第二節 チコモタイン・アイノ王朝成立前後のアイヌ

 15世紀半ば享徳の役で日本軍を退け、本土の安定をようやく達成する事に成功したアイヌは、その後も日本を警戒して軍備の増強と、それを可能とするための産業の拡大を図りました。
 この政策は当然国家規模で行われ、農業政策の成功と近隣からの安定した食料輸入(どこかで飢饉が起ころうとも安定した供給が可能なシステムを作り上げた)は、手工業と都市の発展も重なり爆発的な人口増加を生みました。さらに、貧しい日本の奥州から豊かなアイヌ国への個人レベルでの移民が人口拡大を助長します。
 そして手工業製品と農産物の輸送、鉱山の開発、毛皮の獲得を求めての遠方狩猟、遠洋漁業の拡大は、アイヌを自然に海外へと目を向けさせる事となり、16世紀には人口の増大による移民の発生とも重なり、アイヌ人をモショリの外へと誘いました。
 15世紀末当時すでに環オホーツク圏、アレウト海一帯、レプンモショリ(北米大陸西端部)をその版図としていたアイヌは、まずは戦争や軍拡で疎かになっていた同地域の開発に重点を置きました。それによりさらに多くの鉱山が開かれ、漁場が開拓され、毛皮が獲得されます。そしてこの開発による成功は、アイヌの海外進出への情熱を駆り立てることとなり、その為の準備が各地で開始されました。
 また交易の拡大は、日本との交易はそのままに、それ以外の国々との交易を日本を素通りして、特に文明国家のない台湾や呂宗の各地の原住民と妥協して港と城館を建設し南方貿易の拠点とする事で南へ向けて発展しました。これは最終的にジャワ交易へと発展していくことになります。南方進出当初は現地の疫病などに苦しみますが、清廉で勤勉なアイヌ商人は、東南亜細亜各地で活発な交易活動を展開し、最初は既存の貿易システムに寄生する事で莫大な富を得、その富を本国に還元しました。そして、その富により国内産業のさらなる発展を図り、より沢山の商品、船を作りより大きな交易活動を展開し国富のさらなる拡大をはかります。そして、交易の拡大はさらなる遠方へとアイヌ商人を誘うこととなり、国も商人と共に交易路の開発を熱心に押し進めました。
 そして、そういった海外への膨張の準備とも言える経済発展と移動手段の整備、民の外への感心の増大は16世紀初頭には一つのピークに達します。
 こうした流れを受けてアイヌ国政府は、国外への膨張を冒険的な商人や個人に頼るのでなく、国家規模で行おうとしていました。これは、アイヌが中央集権的かつ軍事社会的な側面を多く持っている事の証明とも言えますが、それだけに徹底していました。
 国策として行うと決めた以上アイヌ政府は準備を怠りませんでした、日本軍撃退の為に存在していたと言っても過言ではない軍隊のかなりを海外遠征、特に陸上交易路の確保のためにユーラシアの大地を席巻出来るような強力な機動兵団へと変化させ、また海上交易の発展による通商路の保護のために大規模な海軍の建設します。16世紀半ば以降、莫大な国家予算が商船、軍艦の建造に充当され政府レベルでの大交易船団の整備が行われました。さらに、事前の偵察活動が北ユーラシア全土と太平洋全域に向けて行われます。それにあわせ活発な外交活動が展開され、近代国家との衝突を回避しての膨張の準備も怠りませんでした。
 こうして1503年4月、時のアイヌ王、ウリョロンクル・サンクスアイヌ・エリハヌは、皇太女シュムンクル・サンクスアイヌ・リムレイル麾下の3万の大軍を前に西方大遠征を宣言します。ここにアイヌの膨張が始まりました。これは『リムレイルの西征』としてアイヌの歴史で必ず教えられる事なので、みなさんもよくご存じでしょう。
 また、翌年の1504年5月には、ポロニタイ(北米大陸)本土の最初の遠征隊が、皇太子チウプカンクル・サンクスアイヌ・ヌパセイク指揮の元、大船団と共にクスリを後にしました。こちらは歴史ではあまり採り上げられていないので、意外に知られていませんが、現在の世界情勢を考えればこちらの方が世界史的にはより大きな役割を果たしたと言えるでしょう。
 こうして世界帝国「アイヌ」の膨脹が始まったのです。



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