第九節 王国の軍の階級と軍制

 アイヌはその国是からどの時代でも非常に効率的な軍隊組織の建設を重視していました。ここでは、アイヌの軍の階級と制度的な点を少し見ていきましょう。
 アイヌはその成り立ちの延長で、建国の折りから中央統制による優れた軍事制度を持っていました。その制度の大元となったのは中国の南宗から渡ってきた渡来人により伝えられたものと、敵であった「元」帝国から取り入れたものです。また、少数の勢力だった事からそれらを元にして自分たちにあった無駄のないシステムと早期に作り上げます。その為、アイヌの軍制は日本式のものでなく大陸的なものが根幹となりました。特にモンゴルに対するトラウマ的な考えから、早くから騎兵と砲(銃)兵を中心に制度が作られたと考えられています。
 そうして、優れた軍事制度とその軍隊を以て母なる大地を奪還すると、次にその制度を元としてそれを国家の拡大とともに押し広げていきます。そして14世紀半ばの「享徳の役」で中世的軍隊として一つの完成した形としました。
 その後さらに海外への膨張が始まると海軍の整備・拡張が行われ、さらなる軍制の改訂が要求されます。また、大量の人員が必要となった事から氏族内での徒弟的な軍人の養成でなく、集団としての養成が広く行われるようになり、17世紀半ばには非常に高度な軍制とその教育制度が布かれる事となりました。この軍制はほぼ完全に近代的な軍制と言って良く、その制度も非常に完成されたものでした。この点からして、アイヌという国が異常なまでの軍事的な集団であったことを表していると言う学者がいます。恐らくそれは事実でしょう。では、少しその階級について見てみましょう。

 アイヌでは、早くから軍隊内における階級が制定されていました。これは当然モンゴルの優れた軍事システムをそのまま移植した事が事の起こりとなっています。また、当初から中央集権が強く、兵役に就くものは貴族や豪族、騎士(武士)としてよりも、軍人としての武官として自らを意識していた側面が強かったことが階級が作られる原因になったと考えられています。
 そして、軍制としての階級ですが、初期のものはとても単純なものとなっていました。

万騎長=国王兼任(王族や皇太子からも数名任じられる)
千騎長=各指揮官や参謀長にあたる(王族が主)
百騎長=実質的な部隊指揮官(貴族が主)
十騎長=兵を率いる下級将校にあたる(士族が主)
士=兵士にあたる(衆民が主)

建国時はこれだけでした。ですが、当初のアイヌは一万もの騎兵を持つわけでなく百騎長以上は単なるそれ以上の階級として便宜的に設けられていたものでした。当然これはモンゴルのそれとほぼ同じような制度を持っており、また騎長とも呼ばれますが全ての兵科が騎兵を操る訳ではありませんでした。当初のアイヌ軍は、そのかなりが火力装備をした歩兵により編成されていました。騎長と名付けられたのは、モンゴル軍の蹂躙戦を行う騎馬軍団の威力を自分たちも受け継ぎたいとする願いと畏怖の念が込められていたと言う説が有力です。
 これが、享徳の役の頃になると国自体も多少大きくなり、軍隊も肥大化します。特に戦争直前には、戦時動員により6万人もの大軍が編成される事となり、また海外交易の拡大に伴い海軍も順次建設されつつありました。こうした中、15世紀半ばには天将、竜将が新たに制定されます。天将は万騎長を何人か従える陸上での最高指揮官で、竜将は艦隊を指揮する提督としての地位でした。また、国王はその頃には国の肥大化に伴い、軍の最高指揮官でなく国の最高意志決定機関として位置づけられるようになっていたので天将の地位こそ持っていましたが、それは命令系統的に付与された役職に過ぎず前線に出ることはなくなり、代わりに皇太子(女)が天将として前線に赴くようになります。この点でもアイヌが近代的な職業意識を早くから持っていた事を見ることができるでしょう。
 そして、チコモタイン・アイノ王朝が成立した16世紀半ばにはさらに国は富み人口は増え、海外の領土も増大します。当然それに合わせて軍隊も増強されました。これにより従来の階級では軍制を維持できなくなり、さらに将の下に天騎長、竜騎長というものが作られ、また兵を直接指揮する役職として士長が作られました。士長は現在での軍曹などにあたる下級士官で、それまでは士族からなる十騎長がその任を負っていたものです。これらの階級を加えた事でアイヌの軍制は、かなり近代に近いものとなります。また、こうした階級が早期に制定された背景には、これにもアイヌの職に対するプライドの高さが原因しており、こうした明確な階級分けが彼らの職業意識をくすぐり、競争を促進する要素となり軍をより精強にしていきました。
 そして、その軍制がさらに進んだ17世紀に入ると、さらなる進化を遂げる事となり、欧州よりも早く近代的な軍制が布かれる事となりました。これは、海外への領土の膨張と移民、農業生産の拡大により人口の大増加により軍隊組織もさらに大きくなり、またそれを助長するように起こった豊臣王朝との戦争とその後の同盟関係の成立、そしてその前後のスペイン、ユーラシアでの戦争により軍組織の肥大化が極端なまでに進み、それを統制するためにさらなる軍制の変化を求めたからです。この頃の制度改革により、海軍と陸軍の階級の統合と整理が行われ軍制度が一本化され、国王へのさらなる権力の集中が進められました。
 下記がその階級です。

( )内は現在との階級の比較。
大元帥(大元帥)=国王兼任
元帥(元帥)(軍の大臣という意味で同じ名前がとられました。)
天将(大将)
竜将(中将)
天騎長(少将)
竜騎長(准将)
万騎長(大佐)
千騎長(少佐・中佐)
百騎長(大尉)
十騎長(少尉・中尉)
士長(曹長・軍曹)
従長(伍長)
従士(兵)

以上です。見て分かると思いますが、ほぼ現在の階級と変わらないものとなります。そして、この階級制度のまま革命まで移行します。そしてこの階級が制定される頃になると、将軍と兵士とそれを前線の兵士としてだけでなく、軍の後方を担当するもの、作戦や組織運営を担当する者など軍の組織そのものも複雑化しました。それにより、この階級が単に部隊を率いる単位を表すものでなく、軍の階級として定着しました。
 次に軍編成ですが、建国時は本当に単純で王とその手足となる臣下達で済みました。これが、享徳の役になると軍の巨大化に伴い兵科も増えました。つまり、砲兵、騎兵、歩兵への明確な細分化がおこります。これはさらに装備する兵器により砲兵は竜兵(砲兵)と雷兵(ロケット弾兵)に、騎兵は鉄騎兵(重騎兵)、火騎兵(竜騎兵)、翼騎兵(軽騎兵)、歩兵は、銃兵、重槍兵、軽槍兵ができました。これを各種の後兵(後方兵站担当)が支援します。そして、兵力の柔軟な運用と兵力倍増効果を実現するため当然のように三兵制度がとられました。さらに一つ当たりの部隊の数量を定め、兵力単位として運用を単純化しています。これにより国王、元帥はより高い位置から部隊を指揮できる事となったのです。
 ちなみに、この数量的に兵力を単位分けする方法は古代中国や日本の律令制度の時代の資料が参考にされたと言われます。
 こうしてアイヌの近代化は軍制から始まりました。この優れた軍制度は17世紀には日本にも広まり、アイヌ・日本連合は亜細亜、太平洋を席巻する事となります。ちなみに、この頃に5000人程度からなる『旅団』的な単位が作られ、それぞれ歩兵は鉄兵団、騎兵は騎兵団、砲兵は打撃団と呼ばれました。これが後に兵力単位が整理・細分化され独自の進歩を遂げ分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団、師団、軍団という近代的な制度がその必要度により作られていきました。
 また、交易の拡大、海外領土の拡張と共に巨大化した海軍でもその規模の拡大と共に戦隊、分艦隊、艦隊、大艦隊の名称に分類され、陸軍同様分量によって部隊を整理統合する事が進められました。特に海軍は16世紀末から17世紀末までは恐らく世界最大級の海軍勢力を誇っていただけあり、その規模は巨大で、各国に先駆け数量的な部隊の編成と制度化が図られていたのです。
 その艦種もガレオン船の導入と共に整理され、戦列艦(バトルシップ)、巡洋艦(クルーザー)、襲撃艦(コルベット)、警戒艦(フリゲート)という排水量やその用途で建造され、それぞれをまとめて各戦隊を編成しました。

 最後に軍の帰属ですが、軍の最高指揮官は国王です。これは建国の頃から1789年の革命以後最近まで(1956年廃止)変化ありませんでした。このため、国王となるものには軍隊経験が重視される事になりました。特に、享徳の役の頃までは実際に前線に立ちましたが、享徳の役の頃には軍隊が肥大化したので、国王は大戦略レベルの事の決定のみを行い、実際の指揮は皇太子や専門の高級軍人が行うようになります。この制度は20世紀まで存続し、現代でも皇太子が名目上の司令官となり式典などに出るのは良く知られていると思います。
 そして、チコモタイン・アイノ王朝成立以後、海軍の全権は国王の元に集約されます。また、陸軍は国王直属の近衛隊と八王家に所属するという形を取る軍管区制度がとられました。これにより国王に軍事力が集中され、その元で八王家は名目上の国軍の指揮権を持ちました。他の絶対王制の国と違い陸軍が国王の手に直接握られていないという点では多少変わっていますが、国王による軍事力の掌握という点では、アイヌもあまり他の国と変わりはありませんでした。もっとも軍事権力の集中を建国時から行っている点では他と多少違い、その伝統が陸軍の権力の分散という形に現れていると言えるでしょう。そして、陸軍権力の分散が国王に対する唯一の内政における歯止めとして機能しました。




第八節 アイヌの経済と文化  第十節 時代による軍隊の規模と編成