十六.内戦再び(合衆国分裂前夜)

 マッカーサー大統領が就任してからのアメリカは、表面上は彼の強力な行政指導の元平穏を維持していた。おおむね国民は、彼の掲げるアメリカの復活と膨張主義を支持しており、その為に行われている軍備増強を維持するための増税、国債の大規模な発行にも大きく異を唱えるものもなかった。
 全てはアメリカの栄光を取り戻すため、多少の借金や生活の窮乏は仕方ない、と。
 この当時のアメリカ人にしては珍しい、「欲しがりません、勝つまでは」的な気分が横溢していたと言う事になるだろう。

 しかし、政権誕生から2年もすると、当然と言うべきか数々の問題が噴き出す。
 もっともアメリカでは、大統領の任期の中間にその行政指導が見直され、国民から厳しい目を向けられると言うのは通例と言ってもいいぐらいのものだったが、問題はそのようなものではなかった。
 問題は、またも日本帝国だった。
 日本帝国の再編成と、日本の外郭団体とでも言うべき環太平洋条約機構の成立がその発端だったのだ。
 日本列島などから伝えられてくるニュースは、一朝にして脅威の大帝国が太平洋の向こうに出現したかのような錯覚を、アメリカ国民に抱かせてしまったのだ。そしてその帝国が以前やり残した仕事、つまりアメリカ連合への侵攻を行うのではとの恐怖感をアメリカ市民が持つのに時間はかからなかった。
 もちろん、これは多分に先の戦争で敗北したという心理的フィルターを通した目から眺めたもので、実際アメリカを仮想敵国としていても、日本帝国は今日明日にアメリカを侵略する気など毛頭なかった。
 それよりも日本やアジア・太平洋諸国は、圧倒的正面戦力(本当の意味での軍事力ではない)でアメリカを押さえつけている間に経済戦争に勝利してしまい、血を流すことなくアメリカを屈服させる事こそ最重要と捉えているのだから、まさに被害妄想の産物と言える心理状態がアメリカ国民の間で育つこととなる。
 日本人たちは100の勝利を求めず、60程度の勝利こそ最良と考えていたのだ。
 もっとも経済戦争の敗北は、拝金主義をその根底におくアメリカにとり戦争の敗北以上に屈辱的な事柄と言うべきかもしれない。

 そして日本帝国は、自らの方針に従い太平洋戦争後活動を開始、1948年にはニッポニーズを通じて北米への交易活動が広がり、アメリカの経済を圧迫し始めていた。
 日本帝国からすれば、アメリカはいずれ雌雄を決する相手だったかもしれないが、当面はそれでよかった。日本自身も先の大戦からまだ完全に立ち直り、新国家体制を円滑に機能させるには、あと最低2年は必要と見られていたからなおさらだった。そこで当面は、交易の強化により自らの体力を回復し、アメリカ経済を縮小させることは全く国是に合致する行動であり明確な国家戦略でもあった。そしてそれがその後も継続し、アメリカを経済的植民地とできるなら、戦争など全く必要ないとすら考えてすらいた。
 この時代、すでに大戦争は大きな利益を生み出す存在ではなくなりつつあったのだ。

 だが、だからといって日本が一転して平和外交に転じたわけでもないし、軍備を必要以上に縮小したりはしていなかった。
 これは、大戦で苦渋をなめた初戦の失敗を繰り返さないため、索敵・情報能力の強化とハワイ王国への有力な艦隊(空母機動艦隊)の駐留が行われるようになった事が象徴的だろう。
 また、本土以外の基地は、ハワイを除いて情報収集能力が特に重視され、本国から多数の偵察部隊が太平洋各地に派遣、その任務に当たった。それは、長距離爆撃機改造の偵察機や大型飛行艇の就役により、全太平洋を覆い尽くすほどになっていた。
 さらに日本は、アメリカ大陸やロシアの偵察情報をいち早く掴むためと、広大な自勢力圏での円滑な情報交換を成し遂げるため、地球軌道上からの偵察と超遠距離通信を考えるようになり、それを実現するため早くも1940年、オリンピックの年に「宇宙開発事業団」を発足、そこに莫大な予算を投入し、日本中そして世界中からも専門家を集め、またロケット先進国ドイツからの技術導入も行われた。
 そして、宇宙開発の牙城として種子島に巨大なロケット打ち上げ基地が建設され、大規模なロケット実験を繰り返していた。そのあまりの規模と施設に1944年ドイツから「お雇い外国人」として請われて訪れていたロケット工学の権威フォン・ブラウンなどは、そのままその基地に居着いてしまうほどだった。開発は軍事目的であるだけに潤沢な予算に支えられて異常なほど順調に進み、政府は1952年までに人類初の人工衛星打ち上げを行うと高らかに発表していた。それは、ロケット先進国であるドイツすら凌駕するものだった。
 なお、日本人は、ロケットを直接的な攻撃兵器、つまり核兵器の運搬手段とはあまり考えていなかった。それは巨人爆撃機の役割と考えられていた。
 そして後者については、国威高揚の方向にいささか目的が変わりつつあったが、まさに日本的斬新主義の最たる現れとも言える日本人たちの行動だったが、アメリカ国民はそうはとらなかった。
 また、一部のインテリ層も歪んだフィルターを通して眺めることによりその目を曇らせ、日本脅威論はイエロー・ジャーナリズムだけでなく、ワシントン・ポストなどの一部識者向けの新聞にすら広まる動きを見せていた。
 アメリカ国内の新聞の一面は、毎日のように明日にも日本帝国がステイツに戦争をしかけるような論調を張った。
 そして、その矢面とされたのが、アメリカ国内の日系、ニッポニーズだった。

 戦後沈静化していたはずの日系市民への攻撃が、数年を経ずして再発した。しかも、今度の大統領のマッカーサーは、国内治安の悪化を招きかねない暴動の鎮圧などにこそ力を割いたが、日系をあえて擁護するような動きをとることはなく、暗に国内の白人至上主義者のニッポニーズ叩きを助長してすらいた。
 しかし、今度はニッポニーズも黙っていなかった。自分たちが全く悪くないのに、理不尽な言動と暴力に曝される理由など全くないのだからその怒りはもっともなものであり、それだけに怒りも大きかった。これは、容易にワシントンへの不信へと変わっていった。
 早期にカリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナなどの日系が主を占める州政府が、独自に不当な暴力に対する強い罰則規定を含んだ州条令を作り、隣接するコロラドやニューメキシコなどの白人との混在地域でも、州政府を動かす為に活発なロビー活動が展開された。
 これに対して白人至上主義者の側も、混在地域での活動を活発化し、各地での宣伝活動と影での暴力行為をエスカレートさせていった。
 このため、「白黄戦争」や「東西戦争」などと揶揄する言葉が飛び交うようになる。
 なお、オレゴン、アイダホ、モンタナ、ワイオミングなどアメリカン・ネイティブ系(諸部族系)が主を占める北西部諸州に関しては、双方あえて何も行わなかった。もし、何か大きな行動を起こして、その北にある諸部族連合そのものが政治的・軍事的行動を起こしては、北米大陸全体が収拾のつかない事態に発展することが容易に想像できたからだ。問題発生当初は、まだこの程度の理性を双方持っていた。
 だが問題は、当然両者の対立という形をとりつつエスカレートした。
 「デンバー事件」。それにより対立は一つのピークに達する事になる。

 1947年9月、事件の発端は、いつものようにニッポニーズ系の商店を正体不明の団体が夜間襲撃したと言うものだったが、それを日系の自警団が発見。当然と言うべきか発砲事件へと発展。そしてそれが、アッという間に放火や無軌道な破壊を伴った大規模暴動へと悪化するのに一夜も要しなかった。
 日が昇るとデンバーの街は、魔女の大釜のような状態であり、街全体が混乱の坩堝と化していた。
 この混乱に対し州政府は、州軍の出動を要請。ここまでならまだよかったのだが、州軍は一斉に日系だけを対象に鎮圧を開始した。これは、州知事の指示だったとも、現地指揮官の独断だったとも諸説分かれているが、いまだに真実は分かっていない。
 ともかく州軍の出動により混乱は数日の内に沈静化。大量の日系の死者と負傷者、多くの逮捕者を出して暴動は鎮まった。対して、日系以外の逮捕者はごくわずかでしかなった。
 この情報は一瞬にして全米に広がり、これに西海岸各州は態度を硬化、コロラド州政府とワシントンに厳重抗議すると共に、独自に日系の保護のための行動を開始する。
 日系の西海岸諸州は、ワシントンの了解もなく州軍や警察を動員し、ニッポニーズの保護を開始した。そして、ユタ州軍とコロラド州軍が双方の誤解から交戦。これを機にして西海岸諸州の州軍も中部地方への進出を計りその決意のほどを見せ、ワシントンに事態打開のための決断を迫った。

 本来アメリカ連邦政府に従順だったはずのニッポニーズがここまで過激に反応したのは、「デンバー事件」の翌日の朝刊の一面を飾った一枚の写真だった。それは、連邦軍兵士が明らかに日系と思われる子供に銃を向けているものだった。
 これに対してマッカーサー大統領は、非常事態を宣言。全ての州軍の出動を禁止し、直ちに兵営に戻るよう命令を発した。その代わり連邦軍を出動させ事態の沈静化を図るとされ、さらにもし連邦軍に刃向かえばいかなる理由があろうとも同様の対応を行うという異例の声明を発した。
 そして事態が沈静化した時点で話し合いによる解決を図ると宣言を出し、アメリカ全国民に冷静な対応を求めた。
 その後すぐ行われた話し合いは一応双方公平に行われ、自らを被害者と信じて疑わないニッポニーズ達も(事実全くその通りだが)一応の納得のいくものだった。そう、彼らは日系であってもアメリカ国民であり、ワシントンが冷静に対処さえしてくれればよいと考えていた。
 しかし、その半年後の48年3月、西海岸諸州に対して州軍を大幅に削減せよと言う突然の命令がワシントンから発せられた。
 西海岸諸州は南部連合成立当時から、その功績とそれまでの日系勢力の開発により大きな力を有していた事から州自治や州軍の保有についても優遇され、当時西海岸の日系諸州を合わせれば10万を越える州軍が存在し(連邦軍全体で80万程度(州軍除く))、その装備も連邦軍並に良く、白人達にとってはそうした日系社会そのものが潜在的な脅威ともなっていた。
 だが、それまではアメリカ連合の成立に大きく貢献したと言う事、ニッポニーズがアメリカ国内で脅威になった事などなかった事などから特に大きな問題とされなかったのが、今回の事件で大きくクローズアップされる事になった。特に対面している中部各州が感じた脅威は大きく、大統領のマッカーサーもこれを座視しておく事はできないと考え、今回の命令となったのだ。
 日系住民3000万人の重圧は、それ程アメリカの白人社会を見えないところで圧迫していたとも言えるだろう。もしくは、自らの帝国を失ったもと北軍側東部諸州の復讐と見てもよいかもしれない。

 しかし、政府の命令の方法が悪かった。一応の理由はあったが、その大半が西海岸諸州を納得させるものではなく、彼らニッポニーズを大きく失望させることになったからだ。
 「自由の国が聞いて呆れる、いつから我が祖国は以前のイタリアのような全体主義国家になったのか。これならエンペラーの治める日本帝国の方が、はるかに民主的な国なのではないか」と。
 この失望感は特に日僑の間で大きく、一部ではアメリカ国籍を捨てて日系各国に移住して行く動きすら出始めていた。
 もっとも、アメリカ連合の一員である西海岸諸州そのものが、そう言った安易な行動を取れるはずもなく、命令に服した返答を行った後に、役所仕事的な対応で実際の行動を遅らせているうちに、ワシントンの意見を覆すべく活動が行われた。だが、その活動の多くは徒労と終わり、ワシントンから何の妥協も引き出すことはできず、そればかりかワシントンはより厳しい条件を突きつけてくる始末だった。
 これは、日系と白人至上主義者の対立は、必然的にネイティブ系、ネグロ系を含めた有色人種全てと白人全体との対立への構図を取りつつあり、アメリカ政府としては短期的な解決をはかるため、何か抜本的な対応を迫られていたにも関わらず、これを強硬な方向で解決しようとしたのが、この時のワシントンの行動だった。

 このアメリカの混乱に、それまで内政問題として静観を決め込んでいた日本帝国政府だったが、「デンバー事件」の反応は大きく、帝国国内で『アメリカの日本人たちを救え』との声が大きくなるのに時間はかからなかった。また、各有色人種国家からもアメリカの横暴を非難する声はしきりで、これを宗主国と言っていい日本帝国が、黙っている事はできない状態だった。
 しかも、すでに民間レベルでは行動を開始しているものも多く、多数の援助資金や団体が米国へと流れていた。また、現地に大きな支社を置いている財閥や総合商社も日系擁護の為に活発な活動をしており、日本帝国政府にも圧力をかけ始めていた。さらに一部傭兵・義勇兵の派遣すら行おうとする団体すらあった。

 1949年12月、日本政府は国内の声を抑えることができず、ついにアメリカ連合政府に、『アメリカ国内の日系市民を迫害している国民に対して毅然かつ公正な対応をしてほしい。』と言った内容の極めて控えめな書簡を送る。
 これは、当然アメリカ政府から、日本帝国による内政干渉として必要以上に厳しく非難され、国内でも手ぬるいと非難することしきりだったが、日系市民の一部は違った見方をした。また、ワシントンの過剰な対応がさらなる誤解を招き、その見方を誘発していた。1845年以後、自分たちを見捨てた思っていた日本の政府が、ようやく自分たちに対して目を向けその手を指し伸べてきたのだ。そして、日本本国はそこまで出来るほどに強大な存在に復活しているのだと。
 後者の感想に関しては一部希望的観測があったが、この日本政府の行動はアメリカ国内の日系市民、そして西海岸諸州を大きく勇気づける事になり、ワシントンに日系市民に対する公正で誠実な態度を取るように迫り、それがかなわないならアメリカ連合から離反することも辞さないとの声明を発表した。
 もちろん、最後の「離反云々」は当初は脅し文句以上のものではなかったが、その効果は絶大だった。ワシントンに原爆を落とすよりも効果があったとすら言われている。それはまさにアメリカの理想の完全な崩壊、国家の解体を意味していたからだ。
 当然、西海岸諸州の極端な反応は、日米政府双方に衝撃を走らせることになる。
 アメリカ政府は世界に向けてリターンマッチを挑もうと準備をしている矢先に、国内の団結が取れていないことを世界中に宣伝してしまう事になり、これを鎮めるには、ニッポニーズを短期間で徹底的に鎮圧するか、反対にニッポニーズ以外の敵を作り上げ、国内を戦争で団結させるしかないのではと考えさせるようになる。そして、アメリカ経済の二割を占める西海岸の経済、つまりニッポニーズを弾圧するなど国家の運営上できない相談だった。
 また日本政府は、西海岸諸州がそのような大胆な行動を取ったのは、当然、始祖の国たる日本帝国をアテにしているからであり、こちらの陣営に入る代わりにアメリカ連合から分離するために矢面に立ってくれと言われたと勝手に確信していた。しかも、これを断れば、内政的な理由で再編されたばかりの日本帝国に亀裂が入る可能性が高かった。日本帝国とは、日本人を守るため(だけ)に存在しているのだから。
 双方の政府は、心の奥底で同じ悲鳴を上げた。「まだ、次の戦争の準備は終わっていない、もう少し待ってくれ。」と。

 そんな日米政府のホンネをよそに、西海岸諸州(カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ)は、その後、なんとか事を遅らせようとする日本政府の口から出る大量出血サービスのリップサービスとアメリカ連合政府の腰の定まらない交渉に、ついに1950年4月、桜の咲き誇るサンフランシスコ市(旧高坂市の名称も復活)で、アメリカ連合からの離反を宣言、併せて「アメリカ連邦共和国(以後、西海岸政府)」の成立を宣言した。
 彼らは「アメリカ」の名を残すこと、そして当面は日本はもとより、固有の国には庇護を求めず、国連に事態を持ち込み、武装中立国として申請すら出す行動を起こしていた。これは、西海岸政府の単なる時間稼ぎのための政治的動きに過ぎなかったが、これに日米双方とも、まだアメリカの国内問題ないしは内紛と強引に問題を先延ばし、事態を何とか沈静しようと努力する事になる。
 ここに、歴史上初めて日米政府が真剣に協力すると言う皮肉が生み出されることになった。
 だが、短期間の努力でどうこうできるものではなく、事態は双方の世論により収拾不能になり、あとはどちらかが先に西海岸に向けて兵を動かすかだけだった。これは、他の地域の世界情勢が全て極端な対立へとばく進している流れもあり、逆らう事は不可能だった。
 この民衆に翻弄される日本政府の状況に、旧元老の一人は「まるで日露戦争の頃のようじゃのう」と述懐したと言う。

 こうして、いままで準備されてきた大戦争と言う鉄砲の撃鉄が起こされ、あとはどこで誰かが引き金を引くだけとなった。
 この宣言以後世界は、太平洋、大西洋、北アフリカ、東欧どこで戦争が発生するかを固唾をのんで見守りつつ数ヶ月を過ごすことになる。
 政治の季節は終わり、戦争の夏はすぐそこまで来ていた。


◆十七.大観艦式