第十節 時代による軍隊の規模と編成

 今までは、アイヌ軍の軍制や階級を見てきましたが、実際の数、編成などはどうだったのでしょうか?この辺りを少し見ていきたいと思います。
 アイヌ軍の起こりは、レプンがエミシュンクルに亡命し、そこで私兵集団として13世紀末に編成した事から起こっています。その当初はほんの数十人の兵士しかいなかったと言われています。ですが、
エミシュンクルを平定する1330年までには、各種の人材の取り込みと近隣地域の制圧により5000人程度の組織となっていたと見られます。その兵種は既に鉄砲を主装備とする火力部隊と、歩兵部隊、そしてモンゴル馬よりなる騎兵からなっていました。そしてほぼこの状態のまま1345年の祖国奪回戦争を迎えます。祖国奪回戦争では、各地で蜂起した約2000人の残留アイヌがその軍列に加わります。そしてその勢力で持ってモンゴル人をギリヤーク海峡の向こうへと追いやりました。そして、その余勢をかりクイ島、コリャク半島の併合を行い国土を安定させます。
 国土安定の後は、しばらくは国力の発展と共に軍隊の整備も進められましたが、もともとが国民皆兵なので平時の軍隊は基幹となる貴族、士族こそ多くいましたが、民の多くは生産に従事していたため兵士の数は非常に少なくなりました。ですが、生産に従事していても職人は砲兵、農民は歩兵、放牧を行うものは騎兵としての訓練も施されていたので、享徳の役までは戦える国民の数イコール軍隊と言えたでしょう。
 そして、享徳の役ではこのモンゴルの兵制の変形と言える軍隊動員方法は威力を発揮し、日本との国境沿いに6万もの軍隊を出現させます。しかも予備として1万程度の兵が編成されつつあった事が最近の研究で明らかになっています。これが、享徳の役の最後で登場し、時の皇太子の一人であったイオリク王子と共に前線に姿を現し、トオノから敗走した日本軍を駆逐しています。
 では、その6万の軍隊はいったいどのような兵力構成だったのでしょうか?
 この当時のアイヌ軍は防衛軍として編成されています。しかもそれらの兵の大半は国境沿いに構築された要塞の中に籠もっていました。このため、兵の大半は歩兵か砲兵に属しています。歩兵と砲兵の割合は4対1程度で歩兵が圧倒的多数に上ります。その歩兵ですが、全体の五割が火力兵器を装備しており一割が弓兵、二割が槍兵、そして残りが後兵などとなります。そして、この張り付け部隊である要塞守備軍の総数は4万人程度と見られています。
 また、これとは全く別の組織として反撃や戦線維持用の機動打撃力をになう騎兵部隊がありました。これは、モンゴルの騎兵集団を基本として独自の軍事ドクトリンにより編成された高速打撃集団でした。これは、編成の五割が各種騎兵で編成され、二割が各種歩兵、一割が騎馬運用の砲兵、残りが騎馬運用の後兵となっていました。このように完全な三兵編成の機動集団として編成された騎馬隊は、総数約1万5千人程度だったと見られ、2つの大集団(旅団)といくつかの小集団に分かれて、反撃用の機動打撃力として戦線の少し後方に位置していました。
 そして、どの編成を見ても分かるようにアイヌは、防衛陸軍であるにも関わらず非常に後方兵站を重視していました。これは、国土がそれ程豊かでない事と戦場が常に自国領内を前提としている事に起因しています。さらに、大半の部隊が火力部隊であり補給に気を付けなければならない事も影響していました。
 また、極めて組織化された軍を相手させられた時の日本軍は中世の標準的な編成の軍隊だったため非常に苦戦する事となります。
 16世紀に入ると農業生産の増大と交易、商業の発展と、戦国時代に突入した日本からの亡命受け入れなどにより人口が大きく増大しました。資料によると16世紀末にはアイヌ本土の人口は300万人に達していたと見られます。農業生産が人口に追いついていないので一概に比較は出来ませんが、これが日本だと300万石クラスの大大名という事になります。しかしアイヌは強固の軍事制度、労働の集約、傭兵の多数導入に力を入れていたこと、海外領土の兵士を積極的に下部組織に加えていた事、そして当時の日本とは比較にならないぐらいの国富を有していた事から軍の規模は全く当てはまらず、本国の軍隊規模は日本の1000万石クラスの規模(常備陸上兵力は10万人程度)を有していました。
 その陸軍の主力は日本との同盟が成立するまでは半数が日本との国境線を中心に5万近くが待機していました。また、肥大した軍事力が海外進出に合わせて派遣されつつあり、残り半数にあたる5万人(しかも大半が機動打撃部隊)は外への膨張を始めまていした。3万近くが毛皮を求めて商人と共にウラル山脈を目指し東進し、残りは国内の予備や、他の海外領土に展開していました。他の海外では北米大陸に1万近くが派遣され商隊の護衛や現地での武力衝突(先住諸部族と必ずしもうまくいっていたわけではないし、後にはスペイン軍との衝突が起こっている。)に従事しつつ商業圏の拡大を図りつつ南進していました。東南亜細亜にも台湾を中心としてかなりの数の部隊が派遣され、アイヌの利権維持のため各国と激しい武力衝突を繰り返していました。

 また、15世紀の海外進出の本格化と共に成長を始めた海軍は、16世紀半ばより大拡張され他の亜細亜諸国の追随を全く許さない程巨大な規模へと成長します。
 戦列艦(バトルシップ)、巡洋艦(クルーザー)、襲撃艦(コルベット)、警戒艦(フリゲート)という艦種もガレオン船導入前から取り入れられており、16世紀末には軍の大拡張と共に膨大な数のガレオン船が建造されています。その数は1592年の文禄の役の折りで戦列艦37隻、巡洋艦46隻、襲撃艦154隻、警戒艦289隻という記録が残っています。この頃のアイヌのガレオン船は船の装甲化とアイヌ近海の荒々しい海での運用を考え大型なものが多く、戦列艦で4000トン〜2500トン、巡洋艦で1500トン〜900トン、襲撃艦や警戒艦でも500トン程度ありました。また、これを維持運営する要員の数も膨大なものに上り、泊地の要員も含めると8万人程度が海軍に従事していました。さらに、これらとは別に武装商船になりうる商船が数百隻存在しており、それを加味すれば太平洋上でアイヌに敵対できる海上勢力は全く存在しませんでした。この圧倒的なシーパワーはスペインとの衝突と文禄の役、慶長の役で遺憾なく発揮されました。
 また、各艦種を紹介すると、戦列艦は大型のガレオン船(後に装甲化)でその舷側には70〜120門の火砲を装備し、言葉通り隊列を作り圧倒的な火力で敵を粉砕するための艦です。巡洋艦は戦列艦と同じ数の帆を持ちながら一段甲板が低くまた細長い船体を持った高速艦の事で、非装甲ながら艦の規模が大きく大きな搭載量を持ち長い航海に適していました。また、戦列艦ほどでないが大きな攻撃力を持つため準主力とみなされ辺境警備を担っていました。襲撃艦はアイヌ独自の戦略ドクトリンにより建造された艦種で主に軽艦艇と商船を攻撃するための船で非常に高速で俊敏な機動力を持っており文禄の役を初めとした通商破壊作戦で圧倒的な戦果を誇りました。各国で存在した私掠船を軍艦としたようなものです。後に各国で作られた駆逐艦に近い存在と言えるでしょう。また軽巡洋艦(後世のものとは違う)とも呼ばれました。警戒艦は各国で建造されている一般的な船団護衛兼哨戒艦艇で、このため小さいながら長い航海にも耐え、海軍のワークホースとして最も多数が建造されました。
 海軍では一般的にには6隻で戦隊、6個戦隊で分艦隊、3個分艦隊以上で艦隊、いくつかの艦隊のあつまりが大艦隊とされていました。ですが実際に艦隊まで編成する事は殆どなく、また中核となる戦列艦戦隊や、巡洋艦戦隊を分艦隊レベルまで集中する事も少なく大艦隊として編成された事は、観艦式以外では数える程しかありませんでした。



第九節 王国の軍の階級と軍制