第十六節 第二次世界大戦への道のり

 未曾有の大戦争である第一次世界大戦は、その世界大戦と言う名とはいささか異なり、主に欧州を戦場としました。連合国側に参加した日系諸国の近隣地域では、ドイツ領となっていた地域に一部侵攻が行われただけで、ほぼ平穏に過ごすことになります。
 そのおかげで、日系諸国は連合国の兵器廠としての役割を存分に果たすことができ、それにより経済力を大きく躍進させ、国際的地位を著しく上昇させる事になります。
 特に造船業においては、戦時中についに世界一を達成し、海洋帝国としてその存在を誇示しました。
 それ以外の産業などをとっても、もはや日本帝国を無視できる列強は存在しないという状態にまでなったのです。そして、戦争が終わってみると、その経済力は米国の次に大きくなり、人口、資源、産業、技術、資本、教育など全てにおいて第一級の存在であり、広範な範囲に広がる広大な国土もその圧倒的な海運力により、それを不利な点でなくむしろ利点としてしまい、その影響圏は、アジア、太平洋地域にしか勢力を持たないとは言え、大英帝国すら凌駕しうる一大海洋帝国となっていました。
 中でもこの戦争中、日本帝国の中枢である日本皇国の産業発展は著しく、それまで帝国内で経済的優位に立っていたアイヌ王国を完全に圧倒する程の成長を見せる事になります。
 こうした中、日本皇国は増大した国力と経済力を背景に、アメリカとの対決姿勢を強めるため大戦前より継続していた通称『八八艦隊計画』の拡大推進を行おうとします。また、アイヌ王国でも『外洋艦隊計画』が同時期に推進され、これも同様に随時規模を拡大しました。
 海洋帝国として、ここ半世紀ほど退勢の続いていたアイヌ海軍でしたが、『外洋艦隊計画』はそれを一気に挽回する為に計画されただけに大きな計画で、高速大型戦艦8隻を中心として合計80万トン近くの艦船を建造する巨大なものでした。
 その主力となるの高速戦艦は、5万トン級の『アイノモショリ』級と6万トン級の『ポイヤウンペ』級で、どちらも各4隻ずつ建造される予定で、どの艦も日本との共同設計とは言え単艦での性能は世界第一級のものでした。
 他の艦もアイヌ王国の地理的環境を反映した、航洋性に優れた他国に比べて大型の艦ばかりで、完成すればその威容をもって北太平洋に覇をなす存在に復活できたことは疑いなかったでしょう。
 以下がその概要です。

5万トン級戦艦『アイノモショリ』級:4隻
6万トン級戦艦『ポイヤウンペ』級 :4隻
3万トン級戦艦   :6隻
1万トン級航空母艦 :2隻
3万トン級航空母艦 :2隻
偵察巡洋艦(8000トン〜10000トン級):8隻
水雷巡洋艦(5000トン〜7000トン級) :8隻
汎用巡洋艦(4000トン〜5000トン級) :24隻
艦隊型駆逐艦(1500トン級)  :64隻
護衛駆逐艦(1000トン級)   :96隻(半数は予備役)
潜水艦(1000トン以上)    :36隻
潜水艦(1000トン以下)    :48隻

数こそ日本皇国の『八八艦隊計画』やアメリカ連合の『ダニエルズプラン』に劣りますが、海洋国家らしいバランスの取れた陣容と言えるでしょう。
 しかし、この艦隊は実現することはありませんでした。それは第一次世界大戦の反動から世界規模で平和主義が台頭しており、太平洋列強各国も自らが計画した大海軍計画に、主に軍事予算の面で不安を感じた事などからイギリスの提案により海軍軍縮会議が開催されたからでした。
 ちなみに、予算で不安を感じていたのはアイヌ王国も同様でした。
 そうしてイギリスが音頭をとる形で、ローマ海軍軍縮会議が開催され、喧々囂々の各国間の議論の末軍縮条約が締結される事になりました。
 締結された条約は現在の目から見ればかなり不徹底なもので、それは単に列強各国の旧式艦艇の整理と建造中の新型艦艇の建造調整などから導き出された数字合わせに過ぎなかったからです。
 しかし、それでも当時としては画期的な事であり、世界はこれを歓迎し人類の知恵を喜び合うことになります。事実、これを契機として各国の軍事予算は著しく小さくなり、以後20年近くの平和を作り出す一つの契機となったと言え、もし、軍縮がなく各国が好き勝手な軍備増強を行っていたら、1930年を待たずして太平洋方面での大規模な戦争が勃発していた可能性は極めて高かったでしょう。
 また、これに前後して各種の平和条約などが締結されます。特に大きな成果は勿論「国際連盟」の創設でした。アメリカ連合大統領ルーズベルトの提案によるそれは、大筋において受け入れられます。アイヌ王国ももちろん参加し、常任理事国として名を連ねました。
 もっとも、日本帝国を構成するという特殊な国家から日本皇国とアイヌ王国が常任理事国に選出されることは、列強各国から懸念されましたが、実際の国力やアジアとヨーロッパのバランスという点から許容されました。
 また、中国に関する各国の協定である10カ国条約が海軍軍縮会議と共に締結されます。もっとも、この条約は列強各国の外交儀礼的なもので、その実行力はほとんどなく、紙上の空文に過ぎませんでした。むしろ、国連の民族自決を前面に押し立て、それまでの旧帝国主義的な中国から、民主的な中華連邦へと移行させるという名目の元、各少数民族地域の自治独立が押し進められ、満州、モンゴル、ウイグル、チベットなどが列強の影響の元自治独立への道を辿ることになりました。
 さらに1926年には日英同盟の改訂延長条約が結ばれ、日英の結束は最早不動のものとすら言えるほど強固なものとなります。一方、土井・キント協定などの親米外交も展開され日本帝国が平和と安定に寄与していることを世界に喧伝します。

 こうして第一次世界大戦後、世界は平和を享受し経済的な復興も進みました。しかし、戦争からの痛手から回復しきれない欧州列強をよそに、日米の経済的覇権は強大なものとなり、多少欧州の商品が戻ったことでの減少があったものの世界中に二つの国の商品が溢れかえることになりました。
 円ドル戦争とすら言われた経済競争は、日本が急に内需拡大方針に切り替えた事でアメリカの独り舞台となりました。日本が競争から降りた理由は、経済的に成熟した経験を持つアイヌからの指導(実質的には脅しだったと言われている。恐らく事実だろう。)があった事と、なにより1923年の関東大震災により皇都が完全な廃墟となってしまい、これを時の宰相がこれを奇禍として極めて大規模な公共投資計画を発表、推進したからです。余談ですが、これにより皇都東京は、東京オリンピックまでに世界で最も近代的な都として再生する事になります。その威容は、高層建築こそ地理的要因から限界がありましたがアメリカのニューヨークとすら比較されるものでした。

 一方、競争相手の脱落したことでますます増長したアメリカは、不健全な投機熱により誰も気づかないまま死刑階段を上り、ついに1929年株価が大暴落。そしてフーバー大統領は、いち早くこの対策を行ったが、現在の目から見ればまだまだ甘いものでしかなく、景気対策に大失敗。アメリカは全世界を巻き込んだ大不況へと突入します。
 彼の後に大統領に就任したルーズベルトの革新的な政策(ニューディール政策)により、アメリカは不景気を克服しますが、これによりルーズベルトの時代(1933〜1943年)が始まります。
 世界規模の経済不況は、日本帝国全土にも波及してきましたが、帝国は、内政的理由から帝国全土を巻き込んだ内需拡大政策へと政策転換していたいました。そしてその政策をより積極的に推進するため(大規模に投資される税金を海外に流出させないため)に、ある種のブロック経済状態を作り上げます。ブロックの例外とされたのは、資源輸入をしなければいけない英国経済圏と、大戦後の経済優遇政策を今更転換できないドイツでした。これが、後に枢軸同盟へとつながっていきます。
 そう言った、いくつかの偶然と必然により日本帝国は、世界恐慌の波及を最小限に止め、結果として(他が衰退した事で)その国力をさらに増大させる事に成功します。

 そして、不景気と世界に再び不穏な空気が蔓延しだす中、アメリカ連合が遂にその不満を爆発させ始めました。
 二度の祖国統一戦争。欧州各国との外交の冷却化。インディアンやアステカなど有色人国家との国境を挟んでのにらみ合い。自分たちの新たなフロンティアであるはずのアジア、太平洋を席巻しつつある日本帝国の増長。神に選ばれた筈の自分たちが一体何を悪いことをしたのか? と疑問を抱かずにはに思わずにはおれない状況でした。
 そして、大戦不参加からアメリカは国際政治のどん底へと自ら突き進んでいます。
 しかし、アメリカ国民は違った見方をしました。それを他者の責任に転嫁してしまったのです。当然その矛先となったのは、日本帝国とその一党でした。少なくとも1930年代のアメリカ国民はそう考えるようになります。例外は、西海岸地域のニッポニーズだけでした。彼らだけは、他の有色人種国家同様「勝手に墓穴を掘っただけだろう」と言う感想を胸に抱いていました。この温度差は、後々の国内混乱を生んでいく事にもなります。
 しかし、政府首脳すらこうした感情的な考えを心のどこかに持ちつつ、自ら外交的選択を狭めていき、戦争への階段を転げ落ちていくことになります。
 このアメリカの動きに敏感に反応したのは、常に臨戦態勢にある先住諸部族連合と、彼らの後ろ盾となり、また北太平洋地域の盟主を自認するアイヌ王国でした。
 アイヌ王国は1920年代から30年代にかけて、その情報収集能力の大半を北米大陸に投入し、アメリカ連合の上から下まで全ての動きを監視し、アメリカの行動に呼応しつつ自らの警戒態勢を高めていきました。この影響で、一時期日本皇国軍部の動きが見抜けず、東アジア地域で日本皇国による軍事的増長を見逃す事となりました。

 また、軍縮条約以後の1920〜30年代にかけてのアイヌ王国の外交的活動は、極めて低調なものとなります。これは、日本皇国の台頭による相対的な地位の低下もありましたが、日系が等しく「日本帝国」の元で機能するようになった事が大きな理由でした。
 アイヌ王国は、好き勝手に国を運営している日本皇国を傍目に見つつ、この平和な時期を利用してまだまだ不足する点の多々ある「日本帝国」の組織強化に努めるようになります。アイヌがこうした動きを取るようになったのは、第一次世界大戦の結果により世界帝国の一つとして浮上してしまった「日本帝国」の不完全な体制を危惧したアイヌ官僚や政治を生業としている貴族や士族が国を挙げて動き出したからです。この世界再編成の時期に「日本帝国」をより強固なものにしておけば、今後半世紀、場合によっては一世紀以上にわたる繁栄の基礎を作り上げることが出来ると考えた上での行動でした。
 この考えは、明治革命頃から少しずつ持たれていた考えでしたが、国力的な事から日本皇国を主軸に据えなければならないため、自分たちが完全に日本に取り込まれてしまうという、民族としてしごくまともな思考から踏み込んだ制度を作り上げることに躊躇されていました(中核の日本皇国は大日本帝国憲法の制定と、日露戦争での挙国一致と戦時動員体制が機能した事で満足していました。)。しかし、アイヌはアメリカ連合との対立が決定的となりつつある今こそ強固な政治体制を作らなければいけないと言う、潜在的な防衛本能から積極的に活動を開始する事につながっていきます。まさに、近代アイヌ600年の基本方針の防衛本能の発露と言える行動と言えるでしょう。
 そして、この行動は第二次世界大戦までに総力戦体制、戦時体制のさらなる強化を整える事と、アジア各国との各種条約を作り上げる成果を生み出します。しかし、あまりにも巨大な国となった「日本帝国」を完成させるには、戦時体制による体制改革を経てさらに数年を要することになりました。
 しかし、この「日本帝国」を完成させる仕事に大きくマンパワーを取られた事から、別件でその活動に制約が化せられていた情報面だけでなく、国内行政にも大きく遅れを出す事になり、第二次世界大戦の初動では大きく出遅れる事になります。
 戦争が始まるまででも、海軍休日終了後の海軍拡張競争でもスケジュールに遅れをきたし、外交面では日本皇国の追従という形になりました。

 民族の防衛本当とそれによるいびつな挙国一致体勢が作り上げた大帝国を駆け足で追ってきましたが、以上がアイヌ王国の近代から近世、第二次世界大戦までの戦時面から見たあらましです。
 もっとも、明治革命(1867)以後、日本帝国という一つの巨大なシステムの中に含まれていく訳ですが、その体勢作りに身を投じることで、日本帝国内で政治的イニシアチブを確保する事に成功します。しかしその為、アイヌ王国自体は不完全の体制のまま、次なる大戦争へとその身を投じる事となります。彼らが、最後に仕掛けた大改革は戦後において大きな結果を出す事になりますが、それはまた次の機会に譲りたいと思います。

END


第十五節 日本帝国の台頭と第一次世界大戦