していたものを政府が手厚く匿っていたのが、帰国、凱旋するやその恩を忘れるとは、と言う裏切り感からくる憎悪も大きかった。
 こうしてドイツ帝国は、英国に対する態度を硬化し、対ソ連外交を独自に展開するようになる。

 東欧、北欧各国への経済、軍事的な援助を行い近隣諸国との結束を強化し、それをトルコ、中東各地にまでのばし、その手は遠くイラン王国にまで及んでいた。さらに、ソ連の反対側にある日本帝国との結びつきをより強くすべく積極的な外交を展開する。
 ドイツは、英国抜きで対ソ包囲網を再構築しようとしたのだ。
 これにビックリしたのは英国で、ドイツがそこまで極端に反応するとは予想だにしておらず、ドイツが独自の外交展開をする度に、場当たり的な外交を展開して、さらにドイツの失望を買うという悪循環を繰り返すことになる。
 ソ連にとっても、これほど急速な英独の不仲の進展は意外だったが、これを受けて、より積極的な対英融和外交を展開した。
 この流れは1948年には最高潮に達し、第一次世界大戦以後四半世紀に及んだ英独の蜜月は終わり、欧州は新たな時代が訪れるのではと世界中の人々が感じるほどとなった。
 これを、日本帝国の大手新聞は、1940年代後半の欧州の英独ソ三大国の政治的やりとりを『欧州三国志』と揶揄し、世界は固唾を飲んでこの欧州の動きを見守る事になる。
 また事が、共産主義という異質のイデオロギーが関わっているだけに、世界中の人々の関心は高かった。

 そして、この状況をこの上なく喜んだ勢力が存在した。マッカーサー大統領率いるアメリカ連合である。
 アメリカ連合は、自分たちの茅の外で勝手に仲違いしつつある欧州の状況を利用すべく、さらにこれを助長する為に明に暗に外交と工作を行った。
 明には、以前戦艦を建造して、『顧客』となっているソ連への新たな兵器の輸出と開発援助が行われ、暗には、ソ連政府にパイプを持つ民間レベルのツテを以て、英国議会にソ連へのさらなる融和を助長し、ドイツへは、右翼団体にドイツ国内での危機感を募らせ国内不安と対英不信を助長させるべく、資金・人的援助が行われた。それはまるで中華大陸での失敗を取り返そうとするかのようだった。
 この動きは1949年初頭まで続き、ついにはドイツが中心となって、東欧・北欧諸国をまとめ上げた対ソ連軍事同盟の予備交渉まで行われるまでになった。これは、もし成立していたら「ワルシャワ条約機構」と言うような名称の極端な軍事同盟になっていたと言われている。
 しかし、ある事件をきっかけにこの動きは急速に沈静方向に向かうこととなった。

 それは英独でほぼ同時に行われた政権交代だった。
 首相の交代は、まずドイツで行われた。折からの過密スケジュールで過労のたまっていたシュペーア宰相が突如倒れ宰相を続ける事が短期的に不可能となり、これを受けて次の宰相選出に与党内はもとより議会までが紛糾。対ソ政策のために再び挙国一致内閣が必要だと言う一派と、今こそ融和外交に転じて、英国、ソ連への歩み寄りを見せるべきであるという一派が対立していた。だからこそ与党から次の後継者がすぐに選出されなかったのだ。
 なお、前者はナチス党など民主政党与党が支持し、後者は共産党など社会党系政党が支持していた。特にドイツ共産党は、トロッキーを始めとする現ソヴィエト首脳部と太いパイプを持っている事を声高に主張して世論を誘導しようとし、混乱を大きくしていた。
 宰相不在が3日も続くという異常事態にドイツ国民は不安を大きくし、これを鎮めることの出来る英雄の登場を叫んだ。その英雄とは、最初の組閣で恐慌の淵からドイツ経済を完全に立て直し、次の挙国一致内閣で第二次世界大戦を勝利に導いた男、世界で最も有名な政治家の一人となっていたアドルフ・ヒトラーその人だった。
 彼の知名度は、彼が第二次大戦後すぐに出したドイツ再生と第二次大戦を記録した「我が闘争」が、全世界でヒットした事からドイツ一般国民なら子どもでも「チョビ髭のおじさん」として知っているほど高かった。
 当時アドルフ・ヒトラーは、ナチス党の重鎮ではあったが二度の政権運営で少し体調を壊しており、その療養のため自らの別荘へと隠遁、若い頃の生き甲斐であった絵を描いて、近くの町で小さな個展を開いたりして過ごす静かな日々を送っていた。
 このため当初は、体調の不良もあるとして宰相指名には辞退するつもりだったと言われているが、国民の大きな期待に抗うことは出来ず、三度目の宰相として就任する事を受け入れ、こちらも先年代替わりしたばかりの若きドイツ皇帝の前で三度目の宰相宣誓をとりおこなった。
 宰相に就任するとヒトラー宰相は、混乱を鎮めるには各国首脳と腹を割っての話し合いこそ重要であるとして、就任当日に最重要国である英国宰相との直接会談を強く申し入れた。

 英国もドイツとの関係修復のチャンスをうかがっており、この政権交代と新宰相ヒトラーからの会談申し入れは願ったりかなったりだった。当時英国宰相だったアトリーはこれを即座に受け入れ、近日中にドイツに訪問すると積極的な姿勢を示した。
 しかし、ここで大事件が発生する。
 英国宰相アトリーが、話し合いを受け入れた直後、移動中に爆弾自爆テロにより爆殺されたのだ。
 スコットランドヤードは、各種情報組織の援助もありすぐに犯行組織の検挙に成功、直接の犯人は旧フランス共産党系の人間だったが、その背後にその母体の一つであるフランス連邦共和国とソヴィエト連邦、コミンテルン、そしてアメリカ連合の影があった。
 この事件により、英国でも宰相爆殺とこの犯人発覚を前に、自らが歩み寄りを見せた相手がいかに危険な存在かを知り、自らの外交方針の過ちを受け入れ、ドイツと共に新たな敵に対して団結しなければいけないという風潮が急速に作られた。
 時のタイムズは、その社説で共産主義がいかに危険なイデオロギーであるかを論じた。
 そして英国議会は、予断を許さないカナダ問題もあった事から、ただちに挙国一致内閣の組閣を決め、その首班として前大戦の宰相だったウィンストン・チャーチルを再び指名した。
 この英国の動きにドイツも全面的な賛成を示し、ヒトラー宰相は議会壇上で得意の熱弁をもって「伝統と格式と歴史的責任感を持つ各国が集う我ら枢軸同盟は、新たな団結の元、歴史的、政治的、社会的に未成熟な国々に対して、断固たる態度を見せなければいけない!」と訴え獅子吼した。
 こうして、チャーチル就任後一週間後の1949年4月初頭、北海上で英国の「ライオン」とドイツの「フォン・モルトケ」の二隻の新鋭戦艦が邂逅し北海会談が開催された。この席で二人の宰相はにこやかに前大戦以来の再会を祝し、それぞれ自ら描いた絵画を交換、友好関係の確認と新たな盟約の締結を約束した。
 この会談で、英国はそれまでの対ソ融和外交を再考することを約束し、今まで通りドイツ外交を最も重視すると宣言、ドイツも英国と共に欧州、そして世界の秩序を維持する事を誓った。
 これを機に、二国間のわだかまりは急速に解消され、再びもとの鞘に戻ることになった。
 ただ、英国宰相爆殺の犯人とされたソ連、アメリカ連合、フランス連邦は、欧州各国と枢軸構成国、つまり世界中から叩かれ、再び世界から孤立する方向へと急速に進み、ソ連、アメリカは寂しんぼの連帯という流れに従い急速に接近、この後の未曾有の戦争の引き金を引くことになる。もっとも、トロッキーにはもっと別の思惑があった事は言うまでもないだろう。
 また、この会談で新たな軍事同盟の覚え書きがなされ、それは後の協議の結果、軍事同盟として実行力をもつ「欧州条約機構」として1949年9月にブリュッセルで締結され、大半の欧州各国が参加した大同盟として成立し、これ以後の欧州を引っ張っていく原動力になっていく。


◆十五.ラ・マルセイエーズ