十五.ラ・マルセイエーズ

 自由フランス政府(以後自由政府)は一九四三年当時ニューヨークにその仮本拠を構え、これに大半の旧フランス植民地がならっていた。まさに伝統的な反英、反独感情のなせる技といえる状態だった。
 だが第二次世界大戦終結後、フランス本土は親英独政権が新たに誕生し、英独中心の欧州経済圏のもと復興に力が入れられていた。本土のフランス人の多くにとっては、フランス人にとって抑圧的な社会主義政権が打倒され、民主政権が樹立、その後も問題なく統治を行っているたので、自由政府が声高く唱える祖国奪回や、民衆蜂起など考えもしなかった。欧州での秩序が回復され、英独主導とは言えフランスの復活が始まっている以上、彼らにとって逃げ出した者達の集まりなど無用だったからだ。
 このままでは根なし草と変わらず、自由政府の崩壊ないしは自然消滅は時間のかと思われた。
 しかしアメリカ連合が、前大戦の流れと米国民に元からある親仏感情の後押しもあり積極的に支援し、国土を持たない国家を存続させていた。それは、国家としては脳死状態の患者を病院の集中治療室で生存させているようなものでしかなかった。
 さらに、英国とドイツに支配されたフランスなどよしとしない本国以外のフランス人は多く、それらがいまだ枢軸側の勢力下にないフランス植民地や、フランス系住民の多い英領カナダ・ケベックへと集まりつつあった。さらに、多くの夢やぶれた西欧勢力までもが北米大陸に集結しつつあった。しかし、皮肉な事にその中にはかつての盟友のイタリア人の姿はなかった。
 参集した反枢軸フランス勢力の中心は、当然海外へ展開していた植民地軍と当地の植民地統治組織だった。また、フランス崩壊のさなか本国から多数脱出した軍隊、特に海軍はその六割が本国を脱出し、ダカールなどの港に落ち延びていた。その戦力は、建造途中で脱出した戦艦クレマンソーなども含めると戦艦7隻にものぼり、無視できない勢力を維持していた。
 こうした中自由フランス政府は、こうした組織をアメリカ連合の援助のもとで再編成し、取りあえず軍隊としての体裁を整えて、1946年アフリカ西海岸へとその足跡をしるし、アフリカのダカールを仮首都として、フランス連邦共和国(以後仏連邦)の成立を宣言する。
 ただし、その頃には枢軸国により新たな世界秩序が形作られつつあったため、仏連邦に参加したのは、いまだ旧フランスの影響下にあるアフリカ西海岸の大部分と南太平洋の一部の島々だけだった。この他、地中海沿岸地域とインドシナやマダガスカルは枢軸側が占領、解放されており、当面は奪還のためのゲリラ戦が展開される事となっていた。
 これに、英独の不仲が主な原因でこれといったリアクションが起こせない枢軸同盟は、これを座視するしかなかった。(日本を初め環太平洋勢力は、アジア以外には無関心をだった。)
 もっとも、この時点で本国から切り離されている仏連邦がそれ程脅威になるとは思ってなく、後にこれを後悔する事になる。

 こうして、なんとか足場を固めた仏連邦は、アメリカ連合という力強い援護がある事も手伝って、祖国への復帰を前提とした膨張外交を開始するようになる。
 まずは植民地を自分たちの了解もなく解体したとして枢軸陣営を激しく非難、またアメリカの隣国カナダに多数居住するフランス系住民を支援し同地域の独立を画策した。さらに各植民地に散っていた同胞を集め軍隊を再編成し、祖国復帰の準備も開始した。
 この仏連邦の行動に最も敏感に反応したのは当然イギリスだった。(ドイツはソ連にしか目がいってなく、日本はフランスなど殆ど眼中になかった。)
 なにしろ自国領である地域にまでその食指を伸ばしているのだから、黙って見過ごす訳にもいかなかった。次いでフランス本土に存在する新たなフランス共和政権も神経を尖らせたが、フランス本土政権であるフランス共和国(以後仏共和国)は、仏連邦に支援された国内にかかえる旧共産党系武装組織の対応に追われており、また軍事力も事実上の再建途上で、とても海外にまで手が伸びない状況だった。
 一方イギリス政府は、仏連邦の行動を警戒、抑止する為にカナダに対する兵力の増強を行うとまで発言し事態をエスカレートさせていた。
 ケベックはカナダの要であり、これを失うことは英国にとってカナダを失うにも等しい事だったからその当惑ぶりは激しいもので、兵力の派遣はそれ故発生した強硬発言だった。しかも、実際派遣軍の準備が行われ、港の輸送船には陸軍が乗船を開始したと言う情報まで飛び交った。
 しかし、これが裏目に出た。
 イギリス本国の強硬な行動に反感を持ったケベック州で突如クーデターが発生、新政権はフランス連邦共和国への帰属を宣言し、あわせて英連邦からの離脱を宣言した。
 そして、これに応える形でダカールにあった仏連邦は、ケベック州に対する進駐を開始する事を約束した。だが、この混乱の中で、いったいどこのどのような組織が、亡命中の政府に庇護を求めたのかを考える国や組織はあまりなかった。フランス人以外の全ての民族が「まあ、フランス人だからしかたないか。」と納得していたからだとされている。

 仏連邦軍は、ただちにケベックに進出しイギリスとの戦端を開くかと思われたが、イギリスはここで冷静に外交によって事態の解決を図るろうとした事から、武力衝突はケベック境界での散発的な陸上での衝突以外は発生しなかった。
 だが、これ幸いと仏連邦軍は、アメリカの援助で再建された有力な艦隊を先頭に押し立てて、ケベック進駐を行う。途中、当然の阻止行動に出た英連邦である現地のカナダ軍だったが、戦艦5隻を中核とする大艦隊を擁する仏連邦艦隊は強力で、これを植民地海軍程度で対抗する事はできず彼らの進駐を許し、さらにニューファンドランド島などケベックの隣接地域までもその軍門に下る事になる。
 明確な戦争行為だったが、仏連邦はポツダム会議に参加していないので、いまだ枢軸国との休戦には成立していない事となり、その行為はともかく国際法上まったく問題なかった。彼らはずっと英国と戦争を続けていたのだから。
 また、仏連邦の行動に呼応しアメリカ連合軍が、再建なった海軍を大西洋上に展開し示威行動を行い、米大統領が伝統的モンロー主義を理由に北米大陸の海上封鎖を行う宣言を行うに及び、イギリスは国内の経済事情もあり軍事的解決を断念、さらに今までの政治的状態から独自の話合いによる解決も断念し、事を国連に持ち込もうとした。
 何としても大西洋防衛の要であるカナダを失うわけには行かなかったからだ。
 だが、国連が問題を議題化するよりも早い1948年3月、ケベックの州都モントリオールに『ラ・マルセイエーズ』の歌も高らかに、ケベック政府がダカールのフランス連邦共和国への帰属を正式に宣言した。
 これをアメリカとアメリカの影響下にある中南米各国がただちに承認。
 そしてこれにより英独を中心とするヨーロッパ勢力とアメリカ連合が完全な対立状態となり、一部の国では準戦時体勢への移行を開始するなどのキナ臭い状態へと事態が進んでいくことなった。
 だが、そのころ欧州では英独の不仲の最高潮にあり、チャーチル、ヒトラー政権の誕生まで混乱状態から抜け出す事ができない状態だった。
 また、仏連邦も体制を固めるまで最低1年は行動できる状態ではなく、これを支援するアメリカも国内の民族問題で大混乱しており、この収拾に四苦八苦していてそれどころではなかった。

 欧州での混乱も終息した1950年3月、突如、アメリカ連合政府は『フランス連邦政府(仏連邦)支援のためあらゆる努力を惜しまない。』との声明を発表し、仏連邦が北アフリカ植民地の完全奪回の為に進駐を行うという宣言を行ったのを受けて全面的支援を約束した。
 仏連邦の宣言から、わずか一日のタイムラグしかなかった。
 それまでにアメリカ製の兵器が多数仏連邦に流れ、一時的に大きな軍事力を得た仏連邦軍は、ダカールとケベックからモロッコに対する進駐作戦を開始した。
 しかしさすがにこれは、ヨーロッパ諸国の過敏な反応に出迎えられる事になる。
 大挙して出動した仏共和国と英独連合艦隊が、大西洋上で海上封鎖を行ったのだ。仏連邦がモロッコに行くには、目の前の大艦隊を撃破しなければならなかった。
 もちろん、全欧州の海軍と言ってよい相手と戦えるほど、仏連邦艦隊にそれだけの力はなかった。
 仏連邦は、枢軸側がここまで過敏な反応を呼び起こすとは予想していなかった事と、自力で本格的な戦争をできる軍事力を持たない事から今回は引き下がる事とした。
 また、フランスの行動に際し、惜しまないとしたアメリカの援助は、この時まだ後方支援に限られており、ついに軍隊が東大西洋に現れる事はなかった。
 しかしこの後仏連邦は、北アフリカとフランス本土のテロと破壊工作を断続的に行い、フランスの栄光の回復への決意の高さを世界に示した。
 だがこれらの大半は、アメリカの意を受けて仏連邦が行ったもので、枢軸国の目をできるだけアメリカから目をそらせることが目的だった。それは、世界が驚愕する形で時をおかずして始動することになる。



◆十六.内戦再び(合衆国分裂前夜)