■フェイズ〇五-1「波號作戦」

 一九四二年六月二十五日、揉め揉めた日本軍の次の戦略目標が決定した。
 目標は「布哇」。ここを帝国の全軍事力を結集してアメリカとの雌雄を決し、彼らに講和のテーブルに着くことを強要するのだ。
 攻略時期は、準備の関係から秋とされた。
 その間、モレスビー方面での圧力を強め、南方への興味が強いと思わる欺瞞行動を取りつつ準備を進め、トラック諸島に集結させた全戦力を十月半ばに一気に艦隊を東太平洋に前進させる。そして十月二十日より米艦隊撃滅のための行動に移り、十月二十四日に主目標であるオワフ島に上陸第一歩を示すというタイムスケジュールが組まれた。
 このため、開戦より無理が重なってくたびれていた艦艇の多くが一度ドック入りをしたり、入念に整備するべく本土へと帰った。もちろん母艦航空隊の再編成が行われ、損傷した艦艇の修理が急がれた。
 幸いにして、ミッドウェーにて米機動戦力の過半が殲滅されたため、アメリカ側の動きは極めて低調だった。唯一活発に活動していると見られる潜水艦群も、練度もしくは機材の問題からか脅威とは言えなかった。おかげで戦力の備蓄、作戦の準備は比較的順調に行われた。(※米潜水艦の低調は、その後魚雷の技術的欠陥と判明。)
 また六月末に、予定が延期されていたアリューシャン列島西端のアッツ島、キスカ島の攻略とダッチハーバー攻撃がアメリカ軍に息を付かせない意味も込めて行われた。ここに日本本土の安全確保とハワイに対する哨戒ラインが完成し、ハワイに対する包囲の輪は日増しに強く締め付けられていた。
 だが、アメリカ軍の目を南太平洋に向けるため、ポートモレスビーからの軍事圧力は継続された。同方面の補給と制海権維持を確保するべく第八艦隊が編成され、モレスビーから行われる北東オーストラリアに対する航空撃滅戦も比較的順調に行われた。
 軍令部の分析では、北東豪州と南太平洋には約三〇〇機の連合国機が展開していると見られ、豪州艦隊と米巡洋艦隊など有力な艦隊も豪州南東部やニューカレドニアなどを起点に集結しつつあり、ハワイへの戦力集中という事態にはないと見られていた。
 そうした中、日本本土から順次艦隊が出撃し、九月末にはトラック諸島に集結された。
 以下が、ハワイ作戦に指向していた主要戦力の概要である。

 ・第一機動艦隊(艦載機:約四〇〇機)
 空母:《赤城》《加賀》
 空母:《蒼龍》《飛龍》
 空母:《翔鶴》《瑞鶴》
 戦艦:《榛名》《霧島》
 重巡洋艦:二隻

 ・第二機動艦隊(艦載機:約一二〇機)
 空母:《隼鷹》《飛鷹》《龍驤》
 重巡洋艦:三隻

 ・第一艦隊(主力艦隊)
(山本五十六大将・聯合艦隊司令長官直率)
 戦艦:《大和》《武蔵》《長門》《陸奥》
 重巡洋艦:三隻

 ・第二艦隊(攻略支援隊)
 戦艦:《金剛》《比叡》
 空母:《瑞鳳》(艦載機:約三〇機)
 重巡洋艦:四隻

 ・第三艦隊(攻略主隊)
 戦艦:《伊勢》《日向》《扶桑》《山城》

攻略部隊(第十七軍)
 第二師団、第三十八師団、第四十八師団
 第二戦車旅団

ミッドウェー基地航空隊
 陸攻:約五〇機
 飛行艇:約二〇機
その他:約三〇機

 ※後方から進出予定の海軍機約五〇機、陸軍機:約一五〇機がある。

 そしてこれに対するアメリカ海軍とハワイ方面の戦力の概要は、おおよそ以下の通りとなる。

第17任務部隊
 空母:《サラトガ》《レンジャー》
   (艦載機:約一五〇機)
 戦艦:《ノースカロライナ》《ワシントン》
 重巡洋艦:二隻 防空巡洋艦:一隻

第13任務部隊
 戦艦:《サウスダコタ》 
 戦艦:《メリーランド》《コロラド》
 戦艦:《テネシー》《ペンシルヴァニア》
 戦艦:《ニューメキシコ》《アイダホ》
    《ミシシッピ》
 重巡洋艦:五隻

ハワイ基地航空隊
 戦闘機:約一五〇機
 爆撃機・攻撃機:約一二〇機
 その他:約四〇機

オワフ島守備隊
 第二十四師団、第二十五師団、他多数

 以上二つの巨大な戦力は、十月半ばまでにその全てがハワイ方面を指向するようになっていた。もはや作戦の隠し立てしていない日本側の意図を正確に掴んだアメリカ側も、急ぎハワイ正面へ戦力を集中していた。
 しかし双方問題は山積みだった。
 日本側の問題は主に燃料問題だった。開戦からミッドウェー島攻略までの一連の戦闘で、聯合艦隊は過半の備蓄燃料を消耗してしまっていた。このため占領したインドネシア各地から直接重油として使える原油(もしくは一部の石油精製物)を積み込んだタンカーが、直接トラック諸島に向かうという泥縄式の燃料準備が行われた。このため本来本土に送られる予定だった燃料が届かず、本土での生産にすら影響を与えるなど、実に日本らしい悪影響すら出ていた。
 また、連続した作戦の連続で、開戦以来の熟練パイロットが四分の一近くも減少しており、一騎当千型のパイロット育成から抜け出せていない日本海軍のパイロット育成を思うと不安要素としては非常に重要な位置を占めていた。もっとも、補充されたパイロットであっても、当時の世界レベルなら十分合格ラインに達する腕前を持っており、これは開戦時の神業のような技量を持つパイロットばかり抱えていた事による贅沢な視点と言えなくもない。
 いっぽうのアメリカ軍は、日本軍とは比較にならないぐらい状況は悪かった。
 何しろ開戦以来正面からの戦いでは一度も勝利できず、大規模な戦闘のたびに逐次投入のような形で戦力を失っていくという悪循環を繰り返していたからだ。にも関わらず、アメリカ軍全体としての稼働戦力の過半を欧州に振り向けられ、太平洋方面は守るべき場所が多いので各地の戦力は希薄だった。これを補助しうる機動戦力たる海軍は壊滅に近いというのが、現状の最小限の解説になるだろう。
 確かにこれでは、頭を抱えない方がおかしいと言えるだろう。
 しかも今度の戦場は、太平洋で最も重要なストロング・ポイントのため戦力が少ないからと言って逃げることはできなかった。
 しかも、当初はトラック諸島に集結しただけの日本側の意図に気付くのが少し遅れたため、戦力の集中も十分とは言えなかった。アメリカ軍としては、とにかく負けないための作戦が主題となるという有様だった。
 おかげでアメリカ軍は、ハワイ諸島そのものでの直接防御という手法と取らざるをえなかった。
 作戦も、日本海軍が最初に手を付けるであろうオワフ島への攻撃開始した時に横合いから空母部隊が奇襲をしかけ、戦力が漸減したところに戦艦部隊が突入して船団の壊滅を計るというかなり刹那的で、そしてミッドウェー沖海戦の焼き直しのような作戦となっていた。
 これは、不利な側の防戦方法が他にないからという理由が第一だったが、それだけこの頃のアメリカ軍が追いつめられていると言えるだろう。
 そして一九四二年十月二十日、戦いの開幕ベルが鳴り響いた。

 十月二十日にハワイ近海へと侵入した日本海軍は、事前に配備した潜水艦、ミッドウェーの基地航空隊、そして各艦隊の偵察機を総動員して、米太平洋艦隊の残存艦隊の所在を探し求めた。
 「真珠湾ニ艦影ナシ」、「おわふ島ニ艦影ナシ」、「はわい諸島全島ニ艦影ナシ」、「じょんすとん島近辺ニ艦影ナシ」・・・入る報告は全て米残存艦隊が洋上に出撃している事を示していた。
 西海岸に退却しているのではと、楽観的な憶測を語る参謀もいたがごく少数派で、先鋒を司った第一、第二機動艦隊は、米艦隊の影を警戒しつつも第一目標へと攻撃隊を差し向けた。
 だが、第一撃はハワイではなかった。
 その近在の小さな島、滑走路がようやく一本あるだけの小さな島、ジョンストン島だった。
 ここには海兵隊一個大隊と一個大隊程度の航空隊が駐留していた。だが、わずか数十機の航空機はあっという間にすりつぶされ、全島に爆弾が投下されて、基地としての機能が停止する。
 そしてその間に日本海軍の第二艦隊が同島に近づき、夜半を待って艦砲射撃を開始した。
 
 「囮」、「陽動」、「欺瞞」、「予備攻撃」様々な言葉が真珠湾のアメリカ軍司令部で飛び交った。だが、一番大きな声はジョンストン島を人質にして米艦隊を誘因・撃滅しようとしているというものだった。
 恐らく、間違いないだろう。
 だが、このまま座してジョンストン島が日本軍の手に落ちるのを待っていては、その二週間ほど後の十一月には日本軍のハワイに対する本格的な攻撃の時に不利になる。ハワイの基地航空隊は、ミッドウェーとジョンストン、そして機動部隊という三方面から攻撃を受けるからだ。
 ハワイ諸島への増援もままならない状況では、偵察面でも不利を強いられるなど、アメリカ軍に不利な要素が非常に大きくなると見られた。
 だが、南雲艦隊が空襲を開始したという報告を受けた当初、アメリカ軍司令部はジョンストン島を見捨てる積もりだった。
 最後の希望である機動部隊を差し向けるには、不利な要素が大きかったからだ。アメリカ軍最後の艦隊は、オワフ島の制空権下で行動しなければ勝ち目がないのだ。
 だが、一つの報告、いやいくつかの情報を総合した結果、日本軍に弱点が存在する事が分かったため、俄に事態が激変する。
 弱点とは、いくつもの艦隊を複雑に運用しているヤマモトの大艦隊は、空母こそナグモとカクタの元に集中しているが、戦艦はその限りではなく、多くても四隻程度の戦艦が集中されているに過ぎないという事だった。
 そして最も重要な情報は、暗号電文の解読と潜水艦からの報告を総合した結果、ヤマモト・イソロク本人が謎の新型戦艦に座乗し、決戦海域に赴いている事が分かった点だ。

 これはチャンスだった。
 日本人達は、トーゴーと同じ気持ちで司令部ごと突っ込んできた。
 いや、これこそ罠なのかもしれないと憶測が飛んだが、ヤマモトの艦隊構成が伝えられると、その考えも修正を強いられた。
 潜水艦からは、ヤマモト率いるの主力艦隊は、謎の新型戦艦二隻と巡洋艦から構成されていると報告されたからだ。
 新型戦艦に余程自信があるのか、それともナグモ機動部隊に全幅の信頼を置いているのかもしれないが、相手は所詮二隻の戦艦だった。これなら近在にいるTF13が有する合計十隻の戦艦を以てすれば、空襲をはね除けつつの戦艦撃破も比較的容易いだろうと見られた。
 もちろん、それまでにナグモ艦隊によって手痛いダメージを受けるとは予測された。だが、作戦行動中の戦艦、しかも多数の護衛艦艇を含む艦隊を簡単に殲滅できるとは、いくらなんでも考えられなかった。しかもこちらはヤマモトが座乗しているであろう二隻の戦艦を沈めるだけで、日本側の司令部機能に大きな支障をもたらし、彼らのハワイ侵攻すら中止させるのに十分なファクターとなるのではと考えられた。
 そして、当面使い道の少ない旧式戦艦と引き替えにハワイが守れるのなら安いものだ、と司令部が判断するのに時間はかからなかった。
 それまでハワイ南東海上に待避していたアメリカ軍最後の機動戦力に攻撃が下命され、日本人達がジョンストン島攻略で身動きできなくなったその時に他の全てを無視して、ヤマモトを抹殺せよという至上命令が飛んだ。

 十月二十一日午前八時半、空襲と第二艦隊の艦砲射撃で穴だらけになったジョンストン島に海軍特別陸戦隊の二個大隊が上陸を開始した頃、南雲艦隊から偵察に出ていた偵察機から驚くべき報告が飛び込んできた。
 「じょんすとん島東南東海上ニテ敵艦隊発見・・」
 その後の報告から、空母二隻を擁する機動部隊と戦艦多数を含む主力艦隊だと分かった。ただちに準備万端な状態だった攻撃隊が送り出され、二つの水上艦隊が敵の方向に向けて進撃を開始する。
 だが、この時日本側の驚きは別のところにあった。あまりにも簡単に、米太平洋艦隊が自分たちの眼前に姿を現したからだ。
 「ノコノコ」という表現がこれ以上ないぐらい似合う状況に、ほとんどの参謀がいぶかしんだ程だ。
 だが、攻撃的な一部指揮官の言葉、「敵の意図などどうでもよい。出てきたのだから、全力で撃滅すればよかろう」という言葉によって日本側司令部の態度も固まっていく。
 確かに相手の理由はどうあれ、撃滅してしまえばそれでよいのだ。報告から考えて米太平洋艦隊に他の予備兵力は存在せず、ハワイからの大型爆撃機にさえ注意を払えば、艦隊戦でこちらが敗北する条件はほとんど存在しないのだから。

 午前十時三十六分、最初に剣を抜きはなった日本側の艦載機の群が、米機動部隊上空にさしかかった。総数二〇〇機以上の大編隊で、戦闘機の数だけで相手空母一隻分に匹敵する数(零戦だけで七十二機)だった。とてもではないが、空母二隻の艦隊が押し止められる戦力ではなかった。
 そして、一方的な攻撃開始から三十分が経過した。攻撃隊隊長の淵田少佐が戦果確認報告を送った時、数十分前まで洋上を堂々と行進していた二隻の空母は、一隻はすでに海面下に没し、もう一隻も断末魔の火焔を上げるだけになっていた。
 それ以外にも何隻かの護衛艦が煙を上げており、二隻の空母にピッタリ寄り添いながら濃密な弾幕を張り巡らせていた二隻の新型戦艦もその例外ではなかった。うち一隻は、艦中央部から激しい火焔を見せつつ速力も大きく減じていた。
 完勝だった。
 しかも日本側の攻撃はこれだけではなく、ほぼ同規模の第二波が一時間ほど遅れて既に進撃中だった。そのうえ少し遅れて日本艦隊を攻撃した米艦載機群(約九十機)は、空母九隻から発艦した自らよりも数の多い零戦の前にジュラルミンと肉の破片へと分解されつつあった。

 午後零時十二分、九隻の空母から出発した第二次攻撃隊は、艦隊の残骸となりつつあった空母部隊の生き残りにはほとんど目もくれず(落後していた戦艦と重巡洋艦には、一部攻撃隊が殺到したが)、今度はそれより少し前を進んでいた戦艦部隊に殺到した。
 戦艦八隻、しかも艦隊の中心に位置するのは見たこともない新型戦艦で、パイロット達にとってこれ以上の獲物は存在しなかった。
 しかも大型艦艇の数の割に護衛の駆逐艦の数は少なく、大型戦艦の多くは旧式戦艦なだけに空母部隊ほど対空砲火は激しくなかった。
 各母艦ごとのグループに分かれた攻撃隊は、それぞれ目標とさだめた戦艦へと突撃した。
 この時主に狙われたのは、それぞれの位置の関係から艦隊中心のやや後ろに位置していた旧式戦艦五隻だった。特に開戦から移動してばかりでほとんど高射砲、機銃を増設できなかった《ニューメキシコ級》戦艦3隻が集中的に狙われた。弱い相手から潰すのは戦いの鉄則だ。
 この戦闘は、マレー沖海戦の焼き直しと言われるほど一方的なものとなる。マンモスの群の狩りに飽きた艦載機達が立ち去ったとき、そこに残っていたのはたった数十分で半壊した主力艦隊の姿だった。
 八〇〇kg徹甲爆弾を主砲弾薬庫に受けた《アイダホ》は、活火山のように全艦を灼熱の炎で焦がしながら爆沈した。真珠湾の生き残りの《ペンシルヴァニア》、太平洋艦隊旗艦すら務めたこの戦艦は、魚雷多数を受けて完全に行動不能に陥った。《ニューメキシコ》《ミシシッピ》《コロラド》もいったい何をするためにこの海域まできたのか問いたくなるほどのダメージを受けていた。
 中でも致命的だったのは、上記した戦艦の全てが魚雷を複数受けている事だった。とてもではないが、日本の戦艦と砲撃戦ができる状況ではなかった。
 アメリカ軍にとって幸いだったのは、距離があった事と時間が押し迫っていた事から、それ以上日本軍機の空襲を受けなかった事で、短時間で艦隊を再編成すると突撃を継続した。
 以下がその時の陣容だ。

 戦艦:《サウスダコタ》《ワシントン》
 戦艦:《メリーランド》《テネシー》
 重巡洋艦:五隻 

 これらが二つの艦隊で戦闘可能な主要水上艦の全てで、本来なら撤退するしかないダメージだったと言えるだろう。
 そして、その後もしつこくつきまとう日本軍偵察機は、米艦隊の動向と伝え続けた。この報告を分析した日本艦隊は、アメリカ軍の意図が夜間戦闘と艦砲射撃によりジョンストン島近海の戦力を撃滅し、こちらの意図を挫くことにあると判断した。
 そうでもなければ説明がつかないからだ。
 そして、ほぼ初期編成のまま米艦隊の挑戦を受けることを決意し、二十四ノットに増速して米艦隊を目指した。
 この時両艦隊は四十五ノット(時速約八十キロメートル/h)の相対速度で急速に接近しており、アメリカ軍が意図したよりも早く会敵する事となる。
 つまり、両艦隊は四〇〇キロメートル以上の距離を、互いに全速力で駆け抜けた結果、五時間ほどで詰めてしまったのだ。
 夕陽が西の海へと強く傾き始めた午後五時四十六分、まずは《サウスダコタ》に搭載されたSGレーダーが急接近しつつある二つの大艦隊を捉えた。日本側は、偵察機の報告に従い二つに分かれて包囲するように距離を詰めていった。
 そしてこの時点で、アメリカ軍は自らの判断の誤りを知る事になる。ヤマモトの主力艦隊は戦艦二隻などではなかったのだ。戦艦四隻、しかも戦艦を巡洋艦と誤認させるほどの巨大戦艦と、それまで日本海軍最強だった《長門級》戦艦から構成されてる事を肉眼で確認したのだ。
 そしてその驚きは、日本側が距離三八〇〇〇メートルで新型戦艦が砲撃開始した事でピークに達する。
 確かに六月のミッドウェー守備隊から、日本海軍が新型戦艦を投入しているという報告は受けていた。だが、それは自らが建造中の新型戦艦程度と一方的に思いこんでいたのだが、その常識は日本人の前には全く通じないことをこの時痛感させられる事となった。
 しかもその代償は、これから幾千幾万のアメリカ軍将兵の血であがなわなくてはならないのだ。
 冗談ではなかった。
 だが、既に砲撃戦は開始されており、速力的に劣る自分たちが逃げることは許されず、数・質において劣る米艦隊側が勝利する可能性は極めて小さなものだった。

 日本の新造戦艦《大和》と《武蔵》はついに敵戦艦に対して砲火を開いたのだが、その攻撃は当初お世辞にも誉められたものではなかった。
 確かに、長距離射撃で精度が下がるのは仕方のない事だが、最初に米艦隊近くで奔騰した水柱は、日本一の砲術員の手によるものとは思えない程離れていた。あまりの距離に失望のため息が漏れたと言われている。
 しかし、斉射を重ねると急速に精密度を増していった。要するに、単なる訓練の不十分、データの不足が精度の甘さをもたらしたのだ。データさえあれば職人芸レベルで熟練した日本の砲術員たちは、すぐにも魔弾の射手へと職業を転向していく事になる。
 しかし、距離三五〇〇〇でアメリカ軍が砲撃を開始しても《大和級》戦艦二隻のデータの修正は続いており、その成果が見られるのはもう少し後の事だった。
 それよりも驚くべきは、アメリカ軍同様距離三五〇〇〇で砲撃を開始した《長門》と《陸奥》だった。彼女たちが二隻が送り出した十六発の砲弾は、目標とした戦艦を包み込むように落下し、この海上戦闘で最初の命中弾を出した戦艦という栄誉を勝ち取った。
 そして、その後日米の戦艦同士による四つに組んだ砲撃戦が行われたが、距離二五〇〇〇あたりで状況が大きく変化していった。
 変化を強要したのは、いずれも日本側の手による。《大和》《武蔵》の砲弾が、的確に命中弾を出すようになった事、迂回して包囲しつつあった第二艦隊が本格的な攻撃を開始した事、そしてそれにあわせて二つの日本艦隊に属する水雷戦隊が突撃を開始した事だった。
 これらの変化により、戦闘の密度は一段と高まり、そして米艦隊に降り注ぐ砲弾の数は数倍に達した。
 それまでは戦艦だけが砲弾を投げ合っていたのだが、この日本艦隊の包囲と接近により、巡洋艦や駆逐艦も砲撃を開始したからだ。
 また、第二艦隊に属していた《金剛》《比叡》は、位置の関係から最初は戦艦の後ろに続いていた重巡洋艦を狙ったので、アメリカ軍の近接防御密度が大きく低下し、そのスキに日本の巡洋艦と駆逐艦が雷撃をすべく急接近した。
 日本の水雷戦隊と巡洋艦戦隊は、アメリカの同種の兵力と激しい殴り合いを演じたが、絶対数の差と陣形の優劣からアメリカ側の艦艇の損害が倍以上に多くなった。日本側が距離一四〇〇〇と八〇〇〇で統制雷撃を行った時、その半数近くが深く傷ついていた。
 そして、約三〇隻の艦艇が放った総数約四〇〇発にも達する、日本海軍の秘密兵器九三式酸素魚雷は額面通りの性能を発揮した。十字砲火の形で投網のように射出された魚雷は、演習にほぼ近い形で四〇数発が敵艦の進路と交差、その証である大きな水柱が夕日に映え赤々と奔騰していった。
 日本艦隊完勝の瞬間だった。
 この時までに全ての米戦艦は戦闘力の多くを喪失しており、《ワシントン》に至っては戦闘開始三十分を待たずして砲撃のみで波間に没していた。
 戦艦部隊の旗艦でもあった《サウスダコタ》は、新型戦艦である矜持を見せつけるように《大和》の砲弾によく耐えたが、十八門の四十六センチ砲の攻撃に加えて複数の魚雷まで受けてはどうにもならなかった。大きく傾いたところに絶妙の角度から《大和》の九一式徹甲弾が飛び込み、それが引導となった。
 そして米艦隊旗艦爆沈が戦闘のカーテンコールとなる。

 この水上戦により、アメリカ軍は重巡洋艦二隻を除いて全ての主要艦艇を喪失し、ここだけで一万人以上の死傷者をだして惨敗する。
 しかも日本の水上艦隊の大型艦に損失艦はなく、損害の大きなものでもせいぜい中破で、過半がその後のハワイ攻略に従事している。
 なお、日本側の損害が少なかったのは、米打撃艦隊が司令部の命令を守り《大和》《武蔵》に攻撃を集中したにも関わらず、強靱すぎる《大和型》戦艦の装甲は設計通りの性能を発揮してこの攻撃に耐え、アメリカ軍の攻撃が実を結ばなかったからだ。

 そしてこの水上戦闘は、ハワイでの戦闘の象徴と言われ、この時日本のハワイ作戦の成功は約束され、さらに日米停戦の布石は盤石のものとなった。
 その後の米大統領辞任、日米停戦、サンフランシスコ講和会議の開催、アメリカのモンロー主義への回帰、枢軸国側の相対的勝利へと続く。
 この結果が全体主義、資本主義、共産主義による『トライアングル・イデオロギー』と言われる対立構造の出現、というその後の連鎖を生んだと言えるだろう。
 功罪は別にして、ハワイ沖での戦闘が歴史の転換点と言われるのはこのためだ。


 

 

 

■解説もしくは補修授業「其の伍の壱」