■フェイズ〇四「MI作戦」

 一九四二年五月二七日、真珠湾攻撃以来の正規空母六隻を中核とする南雲機動部隊は、自らの先達が歴史的勝利を収めたこの日、日本海軍最大の拠点呉鎮守府を華々しく出撃、一路ミッドウェー島周辺海域を目指した。
 もちろん目指すは同島の攻略であったが、この島の防衛に現れるであろう米機動部隊を完全に撃滅する事こそが最大の目的だった。米機動部隊を完全に撃滅し、ハワイへの扉をこじ開けるのが、聯合艦隊司令長官の山本五十六の最大の目的なのだ。
 しかし当時の日本軍が、一枚岩で同作戦を決行したワケではなかった。

 当時の日本軍は、「米豪分断」という大きな戦略目標に従い、サモア諸島、フィジー諸島、ニューカレドニア島など太平洋南東部における占領地域の拡大に勢力を集中させる予定でいた。その第一歩として、四二年五月にニューギニア南東部にある珊瑚海の要衝ポートモレスビーを攻略したのだ。
 しかも新たに占領したポートモレスビーは、現地に残されていた連合国の膨大な量の遺棄物資と、設営隊が破壊する間もなく放置していった土木作業機械(ブルドーザーなど数十両)によって、占領から二日後の五月十一日には基地は最低限利用できるようになっていた。
 多くの物資が破壊されず残っていたのは、この地を防衛していたオーストラリア軍の数が少なく、破壊する暇がなかったからだ。また、多くの物資そのものは、連合国側にとっては当然の量の兵站物資で、驚くには値しない程度のものでしかなかった。しかし、日本軍にとっては「膨大な物資」と機械力であり、次なる足がかりとするのに好都合だった。
 このため既にニューギニア島北東部のラエに進出していた零戦隊(定数十八機)がすぐさま進出し、偵察に現れたB17を撃退して現地制空権を獲得した。その三日後には、陸攻と零戦それぞれ約三〇機がラバウルから進出し、北東豪州先端部のケアンズを戦略的には奇襲と言って良いタイミングで空襲し、多大な戦果を挙げている。
 その後、現地連合国の抵抗が弱いと判断した聯合艦隊は、ポートモレスビーに爆弾を空輸するなどの努力を重ねて北東豪州に対する航空撃滅戦を開始した。工作機械の一部も使って、ポートモレスビーと島の反対側を結ぶ縦貫道路の建設にも入った。平行してティモール諸島方面からも、豪州南西部に対する支作戦が行われた結果、作戦開始から二週間で、もともと十分な戦力がいるとは言えなかった豪州王立空軍が極めて短期間のうちに半壊してしまう。
 しかし、この当時豪州軍が大挙派遣されている北アフリカ戦線は最盛期に突入しており、戦力を引き抜くことは不可能に近かった。
 英米の協議の結果、慌ててニューカレドニア、西サモアなどに進出し初めていたアメリカ陸軍航空隊が戦闘加入してきた。だが、開戦時の威力を十分維持していた第二十五航空戦隊(二十五航戦)の前には、一個大隊程度ずつで逐次投入されてきた彼らも新たな犠牲者に過ぎなかった。訓練度と実戦経験の差がありすぎたのだ。

 この戦果に気をよくした日本海軍第十一航空艦隊は、モレスビー奪取によって半ば後方拠点となったラバウルにいた二十六航戦を交代で投入して、二十五航戦とローテーションを組ませ、余裕を持った航空撃滅戦を開始する。
 このため半月後の六月初旬には、珊瑚海全ての制空権すら日本側が獲得した。加えて、少数部隊(※海軍陸戦隊と南海支隊の一部)による奇襲攻撃によって、北東部ニューギニア各地の攻略すら順調に進めていた。
 恐らくこのままなら、日本は「米豪分断」に完全に入り込まざるをえないだろうと見られるほど順調な戦争展開だった。これは東南アジア地域での戦闘同様、圧倒的な制空権がもたらした勝利と言えるだろう。
 にも関わらず、戦略価値が乏しいミッドウェー島攻略のために聯合艦隊だけでなく日本軍全体の巨大な軍事力が向けられた。主な理由は、開戦以来連戦連勝を重ね、もはや飛ぶ鳥も落とす勢いとなった山本五十六聯合艦隊司令長官独自の戦略が基になっているとされる。
 山本長官は、ハワイ作戦の時と同様「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞める」と硬い決意を持ち、大本営、海軍軍令部と聯合艦隊司令部は激しく対立した。
 山本長官は、工業力で圧倒的に劣る日本がアメリカと講和するには、ハワイを占領しアメリカ国民の戦意を衰えさせる必要があると考えていたためだ。そのためには、ミッドウェー島を占領してハワイ攻略のための足掛かりにするとともに、誘い出されてくるアメリカの残存空母部隊と決戦して、壊滅させることが絶対的に不可欠だった。
 そして、山本の恐怖を具現化したような艦隊が、この時ミッドウェー近海に出現する。
 その象徴が、南雲忠一中将麾下の空母機動部隊(第一航空艦隊)だ。
 少しこの艦隊の詳細を見ておこう。

 第一航空戦隊 (一二九機)
空母:《赤城》
 (戦:二十一、爆:十八、攻:二十四)
空母:《 加賀》
 (戦:二十一、爆:十八、攻:二十七)
 第二航空戦隊 (一一三機)
空母:《飛龍》
(戦:十八、爆:十八、攻:十八、偵:二)
空母:《蒼龍》
  (戦:二十一、爆:十八、攻:十八)
 第五航空戦隊 (一四四機)
空母:《翔鶴》
 (戦:二十七、爆:十八、攻:二十七)
空母:《瑞鶴》
 (戦:二十七、爆:十八、攻:二十七)
第三戦隊第二小隊 (偵察機:三)
 戦艦:《霧島》(《榛名》欠)
第二戦隊第一小隊 (偵察機:四)
 戦艦:《伊勢》《日向》
第八戦隊 (偵察機:一〇)
 重巡:《利根》《筑摩》
第十戦隊(偵察機:一)
 軽巡:《長良》 駆逐艦:十二隻

零式艦上戦闘機 :一三五機(一二七機)
九九式艦上爆撃機:一〇八機(一二九機)
九七式艦上攻撃機:一四一機(一四三機)
二式艦上偵察機 :二機
合計:三八六機(三九九機)
(※艦載機は予備機含まず。( )内は真珠湾攻撃時)

 以上がこの時の「南雲艦隊」の陣容になる。
 戦史に詳しい方なら、ここで少し首を傾けることがあると思われるので説明を補足しよう。
 インド洋から帰った南雲艦隊は、その後航空隊の補充・再編成を急いだ。イギリス軍空母との戦いから、空母同士の戦いに戦闘機が多数必要な事を実感したためと、防衛体制を整えた拠点に対する艦爆、艦攻隊の損害が思いの外大きかったからだ。
 この二つの要因により、補充と再編成に際して可能な限り戦闘機の増勢に努めた。このため、それまでとは編成が若干異なっており、また開戦時とほぼ同じだけの数を確保している点に現場の努力を見ることができるだろう。ただし、開戦時より艦載機総数が減っているのは、すでに補充が追いつかない為だ。
 また、第二戦隊第一小隊 が艦隊に含まれているのは、《榛名》がインド洋で損傷したため代役として編入されたものだ。同二隻は、試験的に艦載用の電探を装備していたため、電探の実戦テストもあったので前線への配置となった経緯もある。なおこの影響から、第二戦隊の残りの二隻《扶桑》《山城》は固有の艦載機のなくなっていた《鳳祥》ともども出撃が見合わされ、以後この三隻は主に練習艦として過ごす事になる。《鳳祥》については、既に新型機用への改装工事すら開始されていた。
 また牽制作戦として予定されていた「AL作戦」だが、当初は第五航空戦隊を中心としてダッチハーバー空襲などを行い、米機動部隊をつり上げる構想が上がっていた。南雲艦隊が強力すぎると米空母が出撃してこない可能性が高いと考えられたからだ。また、敵主力を北につり上げている間に、ミッドウェー島を先に占領して優位な状況を作ろうという意図もあった。
 しかし作戦が複雑になりすぎるのは明確だった。このため、アメリカ軍の目を北にも引きつけるという目的で、アッツ島、キスカ島の一時的な占領(九月に撤退予定)のみを実施し、圧倒的航空戦力で一気にミッドウェー島を押しつぶすという、小細工を最小限とした作戦に変更された。
 そして、この強大という言葉すら不足する艦隊に対抗するのが米機動部隊と現地アメリカ軍なのだが、編成は以下のようなものだった。

第16任務部隊(TF16)
 (レイモンド・A・スプルーアンス中将)
 空母:《ホーネット》《ヨークタウン》
 重巡:《ビンセンス》《ノーザンプトン》
    《ペンサコラ》
 軽巡:《アトランタ》(防空巡洋艦)
 駆逐艦:九隻
艦載機:一三二機

第17任務部隊(TF17)
 (F・J・フレッチャー少将)
 空母:《ワスプ》
 重巡:《アストリア》《ポートランド》
 駆逐艦:六隻
艦載機:六十六機

ミッドウェー守備隊
戦闘機:各種合計二十二機 
攻撃機:各種合計四十機 
飛行艇:三十二機

 アメリカ海軍側は、TF16がそれまでハルゼー提督に率いられ東京空襲も行った部隊で、TF17が珊瑚海での敗北を受けて急遽編成された艦隊になる。本来なら加えて《サラトガ》が編入される予定だったが、修理がまだ完了してないため《レキシントン》損失を受けて急ぎ大西洋より回航された《ワスプ》が、別行動の形でサンディエゴで艦隊編成後急ぎ西サモアを目指した。さらにその後、日本軍の暗号解読を受けて急遽南太平洋から呼び戻されていた。当初の予定なら、《ワスプ》は当面は大西洋や地中海で作戦行動する予定だったものだ。
 なお、アメリカ側が付け焼き刃とは言え、日本側の大侵攻に対応できた理由は、今日では良く知られている通り日本海軍の暗号解読の賜物である。しかし、日本海軍の編成(南雲艦隊)が分かっているだけに、この時米海軍が受けている恐怖は非常に大きなものだった。
 この頃の南雲艦隊とは、それまでの戦績から自然災害に匹敵する災厄と見られていたのだ。

 日本艦隊は、南雲空母部隊が五月二十七日に派手やかに出撃の後、作戦海域に近づく六月五日頃には、南雲艦隊、攻略部隊、山本五十六聯合艦隊司令長官直率の主力艦隊などが、都市の鉄道ダイアグラム並の複雑なスケジュール表に沿って作戦海域に集結しつつあった。
 そして、五月二十九日に日本側の作戦目標を暗号解読から知ったアメリカ艦隊も、自らが「ポイント・ラック」と名付けたポイントに向けて集結しつつあった。日本の空母部隊がミッドウェー島攻撃に拘束されたそのスキに、痛撃を加えるべく伏在を開始したのだ。
 なお日本側も米空母部隊については、規模はともかくハワイ出撃を察知していた。
 軽空母《鳳祥》の不参戦の影響で、当初の予定よりさらに後方に位置していた山本聯合艦隊司令長官直率の主力艦隊は、主力が攻撃される可能性は低いと判断した参謀長(宇垣少将)の判断で全作戦参加部隊に二重通達の形で情報を伝えていた。このため先鋒を司る空母部隊は、先だってのセイロンでの装備転換の愚という二の舞を避けるべく、敵空母は存在するという大前提で決戦場へと赴くことになる。
 だが、本当の意味での先遣部隊となる潜水艦は、開戦から続く無理から予想進出航路への展開が遅れていた。そのうえアメリカ側が暗号を解読していたため先に通過され、哨戒部隊としてほとんど機能しなかった。
 敵機動戦力を捕捉撃滅できるかは、南雲艦隊の双肩にかかっていたのだ。
 そして運命の六月五日がやってくる。

 午前四時三〇分、ミッドウェー島北西二四〇浬(約四五〇キロメートル)から南雲艦隊の第一次攻撃隊(零戦三十六機、艦爆五十四機、艦攻五十四機)は、嶋崎少佐(翔鶴飛行隊長)の指揮により、六時十五分から同島の空襲を開始した。(※総飛行隊長の淵田中佐は盲腸、航空参謀の源田中佐は感冒で共に艦内の病床にあった)
 日本機接近中のレーダー報告を受け、待ち伏せていた米戦闘機は約二十機(二十二機)だった。だが、実戦経験豊富な零戦隊は、アメリカ軍の奇襲直前にいち早く戦闘を開始して旧式機(F2F)中心の基地防空隊を容易くそのほとんどを撃墜した。そして安全となった空を通り、圧倒的戦闘力を持つ艦爆隊・艦攻隊が予定通り飛行場や地上施設に投弾した。
 一方、アメリカ軍は早暁から二十二機の哨戒機(カタリナ飛行艇)を出し、午前五時三〇分には南雲機動部隊を発見していた。この報告を受けた米空母部隊からは、午前七時に《ヨークタウン》《ホーネット》から攻撃機一一六機を発進させ、やや遅れて《ワスプ》からも三十五機を発進させている。ただし、この時の米艦載機隊で実戦経験がある部隊は皆無だった。パイロットの質も日本とは比較にならないぐらい低く、その後二〜三時間近くも付近空域を迷子となる。これが勝敗の明暗を分けたと言っても過言ではないだろう。

 両軍で最初に攻撃を受けたミッドウェー飛行場は、すでに南雲部隊ヘ攻撃隊発進後だったためもぬけの殻だった。だが、約一四〇機の集中爆撃により、ミッドウェーの基地機能は短期的に失われた。アメリカ軍機を地上撃破できなくても、基地を一時的に機能停止に追い込めば問題ないと判断した嶋崎少佐は、午前七時五分「第二次攻撃ノ要ナシ」と打電する。
 この報告を受けた時の南雲部隊は、ミッドウェー基地航空隊の散発的な攻撃(約四十機が小規模な編隊ごとに分かれて五月雨式に襲来)を受け続けていた。だが、直援零戦の圧倒的戦闘力と対空砲火により、ほとんど実害がなかった事もあり、予定通り第二次攻撃隊を対艦兵装のまま待機させ、攻撃を受けるまでにセイロン空襲時より多めに送り出した索敵機(水偵十一、艦攻九)の報告を待った。

 『敵ラシキモノ十隻発見・・・』
 午前七時十八分、日本側が待ちに待った報告が飛び込んだ。時間差をつけて三十分遅れて出発した艦攻がもたらしたものだった。
 あいまいな報告を受けた南雲司令部は、新型の高速偵察機を直ちに同方面に派遣し、付近空域の偵察機にも詳細な報告を期するべく艦隊の集合を指令した。また、防空戦闘を担当しない空母では、攻撃隊を飛行甲板上に上げ始める作業がすぐにも行われた。
 そして、新たな偵察機からの報告を待っていた南雲のもとに、次々と報告が舞い込んできた。
 『敵発見、みっどうぇーヨリノ方位十度。敵兵力ハ空母二ヲ中心トシ、巡洋艦三、駆逐艦七ヲ伴ウ。(以下正確な座標が続く)』
 午前八時十分待望の報告が舞い込み、さらに相前後して近くを飛行していた偵察機からも同様の報告がいくつも送られた。報告を受けて南雲司令部は決断を下し、午前八時十八分、第二次攻撃隊発進を命令した。
 この時南雲艦隊から出撃した第二次攻撃隊(零戦五十四機、艦爆五十四機、艦攻五十四機)は、南雲司令部が切り札として温存していた最精鋭のパイロット達で構成されていた。
 戦闘機隊・板谷少佐、艦爆隊・江草少佐、艦攻隊・村田少佐、という当時世界中を探しても恐らく最高レベルに達するであろうパイロット達に率いられたベテランパイロットの群は、午前八時三十七分に早々と空中集合を完了すると、複数の偵察機が送り出す献身的な誘導波に導かれつつ、一路米機動部隊を目指した。
 なおこの時までに南雲司令部は、二群に別れ空母三隻から構成されているなど敵艦隊の詳細の殆どを掴んでおり、攻撃隊もこれを知っての進撃となった。
 いっぽう、第二次攻撃隊を送り出し終わった頃に、帰投してきた嶋崎攻撃隊の収容が終わりにさしかかっていた午前八時五十九分、戦艦《伊勢》の二一号電探が接近する米艦載機の集団と思われる規模の若干大きな部隊を発見した。収容機の少なさから、すでに防空隊の即時待機を準備していた第二航空戦隊からただちに六機の追加戦闘機が送り出され、この迎撃に向かった。そして既に上空にあった零戦ともども彼らに全てを任せた艦隊側では、大急ぎで第一次攻撃隊の収容が行われた。

 九時十八分、米機動部隊から放たれた第一派の攻撃が開始されるが、実戦経験がないうえに鈍い動きしかできない雷撃機は、そのほとんどが艦隊に近づくまでに零戦に撃墜されてしまう。最終的に攻撃してきたTBD艦上雷撃機四十一機のうち、実に三十五機が撃墜されていた。しかも雷撃を受けた艦艇はほとんど皆無で、放たれた魚雷も見当違いの場所に落とされたため実害もなかった。零戦パイロットに、撃墜スコアを稼がせるだけに終わったと言っても過言ではない無惨さだった。
 そして嶋崎攻撃隊の収容と第三次攻撃隊としての再編成の間も、散発的に襲来するアメリカ軍機に対応するため、日本側の防空戦闘機の追加発進が行われた。
 最初の米艦載機の攻撃から約一時間が経過した午前十時頃、約三十機の戦闘機が艦隊上空を舞っており、水上艦艇が対空弾幕を打ち上げる必要もないほど完全な防空戦闘を演じていた。
 そうした中、再編成と準備が完了した第三次攻撃隊が、午前九時四十八分より各母艦から発艦を開始された。彼らは約二十分かけて発艦、空中集合の後、敵にトドメをさすべく進路をとった。
 そして、艦載機の発艦を見守る日本側に楽観ムードが漂っていた午前九時五十八分\\丁度《赤城》で最後の雷撃機の発艦にさしかかっていた頃、《伊勢》の電探は二つの大きな飛行集団の接近を捕捉する。
 この報告を受け、それまでの雷撃機に対する迎撃に加わらず、敵主力攻撃隊襲来に備え第三次攻撃隊と共に第五航空戦隊の空母《翔鶴》《瑞鶴》で待機に入ろうとしていた十七機の零戦が、攻撃隊に続いて慌ただしく飛行甲板を蹴った。さらに、それを見た一部の零戦隊が弱体な敵雷撃部隊の迎撃に見切りを付けて上空へと駆け上り始め、最終的に三十機近い零戦が、接近しつつある新たな敵部隊の迎撃に向かった。同時に、艦載機発艦のために広く散らばっていた各母艦の集合と艦隊の再編成が急いで行われた。
 なお、このアメリカ軍の攻撃隊は、急降下爆撃を行おうと日本艦隊を探していたウェイド・マクラスキー少佐の急降下爆撃機隊\\ドーントレス艦上爆撃機四十三機だった。彼らは任務部隊の関係から二つの集団に分かれて接近しており、日本側が存在を確認した時はまだ付近に敵空母がいる事を確認しておらず、半ば迷子のような状態だった。
 そして実戦経験がなく、まともに敵を発見できないのは何もマクラスキー編隊だけではなかった。この当時のほとんどの米空母機も同様で、当時の日米のパイロットの質の差をこれ以上ないぐらい物語っていると言えるだろう。

 十時十三分、二つに分かれていたマクラスキー隊は突然太陽の方角から逆さ落としをかけてきた零戦隊の襲撃を受けた。
 小規模だったワスプ飛行隊の十二機のドーントレス艦上爆撃機は、九機の零戦によって瞬時に半数が撃墜され、このため生き残りは攻撃を仕掛ける事なく爆弾を投棄して待避に移った。だが、執拗な攻撃によってさらに四機を失い、雷撃隊同様ただ撃墜されるために出撃したような結果しか残せなかった。
 いっぽう空母二隻分のマクラスキー隊主力三十一機は、ほぼ同時に八機の零戦の迎撃を受けた事で、近くに日本艦隊がいると判断した。零戦が執拗につきまとうのをかわしつつ、十時二十分に眼下に南雲艦隊主力を確認、直ちに急降下爆撃へと移る。
 この時マクラスキー隊主力に狙われたのは、第一航空戦隊の《赤城》《加賀》だった。すぐ側には防空のためと言うよりも電探情報を伝えるため《伊勢》《日向》が両艦の側面に位置し、逆さ落としをかけてくる米艦載機に空母と共に激しい弾幕を張り巡らせた。
 だが、急降下に移るまでにマクラスキー隊は、さらに迎撃に加わった零戦によってその三分の二が撃墜されていた。それでも上空の零戦を急降下で無理矢理振り切って投弾態勢に移ったのだが、熟練した零戦パイロットはこの段階においても味方の対空砲火をものともせず横合いから銃撃を加えたためさらに数を減らしていった。
 さらに、通常の日本艦隊より濃密な近接対空砲火によって、二機が火だるまになりながら海面に激突。結局投弾に成功したのは、マクラスキー隊長以下僅か六機でしかなかった。
 だが、生き残りであるだけに熟練者が多いアメリカ軍の爆弾は、《赤城》の艦後部に一発、《加賀》の艦首付近と艦中央部に合計二発が命中した。一〇〇〇ポンド爆弾の破壊力は、付近一帯の飛行甲板を破壊した。しかし、事前に損害に備えていた両空母は直ちに消火・復旧作業に入り、格納庫がほとんどカラだった幸運も重なって、それ以上被害が拡大することなく事なきを得ている。
 なお、この被弾により《赤城》《加賀》は共に中破したが、後部の被弾一発で済んだ《赤城》は応急修理の後は航空機の運用を続けている。

 一方、都合二八〇機以上の攻撃隊を放った日本側だが、午前十時十二分に米防空戦闘機との戦闘を開始した。
 この時米空母部隊は三隻の空母から約四十機(記録により誤差がある)の戦闘機を艦隊前面に配置していたが、攻撃する日本側の第二次攻撃隊だけで相手を上回る五十四機の零戦が存在し、うち制空戦闘を任されていた三十六機がただちに米戦闘機とのドッグファイトに突入した。零戦隊は絶望的なまでの技量の差を見せつけ、戦闘開始約十分で三分の一を撃墜して日本側の損害は皆無という快挙を成し遂げる。
 さらにその後、ただ逃げ回り生き延びる事が任務となった米防空戦闘機隊を追い回して、最終的に二十機前後の戦果を挙げている(アメリカ軍側公報でも墜落と着水数の詳細が不明)。
 そして、がら空きとなった米艦隊上空に第二次攻撃隊一〇七機(一機は途中発動機不調で帰投)が各航空戦隊ごとに分かれると、午前十時二十分、きしくも《赤城》が被弾したその時、訓練のようにまずは二隻の空母が集中するスプルアンス艦隊に攻撃を開始した。
 もっとも、日本側の攻撃が全て順調だったわけではない。この時の米艦隊の弾幕射撃は、これ以後日本軍機を悩ませることとなるその萌芽を見せるほど濃密だったからだ。弾幕射撃はそれまでのハワイ沖やセイロン沖とは比べモノにならないぐらい激しく、弾幕射撃だけで全体の10%近い未帰還機を出している。
 だが、命中率八〇%と言われた艦爆隊、高度五メートルでの雷撃が行える艦攻隊の技量は、その弾幕を以てしても押し止められるものではなかった。特に第一、第二航空戦隊の攻撃が集中した《ヨークタウン》に対する攻撃は命中率30%以上に達してていた。それぞれ十発前後の魚雷と爆弾を受けた《ヨークタウン》は(正確な数字は諸説あり不明。至近弾も多数)戦闘開始十分で大破炎上し、第三次攻撃隊が現れる前に誘爆しつつ波間に没しようとしていたほどだ。また主に第五航空戦隊が攻撃した《ホーネット》も、爆弾三発(至近弾五発)、魚雷三発を受けて同じく大破していた。さらに空母の側にいた重巡洋艦《ペンサコラ》に魚雷二発、防空巡洋艦《アトランタ》にも艦橋付近に自爆機一機が突入して共に大破、損害を拡大していた。
 そして第二次攻撃隊が去った約三十分後、何とか防空戦闘機の生き残りが陣を張ろうとしている空に、日本側の第三次攻撃隊が現れた。
 この攻撃隊は、ミッドウェーに対する攻撃でいささか消耗していたが、零戦三十一機、艦爆四十七機、艦攻四十機という圧倒的戦力を保持していた。しかも勝利に乗じているため士気も高く、まるで第二次攻撃隊の再現とも言える攻撃を繰り返した。まずは十数機にまで目減りした戦闘機隊を蹴散らすと、TF16の損傷艦艇と無傷のTF17に対して集中攻撃を行った。
 深く傷ついて速力も大きく落ちていた《ホーネット》は、雷撃隊に集中的に狙われて魚雷四本をさらに受けた。中型とは言え軽防御でしかない《ワスプ》は、艦隊規模から防空密度が低かった事もあり多数の攻撃を許した。
 《ワスプ》は急降下爆撃隊により四発の命中弾と二発の至近弾を受けたすぐ後、高度三〇〇〇メートルから侵入した水平爆撃隊自慢の八〇〇kg徹甲爆弾二発が相次いで艦中央部に命中。艦底深くで爆発したためキール(竜骨)が折れ、雷撃隊が攻撃するまでもなく二つに折れてそのまま沈没してしまう。
 また、損傷によって速力が落ち後方に取り残されつつあった《ペンサコラ》と《アトランタ》もそれぞれ五機の艦攻中隊が射的の的のように二〜三本の命中魚雷を浴びせかけたため沈没するしかなかった。
 しかも、さらにその時点でも攻撃力を残していた一部の機体はTF17の残りの大型艦である二隻の重巡洋艦に殺到した。雷撃をかわした《アストリア》は取り逃がしたが、《ポートランド》には急降下爆撃による爆弾四発を叩きつけて大破させ、後に《伊一六八潜水艦》により撃沈されている。
 アメリカ艦隊最後の被弾は、六月五日午前十一時二十三分の事だった。
 そしてここに太平洋上に存在した全ての米空母部隊は消滅し、日本軍の侵攻を遮るものはなくなった。
 当然その後は、依然として圧倒的な戦力を誇る南雲艦隊を先鋒とするミッドウェー島攻略が次の段階へと移行する。
 もっとも、ミッドウェー島に対する攻撃はその日はそれ以上行われなかった。南雲艦隊も再編成のため反転し、翌日黎明より再び圧倒的な攻撃隊が同島上空に押し寄せる。
 南雲艦隊の攻撃は、前日の繰り返しのように早朝から開始された。僅かばかり生き残っていたミッドウェー島防空隊を粉砕し、傍若無人に地上のアメリカ軍に爆弾と銃撃の雨を浴びせかけた。
 そして、その日の太陽が西に大きく傾いた頃、その太陽を背に日本の主力艦隊\\戦艦《大和》《長門》《陸奥》がミッドウェー諸島沖合に姿を現し、それまでの日本軍機の攻撃が児戯に思える程の艦砲射撃を実施した。
 アメリカ軍現地守備隊のモラルブレイクも、実質的にはこの瞬間だった。翌朝黎明から開始された日本軍上陸時に一度水際付近で激しい抵抗をしたものの、さらに《金剛》《比叡》を加えた艦砲射撃を受けた後の第二次上陸が成功した段階で、速やかに白旗を揚げて降伏している。
 なおこの時の模様は、同島に戦意昂揚映画を撮影するため訪れていた映画監督ジョン・フォードの手により総天然色で撮影されているので、今日の我々が合成映像によらず貴重な戦闘映像を見ることが出来るのは有名だろう。

 以下がこの戦闘での日米双方の総決算となる。

 日本側
沈没:駆逐艦:一隻、輸送船:一隻
(※共に攻略戦前後の潜水艦のゲリラ的襲撃による損害)
損傷:
空母:《赤城》《加賀》他少数
艦載機:三十七機損失
戦死者:五七三名(上陸後の戦闘含む)

 アメリカ側
沈没:
空母:《ホーネット》《ヨークタウン》
   《ワスプ》
重巡:《ペンサコラ》《ポートランド》
軽巡:《アトランタ》
駆逐艦:一隻
艦載機:一九八機(艦載機は母艦と共に全滅)
基地機:七三機(重爆撃機と飛行艇の生き残りはハワイ方面に順次待避)
戦死者:四〇五七名(守備隊除く)

※ミッドウェー島守備隊の地上部隊(D・シャノン大佐以下、第二急襲大隊、第六守備大隊)、航空戦力(第二十二海兵航空群、第七陸軍航空軍分遣隊)はほとんど全てが死傷・行方不明もしくは捕虜となっている。軍事的意味での損害は、戦死者、行方不明者、そして捕虜を合わせて約三千名になる。

 

 

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■フェイズ〇五「セカンド・ステージ」