第一節 序章

 さて、今までは近代アイヌ(15〜18世紀)の文化、産業、政府組織、軍事などについて見てきましたが、これからは享徳の役以後の歴史的流れを見ていきたいと思います。
 享徳の役以後、アイヌはどうしていたか? 大筋においては『太陽帝国概論』で述べられていると思いますが、少し補足をしていきたいと思います。
 享徳の役以後、日本では戦国時代と呼ばれる百年戦争へと突入します。日本列島2500万人もの人間を巻き込んだ世界史上でも屈指の大戦争です。この戦争が日本史的に純粋な内乱のように扱われる事もありますが、それは世界的に見ても幸運な事と言え、ドイツのように近隣諸国の大きな干渉が行われていれば、日本列島は目も当てられない惨状を呈することとなったでしょう。
 そして、当時の最大の文明圏である明王朝や全欧州の人口がそれぞれ8000万人程度と言えば、その規模が分かると思います。しかも日本人は100年の間殆ど途切れることなく列島のどこかで戦争を続け、順次戦闘の規模を拡大しつつ、爆発的な経済の成長すら達成していたのですから、これは世界史的に見ても驚くべき事と言えるでしょう。
 では、その間隣国であったアイヌは何をしていたのでしょうか?
 『太陽帝国概論』でも大きく扱われていますが、その間アイヌは、日本など近代文明を持った国との関係は極力避け、そして日本の戦乱が自国領域に波及しないようにしながら、国内的には富国強兵と国政改革に努めていました。それは、経済の大きな発展と強大な軍事力の出現、そして絶対王制の確立という形で実を結びます。
 ですが、もっとも大きかった変化は何でしょうか? 恐らく学校で歴史を学んだ方ならご存じと思いますが、15世紀初頭から16世紀初頭の約一世紀の間にアイヌの版図が大きく姿を変えた事でしょう。特に、日本との戦端が再び開かれる16世紀末のアイヌは一つの絶頂期を迎え、恐らく世界最大級の版図を誇る程拡張する事となります。
 西はウラル山脈から東はロッキー山脈、北は北極から南はオーストラリアと言われる広大な範囲にアイヌの活動範囲は拡張します。もし、日本の戦乱がもう半世紀長ければ、ないしは日本がアイヌに興味を示さねば、アイヌは世界最大級の帝国としてその後の世界史をより大きく変えることになったとすら言われています。
 これ程急速に領土が拡大したのは、アイヌが進出した地域に近代的な文明を持った大きな国家が殆ど存在しなかったことが大きな原因です。アイヌは毛皮と鉱山、そして新たな交易相手を求めてその脚を伸ばし、足跡を止めていきました。そして、交易するに足る国家を見つけると正当な交易条約を直ちに結び、交易路を開きます。そして、不幸にも交渉の決裂などから戦端を開くことになると、トラウマとも言える過剰防衛反応を示し、容赦なく相手を叩きつぶし併呑していくか、相手が大国なら向こうから交渉に持ちかけてくるまでその矛を収めることはありませんでした。その足跡は遠く東ヨーロッパにまで及びます。
 また、アイヌの軍隊と移動手段が、陸ではモンゴル人と同様の騎馬主体であった事と、海洋では大型の海洋船を用いていた事も拡大を助けたのは間違いないでしょう。
 さらに、アイヌが大きな文明国家との武力衝突を可能な限り避けた事もこの拡大を可能とした理由だと言えます。これはアイヌが巨大文明国家(日本や中国)を極端に恐れるというトラウマによるものだと言われています。その最たるものとして、アイヌが進出を始めた頃衰退期にあったとは言え、世界最大の国家であった近隣の明王朝をほぼ完全に無視していた事があげれるでしょう。そして中国については後の清朝についてもアイヌはあまり親密な関係を築くことはありませんでした。
 しかし、17世紀以後その版図は大きく縮小する事となります。これは、外圧によるものはあまりなく、アイヌ独自の政策によるものでした。一度征服しておきながら自ら退くというような事は世界史的に見ても殆ど見る事はできませんが、それはいったいなぜ起こったのか。その辺りをこれから見ていきたいと思います。



第二節 チコモタイン・アイノ王朝成立前後のアイヌ