第十五節 日本帝国の台頭と第一次世界大戦

 日露戦争の後、(列強)世界は一応の平和を享受しました。特に最も脅威であったロシア帝国を極東から叩き出すことに成功した日本帝国の近隣はようやくの安定を見せることになります。
 もっとも当の日本帝国は、戦争に勝利したとはいえ、戦時の増税や戦中の生産過剰などからくる長期的な不況に突入する事となり、表面的な活動は停滞する事となります。
 しかし、その反対に水面下で日本帝国の活動は活発なものとなります。
 それは日論戦争が世界というものが全人類に認識されるようなって、初めて有色人種が白人に対して勝利したからです。これにより、植民地として長く白人の搾取に苦しんできた地域の独立運動家たちが、その勝利に勇気づけられ、また一部が日本をアテにするようになったからです。
 いち早くこの世界的な流れの変化を読んだ大英帝国は、全てを失う前にと大英帝国連邦の成立を発表し、主要植民地の自治国化を認めることで影響力の維持をはかり、また同時に貿易帝国として帝国の延命を図ろうとしました。
 しかし、他の列強でそのような動きはなく、日本帝国はそれらの国々の植民地の活動家をかくまったり、資金援助をしたりとその活動を広げていきます。
 当然これは、欧州列強の反感を買いましたが、気づいたら自分たちより遙かに強大な力を保持していた日本帝国(これ以前の西欧各国の偏見に基づく誤認によるところが大きい。)に対して必要以上に強気に出れる国家は存在せず、また日本帝国側も新たな大国として世界の舞台に浮上した事を意識してか度の過ぎた活動を行わなかったことから、致命的な対立に発展する事はありませんでした。また、手を出すには日本は欧州からはあまりにも遠かったのです。
 しかし一度作り出された流れは止めることは出来ず、列強の思惑をよそにアジア全土やカリブ海、アフリカの一部へとその影響力を少しずつ浸透させていきます。
 その中で日本が最も重視したのが、対岸の中国政策でした。
 当時の中国は、日清戦争の大敗により地に落ちた清朝の力では巨大な中国を御することは出来ず、また、その衰えた力(軍事力)のため列強各国のなすがままとなっていました。1911年の革命もこれを防ぐことはできずかえって国内に混乱を招き、より列強に付け入れられるようになります。これを、日本帝国が目にとめたのです。
 すでに日本帝国は、日露戦争により満州全土への影響力を確保し、それ以前の日清戦争で海南島の割譲と隣接する台湾公国からの影響もあり、フランスと共に華南沿岸部も経済的影響下に組み込んでいました。さらに、英、独、露、仏といった列強がそれぞれ勢力を拡大し、これに中国各軍閥が混乱に拍車をかけていました。
 これを利用して中国を完全な政治的分裂状態に追い込み、中国が長期(最低30年を目標としていたと言われる)にわたり海外へその力を振り向けられなくしようとしたのです。
 現在の目からみれば、悪辣極まりないと言えるかも知れませんでしたが、海洋帝国として健全な発想を持っていた日本帝国首脳は、強大な大陸国家の出現を阻止するため、この外交政策に国家百年の計を託していたと言っても過言ではなかったと考えられます。そして、この結果は現在皆さんが知るとおりです。
 また、特にかつて大陸で覇を唱え、現在でも北海道周辺地域の実質的覇権を維持していると言っていいアイヌ王国はこの対中国政策遂行に熱心で、多くの予算を割き人員を派遣して、中国分裂を実現すべく熱心に活動を行います。
 これは、近代アイヌ最大の謀略工作として軍事史でも触れられることですが、現在でもその全貌が掴めていません。これは、現在なおも存在する王室情報部の情報統制によるところが大きいと言え、また王室情報部が深く関わっていることから、アイヌ王室、貴族などもそれに関与していると見られ、主に名誉的な問題から一世紀近く立った現在も情報が公開されていないと言われています。
 結果から言うと、この後約半世紀かけて中国は四五分裂の状態となり現在に至っています。
 この時期には、1911年の中国革命に際して、権益保護のため日本軍による保護地域としていた満州に満州族による自治独立地帯を作り、これを諸外国に承認させる事に成功します。
 また、これをもって近代中国の分裂は決定されたと言われています。

 南太平洋地域でも、日露戦争以後日本にとって有利な動きが見られるようになります。
 この当時オセアニア地域は、ニタインクル公国と日本皇国(江戸幕府)の南洋諸侯国の一部、そして英国領となったオーストラリア(大和島)がありました。
 ニタインクル公国(古アイヌ語:森の国 日本名:瑞穂諸島 英名:ニュージーランド)は、当初は日本(江戸幕府)の移民省主導の元開発が行われていましたが、ペナン紛争以後の英国との国際条約でアイヌへの帰属が決定し、以後アイヌ主導の元開発と移民が推進されました。帰属が日本からアイヌに移管したと言っても、同じ日系だった事もあり大きな問題が発生することなく発展し、1850年に公国として独立を宣言し、以後日本帝国に参加しつつも、その地理的環境を活かして独自の路線を歩むようになります。
 また、このオセアニア最大の勢力を持つオーストラリアですが、イギリスに割譲された時点(1826年)で日本人、日系人が400万人も入植してしまっており、英国系を始めとする白人はその十分の一にも達していませんでした。その後も移民に関しては日系も自由とする講和条約を締結した事もあり、表だった拒否も出来ないことから、英国総督府の努力空しく20世紀を迎える頃には、人口の三分の二はニッポニーズという状態になりました。また、英国に主権が移るまでに実施されていた社会資本の整備もその後現地住民の努力により推進され、英連邦で最も豊かな植民地となっていました。
 しかしそこは、片言の英語と日本語に英単語を取り込んだ奇妙な言葉を話す黄色人が溢れかえる、本国人にとっては印度よりもタチの悪い場所となっていました(白人系移民者は豊かなのでこれを受け入れ、既に馴れて(諦めて)いた)。しかしニッポニーズは、少なくとも豪州政府に対しての忠誠心は高く、また教育、文化レベルも高い事から、豪州政府はもちろん大英帝国の中で重要な位置を占めるようになります。また、豪州そのものも、19世紀後半以降インド洋のケープ、インドを軸として三角貿易をおこない、さらに自領内の資源により工業化に成功し、その存在はますます大きなものとします。
 こうした流れを読んだロンドンは、オーストラリアにいち早く自治権を与えることを決めます。これには、1886年の総選挙で労働党系など英国本国系の政党が惨敗を喫した事が深く影響していたと言えるでしょう。自治は1891年に告知され、1901年に英国王を元首とする英連邦として自治独立する事となりました。しかしこれは実質的な完全独立でした。
 豪州人はこれをとても喜び、独立後も英国本国に対して厚い忠誠心を示し各大戦で英国側として奮戦することになります。
 しかし、経済となるとその距離の大きさから少しずつ太平洋地域を重視した政策を取るようになり、その動きは日露戦争以後、明確に列強として台頭してきた日本帝国との繋がりが強くなっていきます。豪州政府もその過半を構成する日系人が、かつての故郷である日本帝国と日本人の活躍に次第に惹かれるようになり、精神面でも日本への傾倒を強くしていくようになります。
 これは本来ならアンビバレンツとも言える状態でしたが、日本と英国がその後も長く友好関係を保った事から、日英の友好関係を強くする存在として、またその地理的位置から豪州はますます重要な位置を占めるようになります。

 そうして日本帝国が足場固めに活動している中、欧州での対立はピークに達し、ついに1914年7月、第一次世界大戦が勃発します。
 この当時、日本帝国(日本皇国、アイヌ王国)の間では、英国との同盟が健在でした。このため、ただちに日本帝国は連合国への参加を表明し、大戦争へと加担します。
 この中でアイヌ王国は、民間レベルでは他の帝国各地域と同様、その巨大な工業力を活かして、欧州や世界各地で不足する商品や兵器、そしてそれを運ぶ沢山の商船を建造し、この動きに連動して、軍では多数の護衛艦艇が日本皇国と共同で建造されました。
 一方、肝心の軍備に関しては、日本が早々に大艦隊を欧州に派遣する事を決めたのとは対照的に、その動きは後手後手に回ったものとなりました。商船を護衛する艦艇こそ早期に北海まで進出しましたが、海軍の主力である戦艦や巡洋艦は遂にジブラルタルを越えることなく停戦を迎えることになりました。これは、アイヌ海軍がちょうど装備の刷新時期にあたっていた事も理由でしたが、主に政治的理由で派兵が行われなかったのです。アイヌ政府は、他国の戦争で自国の主要艦艇が傷つくことを是としなかったのです。この辺り、民族の生き残りをかけて今まで存続してきたアイヌ人ならではの政策と言えるでしょう。しかし、近代戦争を兵士達に学ばせるという目的のため、陸兵は師団規模での派兵が行われます。また、英仏などの動きで戦争中に設立された空軍も一部投入され、貴重な実戦経験を積みます。特に、航空機の活躍に深く感銘を受けた、アイヌ王国ではこの戦争より後他のどの国よりも早く航空主兵思想が芽生えることになります。
 この戦争でアイヌは、1個増強旅団程度の陸兵と2個飛行隊(連隊)派遣されています。


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